お嬢様からの手紙
暑苦しい真夏にも、好ましい点がある。日没が遅いことだ。
久しぶりに時間のできた昼下がり。午後四時に店を閉じても、外は明るく、空は青かった。
今日は何の予定も入れていない。薬の在庫も充分。酒場の手伝いもなし。売春宿のトレーニングもお休み。屋敷の仕事もない。ついでにドロル達と剣術の練習をする約束もない。
なんだか、急に晴れやかな気分になってきた。
どうしよう。忙しかったのに、ポッカリ時間ができると、こう、わくわくして落ち着かない。あれもこれもやりたくなってくる。理想を言えば、散歩に出たい。ゴミゴミした街中じゃなくて、緑の美しいところだ。そう、ミルークの収容所を出る前に遠足に出かけた時の、あの森の中の泉みたいな場所で、のんびりしたい。
でも、それは無理だ。身分が奴隷である以上、勝手な外出は許可されていない。城門を通り抜けるのに、自分一人ではダメなのだ。それに、この近場の風景では、きっと満足できない。ちょっと遠くまでいって、気分転換をしたいのだから。
なら、いっそ、久しぶりに鳥になろうか。青空の下、悠々と飛び回るのは、さぞかし心地よいことだろう。だが……
居間の扉が開いた。
「私のフェイ君は……いた!」
俺には同居人がいる。アイビィがここにいる理由。グルービーは彼女に、俺の変身を目撃させたいに違いない。だから俺は、ずーっと能力の行使を我慢しているのだ。
彼女のことは信用している。なにせ、共に命懸けで戦った仲なのだ。とはいえ、彼女は忍者。任務は任務と割り切るかもしれない。
「いるけど、どうしたの?」
「ううん、何にもないけどー」
そう言いながら、靴を脱いで、あがりこんでくる。
「私ものんびりしにきたんですぅー」
見張られてる、と考えるのは、やめておこう。実際、今の彼女にそんな意識があったとは思われない。
俺は軽く溜息をつくと、手元の本を取った。
「ん? 何を読んでいるんですか?」
月々の収入の余りで、俺は少しずつ、本を買い足していた。魔術の教本は高いので、なかなか手が出せないが、普通の本でよければ、そこまでコストもかからない。それでも、前世基準で考えると、五倍から十倍近い値段になるのだが。
俺が今、軽く目を通そうとしているのは、世界中の名所について書かれた、いわゆる旅行書だ。
「ルークの世界誌。今から二百年前に、世界中を歩き回った人の記録だよ」
「へぇ」
一度、パラパラと目を通した。もちろん、ただの読み物として買ったわけではない。俺が求めたのは、情報源だ。
ルーク・ハシルアーは、世界中のあらゆる地域を踏破した、大旅行家だ。ワディラム王国に生を享け、そこで医学と薬学を修めたエリートだったが、ある時、冒険の旅に出かけようと決めた。その原動力は、あくなき好奇心だ。とはいえ、彼は薬学の研究者でもあり、世界中の様々な素材を調べたい、という目的もあったらしい。
最初、足慣らしとしてサハリア全土を歩き回った。その後、北上してムーアン大湖沼に至り、更にセリパシア神聖教国に達した。そこから東進してアルディニア王国、南下してエスタ=フォレスティア王国の地を踏んだ。ピュリスから船に乗ると、サハリア東岸の港を周りながら、ついに南方大陸に辿り着く。
南方大陸の大森林には、不老長寿をもたらす謎の果実がある。そう聞かされた彼は、無謀にも、その奥地を目指そうとした。
「面白いんですか?」
「ああ、面白いよ。特に、南方大陸の探検の話なんかはね」
「ふぅん」
結論から言うと、彼は不老長寿の果実を発見できなかった。だが、その重大な手がかりを発見したのだ。
彼は、過酷な大森林での探検中に、とある人物に出会った。その彼は、最初、その身分を知られまいとしていたが、博識なルークをごまかすのは不可能だった。男は、南方大陸西岸の、富み栄えるベッセヘム王国の王子だったのだ。
問題は二つ。まず、どうしてそんな身分の男が、こんな森の中に隠れ住んでいたのか? 理由は簡単で、王宮にいた頃に権力闘争があり、彼はそれに敗れたのだ。
だが、もうひとつの方が問題だった。彼のいう政争は、百年も前の出来事だったのだ!
男は見るからに若々しかった。少なくとも、百年もの時間を生き抜いてきたようには見えなかった。だから最初、ルークは、男が嘘をついているのではないかと疑った。しかし、問いかけを繰り返すうち、その疑問はより違った方向に向けられていった。というのも、その男は明らかに高度な教育を受けていた。ルークの意地悪な質問にも、巧みに答えてみせたのだ。
だいたい、彼は自分の身分を隠そうとしていたし、出自を明らかにすることで得られる利益もない。それにまた、こんな森林の奥地で暮らしていた原住民にしては、教養がありすぎる。それでルークは、不老長寿の秘薬への手がかりを得たのだと悟った。男は最初、ルークの願いを拒絶した。だが、度重なる懇願に根負けして、ついに道案内を引き受けた……
「フェイ君も、男の子ですからねぇ」
「うん、まあね?」
「剣術の次は、大冒険ですか」
「あー……」
だが、その探検は、失敗に終わる。
あと少し、というところで、不運が度重なったのだ。それまでも、ルーク達は無数の危険を乗り越えてはきた。吸血虫の群れ、人食い魚の不意討ち、無数の断崖絶壁や、突如荒れ狂う暴風雨……だが、その最後の最後で、巨大な緑竜の襲撃を受けたのだ。
緑竜。それは陸上では世界最大の魔物とされている。この世界、魔物としての竜は、四種類存在する。ムーアン大湖沼に棲息する黒竜。ハンファンやサハリアの砂漠地帯に居を構える赤竜。東の海にて稀に発見される青竜。体の長さだけなら青竜のが、翼を広げた際のサイズなら黒竜が、緑竜に勝っている。だが、緑竜は、その体重と筋力において、他の追随を許さない。
圧倒的な質量で迫り来るそいつは、森の木々を薙ぎ倒しながら、一行に圧し掛かった。なんとか全滅は免れ、逃げ延びたものの、案内役を務めた男が重傷を負い、まもなく息を引き取った。物資のほとんども失った。こうしてルークは、目的を果たせずに、大森林を後にしたのだ。
彼の記録には、不老不死に至る手がかりが、二つほど記されていた。
一つは大森林の不老長寿の果実。もう一つは、ハンファン大陸にあるという、神仙の山。俺が自由になったら、どちらも目指してみたいところだ。
「……アイビィは、行ってみたいところとか、ある?」
「んー……」
「ないの?」
「うー、いや! ある!」
「へぇ、どこ?」
「アルディニア王国ですね。だって、ほら。美食の都があるじゃないですか」
二つに割れたかつてのセリパシア帝国の、東側だ。こちらはセリパシア神聖教国と違って、より世俗的な国になった。セリパス教が国教とはいえ、宗派は『神壁派』で、戒律も緩い。
なかなか楽しそうな国ではあるが、行く予定はなかった。つい最近までは。
リンから、聖女の不老不死伝説についての話を聞いてしまっては、セリパシアにも行かざるを得なくなった。それに、ワノノマにも。姫巫女も不死身らしいから、これはぜひとも、秘密を解き明かさなくてはならない。
「フェイ君は、行きたいところがあるんですか?」
「うん。いろいろね」
「いろいろじゃ、つまんないですよ。あえて言うなら、どこですか?」
「んー……じゃあ、サハリアかな?」
「ついこの前、行ったじゃないですか」
「そうじゃなくって。東側に行きたいんだよ。ネッキャメル氏族の、とある人に会いたくてさ」
ミルークが、弟にして現族長のティズに会え、と言った。
彼のことだから、きっと俺のためになると考えて、そう言ってくれたのだ。だから、どこかで顔を出そうと思っている。
ただ、俺がサハリアに行くとすれば、もっと別の狙いもある。中央部にある『人形の迷宮』。それが俺の目的地だ。近くには『赤竜の谷』もあり、危険極まりない。だが、そこにも俺の求める「不老不死」がある。
ただ、それは普通の人からすれば、ひたすらにおぞましいものだ。俺の考える不死とは、他の人のイメージとは少々かけ離れている。もはや長生きして楽しい生活をしたいのではない。「もう一度生まれないこと」を最優先にしているので、その意味では「死んでも構わない」のだ。そして、この迷宮には、俺の求めて止まない「永遠の死」が存在する可能性がある。
この『人形の迷宮』も、世界的に有名で、屈指の危険度を誇るダンジョンだが、同じくらい恐ろしい場所なら、他にもあちこちにある。
例えば、セリパシアのどこかにある『魔宮モー』。これは、迷宮そのものの危険度もさることながら、曰くつきなのが怖い。というのも、この迷宮に迷い込み、脱出を果たした幸運な人達は、一年以内に全員死亡しているのだ。そういうわけで、今では、正確な場所すら伝わっていないという。
俺は、本を窓際に投げ出した。
「うん、やっぱりもったいないかな」
「何がですか?」
「せっかく天気もいいんだし、ちょっと散歩しようかなって」
「あ! じゃ、デートですね!」
言ってろ。まったく。
もうすぐ一年になるが、このバカノリは、少しも変わらない。
靴を履いて部屋を出る。そして、薄暗い一階に降りた。そこで物音に気付く。
玄関の扉を、弱々しく叩く音。
「はぁい?」
来客、と思って、俺はすぐに扉を開けた。
そこには、銀髪の少女が一人。
「あっ」
「ごきげんよう、フェイ」
じとっとした視線が突き刺さる。相変わらず、俺のことを毛嫌いし続けているナギアが、わざわざここまでやってきたのだ。
「あらあら、かわいらしい子ねぇ。いらっしゃい、お嬢ちゃん」
アイビィが身を屈めながら、そう声をかけると、ナギアは途端に笑顔を作った。
「ナギア・フリュミーと申します。今日は突然、お邪魔してしまい、申し訳ありません!」
「わぁ、しっかりしてるのねぇ。かわいいわぁ」
確かに、外面はかわいい。外面だけは。
「えっ……と、ナギア。それで、今日は」
すると彼女は、口元だけは笑みを浮かべ、それでいて鋭い視線を向けながら、俺には、抑揚のないやや低い声で、早口に言った。
「お嬢様がお呼びよ。用事がないなら、ついてきなさい」
「えっ」
散歩しようと思っていたのに。
ま、仕方ないか。俺は奴隷だ。そうでなくても、まだ召使の立場なのだから。
「それから」
懐から、彼女は封筒を取り出した。
「手紙よ」
「手紙?」
「お嬢様から」
はて?
変なことをするものだ。これから会うのなら、直接、用件を言えばいいのに。
そう思って、俺はナギアの目の前で開封し、中から手紙を取り出して、広げた。
次の瞬間、俺はそれを、メチャクチャに引き千切った。そしてそのまま破り捨てようとして、やめた。代わりにグチャグチャに丸めて、ポケットに入れる。
「な、何をするのよ!?」
あまりの非礼に、ナギアが抗議の声をあげる。
お嬢様からの手紙に、なんてことを。奴隷でなくても、いや、召使でなくても。この非礼は懲罰モノだ。
だが、俺は何とか言い繕った。
「破り捨てろ、って書いてあったんだ。仕方ないよ」
「ええっ!?」
俺の言い訳に、ナギアは目を丸くする。
「アイビィ」
「はぁい?」
「お屋敷に呼ばれちゃったから。ごめんね」
「うんうん、いってらっしゃい」
俺は背後のアイビィの笑顔に見送られながら、玄関を出た。
「……このことは、お嬢様に報告するわよ?」
「もちろん。問題ないから、構わないよ」
脅してるつもりなんだろうが。
俺としては、それどころではなかったのだ。
あの手紙には、たった一文だけ。
こう書かれていたのだから。
”そろそろ鳥になりたい”
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