第十章 交錯
生きた教材の楽しいレッスン
足元にはシュライ産の涼しげな敷物。そろそろ紅玉月だ。春までは絨毯でもよかったが、この時期となると、足元が暑苦しいのも耐え難い。
ソファにも、藺草っぽいカバーがかかっており、おかげで夏場のベトベトした感じが、かなり緩和されている。
「閣下は、顔も見たくないとおっしゃった」
無表情にイフロースが言う。
顔も見たくない、とは俺についての話だ。
「奴隷のことなどは、お前で始末をつけておけ、とな」
そう言いながら、彼は鼻を鳴らした。
イフロースの内心は、どうなっているのだろう? 主人が仕えるに値しない人物なのはもう、彼の中でもハッキリしているはずなのだ。
忘れがちなのだが、彼自身、子爵家では外様だ。先代子爵の時代に、なぜかいきなり顕職を占めるようになった。だがその前はといえば、お世辞にも上品とは言えない、傭兵部隊の頭目だったのだ。
傭兵とか、冒険者の業界というのは、実力本位の連中がウヨウヨしている世界だ。そのまま、ならず者の仲間に身を落とす連中もいれば、武名を高める人物も出てくる。ピンからキリなのだ。そして、そんな世界でいろいろな人間を見て生きてきた彼が、サフィスを高く評価しているはずもない。うわべだけは立派でも、いざ、何かあると簡単に取り乱す。道場ではカッコよくても、実戦では役に立たないタイプだ。
だが、不満らしい不満は、決して表情には出さない。いったい、何がどこでどうなったのか。今ではキッチリと燕尾服を着こなし。口にする言葉は堅苦しく。生まれた瞬間から執事だった、と言われても信じてしまいそうなくらいだ。
「そうですか」
しかし、言葉の端々に、それとなくニュアンスを感じることはある。今の会話もそうだ。
サフィスが、俺の顔を見たくないと言った。奴隷のことなど、と見下すような言葉まで、わざわざ俺に伝えてきている。こんなのは、むしろ口に出すべきことではない。俺の子爵への忠誠心が、下がるだけだからだ。
では、なぜこんな発言が出てくるのか? 子爵と一緒になって、俺をけなしている? ばかな。イフロースは、そんな無駄なことはしない。相手が奴隷だからといって、いちいち見下す人間ではない。身分より中身を、結果を見る。その意味では怖い男でもあるし、また信用もできる。
これは、彼なりのメッセージだ。お前に対してはもう、子爵を立派な主君と信じさせる努力は諦めた。だが、私を信じろ。お前のために、サフィスに頭を下げた私を。
「それで、後始末は?」
「譲渡奴隷を解放して、店長に任命します。なるべく早い段階で、僕の手から離します」
「なら、いい。子爵家は今後、この件については一切触れない」
売春婦になるしかない犯罪奴隷達。俺の収入で、全員にタダ飯を食わせていくなどできない。といって、積極的に彼女らを引き取ってくれるところもない。いるとすれば、それはろくでもない相手だけだろう。
だから、不本意ながらも、一時的にだが、俺は子供店長を「兼任」する。つまり、エンバイオ薬品店の店長と、売春宿のオーナーを、両方やるのだ。たった七歳で、女に春を売らせる男になるわけだ。俺の人生、いったいどうなっているのだろう?
ただ、そうなると、いろいろ立場の問題が出てくる。子爵家の召使が売春宿。この構図はまずい。そこで、少しだけグルービーの名前を借りることにした。
「……だが、これで借りができたな? フェイ」
「今年中に、一度、挨拶に行くことになりました」
「その程度で済んでよかったではないか」
まったくだ。
グルービーは、自分の名前でピュリス市内に売春宿を構える件について、快く許可をくれた。ただ、彼からの手紙には二点だけ、注文がつけられていた。
『フェイは一度、コラプトに出向いて、直接この件についてグルービー本人に説明すること』
『一時的とはいえ、グルービー商会の名前で風俗店を営む以上、接客において高い水準を保つこと』
コラプトの売春街は、エスタ=フォレスティア王国では有名だ。俺も一度、目にしたが、旅の商人の一部は、あれを目当てにしている。必然、好き者達の間では、グルービーの名声も高い。それが、彼の名前で店を始めたはいいが、質が低いというのでは、名折れになる。
「しかしな」
イフロースは、座り直して話を続ける。
「私はまだ、お前を子爵家から自由にしてやるつもりはないぞ」
「はい」
「グルービーに買い取らせるつもりはない、ということだ。わかるな?」
「はい」
俺も、奴に買われるつもりなどない。しがらみなんか、まっぴらなのだ。
「であれば、よい。今回、子爵家の敵を炙り出すこともできた。お前は問題も起こすが、好ましい変化のきっかけにもなっている」
「そうおっしゃっていただけて、心の重荷が下りるような気が致します」
「ふん」
心にもないことを、というイフロースの言葉は、飲み込まれている。
俺の本音など、とっくにわかっているのだろう。だが、彼はこの子爵家に秩序をもたらそうとする立場の人間だ。目下の人間が、形だけでも恭しい態度をとっているのに、それを否定したりなどはできない。
「ともあれ、お前への罰はなくなったが、お前への褒美もなくなった。残念か?」
「いいえ、とんでもありません」
俺がそう答えると、イフロースは、凄みのある笑みを浮かべた。なんだ? こんな顔、はじめてだ。見たこともない獰猛な表情じゃないか。
「ふふふ……遠慮するな」
「はい?」
「閣下がお前に褒美をくださらぬというのなら、私からお前に贈り物をしてやろう」
「はっ……ありがとうございます?」
はて? 様子がおかしい。
内心の疑問符が消えないうちに、イフロースは立ち上がった。
「外に出よ」
「は?」
「お前への褒美はな……ここでは渡せそうにないのでな」
そう言うと、どんどん歩いていってしまう。ついていくしかない。
東門への広い通路を渡って、使用人棟に囲まれた、いわゆる「仕事場」に、イフロースは分け入っていく。昼時というのもあり、慌しく立ち働く人はいない。
屋敷を管理する家宰の突然の訪問に、くつろいでいた人達の表情には緊張が走る。半ば寝転ぶようにしていた男達が、慌てて身を起こす。だが、イフロースは周囲にまったく注意を払っていない。
「この辺でよかろう」
足元は石畳。周囲十メートル四方は、遮るものもない。
ただ、その向こう側には、人垣ができている。見知った顔も、いくつか。カトゥグ女史もいる。裁縫道具を片手に、ナギアまで駆けつけてきている。多分、この近くで針仕事でもしていたのだろう。
「よし、あれを持ってこい」
近くに立っている男に、イフロースは言いつけた。その男は、何かを心得た表情で頷くと、足早に去っていき、またすぐに戻ってきた。その手には……二振りの剣があった。
「お前の体では、この短いほうを使うしかないだろうな」
そう言いながら、イフロースは、剣を投げて寄越す。思わず受け取ったが、しっかり重さがある。まさかと思って鞘から引き抜いてみる。目に眩しい銀色。鉄製だ。但し、刃は潰してある。
「切れないとはいえ、油断すれば、大怪我をするぞ?」
そう言いながら、いつの間にか彼は、剣を引き抜いている。
「準備はいいな? フェイ」
「な、なんのですか」
返事はなかった。
頭上から迫る銀閃。それを俺は、何とか受けきった。
「何をなさるんですか、ご無体な」
「心外だな」
構えを崩さず、イフロースは涼しげな笑みを浮かべる。
「お前が退屈そうにしているから、相手をしてやろうと思ったのに」
すぐさま、次の一撃が迫ってくる。それもなんとか、ギリギリで受ける。だが。
これは……様子見の攻撃だ。まだ全然本気じゃない。
「怪我をしたくなければ、全力を出すことだな?」
これは……どういうことだ? 訓練、か?
それとも、イフロースにとっての確認だろうか? 彼は俺が、たくさんのチンピラ相手に戦うところを見てしまっている。大きな切り傷を負った男達も。あれをやったのが誰かなんて、確認するまでもない。
だが、のんびりと考えている余裕はなさそうだ。俺は剣を構え直す。
「ほう」
イフロースは嬉しそうに笑みを深くする。
「なかなかサマにはなっておるな」
だが、口先で誉めるばかり。顔と体の動きが一致していない。切っ先を蛇のようにくねらせると、それは的確に俺の首元を狙ってくる。
「どれ、見せてみよ。防いでばかりでは勝てぬぞ」
無茶なことを。
ただでさえ、大人と子供の体力差、体格の違いがある。その上、剣術の技量でも上。身体強化薬をこんなところで使うわけにもいかないし、まともに戦い抜けるわけもない。
ええい、こうなれば、やけだ。やれる限りのことをするだけ。やぶれかぶれで反撃に出る。
だが、所詮は俺だ。どの一撃も、簡単にあしらわれてしまう。
「ふぅむ……」
イフロースは、何やら思案顔になっている。
「思った通りだが……これはいかんな」
そう呟くのが聞こえた。
これはいかん、とは、何がいけないのだろうか。
一方、周囲の人垣は、少しずつ盛り上がり始めていた。たびたび騒ぎを起こすフェイが、今度は剣術で執事と技を競う。それも、凄腕と有名なイフロース相手に、ここまで粘っている。
傍目にはいい勝負に見えるのだろう。一瞬、視界の隅に映ったナギアも、驚きの表情を浮かべていた。だが、実際には俺が遊ばれているだけだ。
ブン! と力強い一撃が振り下ろされる。
今度は受け流そうと体をよじるが、それを見越したように、その軌道が変化し、俺は横殴りにされる。
床に叩きつけられながらも、俺は即座に頭上を見上げる。
太陽を背負って、黒いシルエットだけになった彼が、また剣を振り上げていた。転がる。
誰かの足に当たって動きが止まる。
くそっ。
起き上がって、俺は反射的に『行動阻害』の呪文を唱える。
「くっ!?」
イフロースの体が、僅かに揺れる。いまだ。
そう思って切りかかったところを、また剣ごと打ち払われて、吹き飛ばされる。今度は人垣を抜けて、庭の植え込みのあたりにまで転がされる。
「その程度か、なるほどな」
そう言いながら、彼は静かに歩み寄ってくる。
やっぱり強い。
人垣を割って、イフロースが歩み寄ってくる。
周囲の取り巻きの空気が、少し妙な感じになってきている。それはそうだろう。子供相手の訓練にしては乱暴すぎるし、腕比べというには殺伐としすぎている。
「こんなものでいいのか? フェイよ」
「くっ……」
俺の一撃を軽く受け止めると、そのまま体を沈めて、体重をかけてきた。そのまま、彼は小声でそっと言う。
「お前が『子爵家に見るべきものなどない』などと言い出しかねんから、わざわざ私が出てきてやったというのにな?」
なるほど。
これが彼なりの『取引』というわけか。サウアーブ・イフロースという生きた教材に興味はないか? 但し、覚悟がなければ大怪我をする。
なんて物騒な教科書だ。
けど、この状況を、どう打開したものだろう。
彼は、俺の全力が見たいのだ。資質を確かめたいのだ。だが、身体強化薬も使えないし、目潰しも今日は持っていないから、もうネタ切れだ。でも、だからおしまいです、まいった、なんて言ったら……うん、そんなの通用しそうな相手に思えない。実戦でそれでは、死ぬだけだからだ。
……いや、待てよ?
「あの」
「ん?」
「まいりました」
鍔迫り合いをやめて、後ろに下がり、地面に膝をついて、俺はそう言った。
途端に周囲から、拍手が沸き起こる。子供にしてはよく頑張った、いい勝負だった……だが、イフロースは不満げに鼻を鳴らした。
……ここだ。
俺は、足元の砂を、イフロースの顔に向かってぶつけた。
そして、手放した剣を拾い上げ、彼の足を狙って飛び出す。
視界を奪われたイフロースは、闇雲に剣を振る。だが、そこじゃない。俺の顔は、その切っ先の二十センチ先……
「ぐはっ!?」
あ……れ?
気がつくと俺は、背にした樹木に後頭部を打ち付けてしまっていた。
なんだ? どうして吹っ飛ばされた?
辺りは静まり返っている。
当然か。
俺は今、負けたと言いながら、いきなり奇襲を仕掛けた。卑怯この上ない。ああ、あとでまた、ナギアあたりにチクチク言われるんだろうなぁ。
でも、イフロース相手に勝ち目があるとしたら、あれくらいしか……
「……ふっ」
ようやく目元の砂を払ったイフロースが、妙な声を漏らす。
「ふっ……ふっははは! ははははは!」
周囲とは対照的に、彼は生き生きとした笑顔を浮かべていた。
「なんだ、大事なことは、ちゃんとわかっているじゃないか」
普段の真面目そうな執事の仮面はどこへやら。むしろ野生的な雰囲気さえ漂わせながら、彼は言った。
「気が向いたら、また来るといい。時間があれば、相手をしてやろう」
そう言うと、足元に転がる俺の剣を拾い上げ、群衆を掻き分けて歩き去っていってしまった。
ややあって、集まった人達も、首をかしげながら三々五々、昼休みの続きをと散っていった。
俺だけが庭の木の下に取り残される。
これは……今後も稽古をつけてもらえる、ということでいいんだろうか?
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