卑しい者と、更に卑しい者と

 帰途につく頃には、日は完全に落ちていた。

 とりあえずのところは、罰せられることはない。だがこれで、引き取った彼女らの扱いが、より難しくなったのは間違いない。


 大通りに出て、三叉路に近い辺りを、南に向かって歩く。ふと、人だかりができているのに気付いた。

 あれは……いつもの酒場じゃないか!


「迷惑になるから! ね? ここに泊まってるお客さんもいるんだから! 下がって!」


 店長が喚きたてている。


「犯罪者を出せ!」

「ここは悪人を匿うのか!」


 そして彼を取り囲むのは、三十人くらいの男女。よく見ると、大きく分けて、二つのグループに分けられる。一つは、中高年女性の集団。もう一つは、割と粗末な服装の若い男性だ。


「店長!」

「おっ、フェイか。早く、中に入れ!」


 出入口に立ちふさがる店長の脇を、滑り込むようにして中に駆け込む。

 くそっ、なんてことだ。リンの奴、信者を扇動して、こんな嫌がらせまで。


「あっ、フェイ君……まずいことになりましたね」


 一階の酒場に腰を据えていたハリが、立ち上がって迎える。


「どういうことなんですか」

「よくはわかりませんが……子爵家が犯罪奴隷の売春婦達を使って、何か悪事に手を染めていたとか」

「そんな」


 よくもそんな嘘を。

 絶対にタダじゃおかない。


「他の三人は、まだ戻ってきていません。二階に行ってあげてください。みんな、不安に思っているはずです」

「わかりました」


 言われるままに、俺は二階に駆け上がる。


「皆さん、無事ですか!」


 そのまま、手前の扉を開けた。


「……ノックくらいしな。娼婦だって、タダで裸を見られたくなんかねぇんだよ」


 息せき切って駆け込んだ俺とは対照的に、言葉を返したガリナは、落ち着いていた。ただ、声色には暗いものが混じっていたが。


「済みません。それより、外が大変なことになっています」

「わぁってるよ。出ろってんだろ」

「いえ。時間を稼ぎますので、裏口からこっそり出てください。いったん、うちで」


 俺がそう言うと、彼女はポカンとした顔をした。


「なんでそこまですんだよ、あんたは」


 なんでって……

 なんでだろう。

 最初は、無性に腹が立ったからだ。でも、確かに。

 何が何でも守らなきゃいけないものじゃない。俺にとっては。

 なのにこだわるのは……


「ま、いいけどな」


 そう言いながら、ガリナは立ち上がる。


「どこへ行くんですか」

「外に出んだよ」

「そうしてください。今、安全を確認しますから」


 俺が前に立とうとすると、それを彼女が手で制した。そして、他の女達も、黙って立ち上がる。他二つの部屋の奴隷達も、状況を察してか、そろそろと出てくる。


「あー、サディスは残りな。さすがにガキにはキツいわ」

「何を言ってるんですか。全員逃がしますよ」

「まぁだボケてんのかい、あんた」


 そう言いながら、ガリナは鼻で笑う。

 いきなり俺の手を掴み、彼女はまた、部屋の中に戻った。窓際、カーテンの隙間から、外を見やる。かすかな照明の中、数人の男達の顔が浮かび上がる。一番声高に叫んで、店に押し入ろうとしている連中だ。


「リーア? 見えるかい? あんた、目がよかったろ」

「間違いない。知ってる顔」


 何のことだろう?

 疑問が顔に出たのがわかったらしく、リーアは俺に言った。


「あれは、前のお店の常連客」

「えっ?」

「あれと、あれと、あの男も。よく来てた」

「ええっ? な、なんで?」


 わからない。だったら、ここには何しに?

 彼らの身なりは、いかにも貧しそうで、汚らしい。だから、安い娼婦しか買えないのはわかる。


「なぁ、あたし、前に訊いたよな?」


 ガリナが皮肉めいた笑みを浮かべる。


「あたしらにどうして客がつくのかって。理由、わかるかい?」


 俺は黙って首を振った。


「ふん! あいつらはね……女を抱きたいんじゃないのさ。きれいな女、かわいい女、素直な女。そんなもん、見たくもねぇのさ」

「それじゃ、どうして」

「まだわかんないのかい? あいつらが見たいのは、最低の女なのさ。クソまみれの底辺」


 そう言うガリナは、形容しがたい嗜虐的な感情を顔に浮かべていた。


「ほら、あいつらの格好、顔つき。見るからに貧乏だろ? 譲渡奴隷か何かの荷運びで、まぁ、犯罪者スレスレの底辺の連中さ。要するにチンピラだね。手に職もないから、たいして貯金もできやしない。どうせ一生、この境遇から抜けられない……でも、そこであたしらがいるわけさ」


 リーアが説明を引き継ぐ。


「犯罪奴隷。世界で一番下の身分。死んだほうがマシな女」


 顔を包帯でグルグル巻きにされたエディマも言う。


「あの……人達、私の顔が、好きだったんだよ……汚い肌、で、腫れ上がってて……見るたび、嬉しそうに笑ってた……」

「そんな……」

「ま、わざとなんだろな?」


 せせら笑いながら、ガリナは続けた。


「あいつらの雇い主にしてみりゃ、いいガス抜きだ。酷使しまくって、下手に反乱でも起こされたら、たまんねぇからな」


 弱いものが、更に弱いものを叩く。明るい交易都市の、暗い側面。平穏な日常の影に、そんなおぞましいものが蠢いているとは。

 いや。前世だってそうだったじゃないか。コンビニに売られているチョコレートがどこで生産されていたか、いちいち考えたか? 喫茶店のコーヒー豆は? 婚約者に贈るダイヤモンドは?

 世界のどこかに歪みが、澱みがある。ただ、普段はそれを見ないで済んでいるだけなのだ。


 これで説明は済んだ、と言わんばかりに、ガリナはカーテンを戻した。


「だからさ。あたしらがあそこでツバでもぶっかけられないと、収まんねぇんだわ」

「それは、危険で」

「犯罪奴隷なんざぁ、死んでもともとなんだよ」


 そう言って、彼女は部屋を出て行こうとする。


「ウソだ」


 思わず、言葉が口をついて出る。


「人殺しが、そんなこと、言うわけない」


 自分の声が震えているのがわかる。

 口は悪くても、今、彼女らは、俺や店長に迷惑をかけまいとして行動している。そのために勇気を振り絞って、自身を危険に曝そうとしているのだ。だが、それが人殺しの行いだろうか? 卑劣で利己的な殺人者が、そんな考え方をするはずがない。


「自分のことだけ。自分さえ助かればいい。だから、自分以外の誰かを殺すんだ。怖いから、臆病だから」


 そう。臆病だから。

 だから、俺は殺した。

 ……今、じわじわと、心の奥底から、いやなものがせり上がってきているのを感じている。


「まぁ、そうかもなぁ?」


 ガリナは足を止めて、振り返った。


「言われてみりゃあ、そうかもな。あたしも、怖かったんだ。あのままじゃ、殺されるってな」

「……殺されそうになった、の?」


 彼女の経歴。二年間を共に過ごした夫を殺害している。だが、そこまで夫婦仲が悪かったのだろうか。


「ああ。娘が、だけどねぇ」

「娘!?」

「へっへ。見えねぇだろ。これで一応、ガキ産んでんだぜ」


 いや、そんな顔で笑うところじゃないだろう。

 今の話だと、自分の夫に、娘が殺されそうになったということになる。それを防ぐために、夫を殺した?


「お前も知ってるだろ? ティンティナブリアっつうのはクソ貧乏なとこでよ。食うものなけりゃ、身売りするしかないんだわ。けどなぁ、あたしに宛がわれた夫ってのがマジで腐った野郎でな……離婚したいのに、ずーっと我慢して、挙句の果てに奴隷として売られることになっちまってよ」

「……それで?」

「一人分、口減らしできて、あたしの分の金まで手に入るくせに……食費はかかるわ、面倒だわ、再婚する時の邪魔になるわで、生まれて一年経たない娘をさ、こっそり用水路に捨てようとしやがったんだよ。あのクズ」


 それで。激昂したガリナは、後ろから石を手に襲い掛かり、夫に重傷を負わせた。それでも飽き足らず、彼の髪の毛を掴んで、用水路の中に頭を突っ込んで、溺死させた。

 生まれて間もない娘を守るため。もっと冷静な対処ができたはずだ、というのは、外野の意見でしかない。


「私の場合は」


 ポツリとリーアが言う。


「幼馴染の許婚を殺された。航海中の事故で死んだと騙されて、あとは無理やり結婚させられた。第三夫人として。でも、すぐに本当のことがわかった」

「……訴えなかったの?」


 彼女は、首を横に振る。


「ムスタムの顔役だったから。だから、殺した。今でも後悔はしていない」


 愛する人を殺され、貞操を奪われ。でも、事実を知った以上、黙っていれば、それは愛する人への裏切りになる。

 行き着く先が死刑でも、奴隷落ちでも。殊にサハリア人にとっての復讐には、一通りのやり方しかない。彼女に選択肢などなかった。


「……エディマは?」

「私のは……普通だよ」


 普通って、なんだ?


「スーディアって、領主の家来がやりたい放題のところだから……私も二人組の兵士に乱暴されて。そのまま、絞め殺されそうになったんだけど、手元に剣があったから」


 輪姦されて、ついでに殺されそうになったところを、隙を突いて反撃した。その結果、兵士達の仲間に捕らえられ……

 こんなの、罪といえるのか?


「誰も……悪くなんか、ないじゃないか」

「殺したんだよ」


 俺の叫びを、ガリナは遮った。


「そう、殺した」

「私も……殺したから……」

「そんな」


 被害者だからって、罪にはならない?

 それは言い訳だ。

 彼女らは、受け入れて、覚悟を決めていた。とっくの昔に。最初から、あの肥溜めのような場所で、ひっそりと死んでいくつもりだったのだ。


 思い出す。

 暗がりに輝く鉈。迫りくる黒い影。だから俺は、プノスの肉体を奪った。この世界での、最初の殺人。

 俺はそのまま、怯えるままに逃げ惑い、義父を殺した。目の前で、首を押さえてうずくまる姿。目に焼きついて消えない。

 頭の上から鉈を叩き込まれた、真っ白な顔。その目から、鼻から、真っ赤な血を流す母。全裸のまま、血の海の中に横倒しになった。


 身をよろめかせたシン。足元をなくして落下するその時。目の合った一瞬。

 俺は無造作に、小屋の中に踏み込んだ男達を斬り殺した。更にもう一人。逃げる最後の一人だけは、片足と手の指だけで済ませた。でもそいつは結局、帰りの船の中で死んだ。ろくに薬もなかったし、重傷だったのだ。感染症と多量の出血が原因だった。

 ゾークは、血の止まらない胸の傷を抑えたまま、木の根元にしゃがみこみ、そのまま息絶えた。


 俺が。

 俺が殺した。

 俺が殺したんだ。


 だから、その分いいことをしないと。

 だから、償いをしないと。

 だから、強くならないと。

 俺が……


 ポン、と肩に手が置かれる。


「行ってくる」


 見上げると、ガリナがいた。


「メシ、うまかったわ。ありがとな」


 俺には、彼女らを止める気力がなかった。


 ほどなく、外からの声が大きくなった。男達の怒号。何か、鈍い音が聞こえる。

 それでハッと正気に返って、俺はカーテンをめくり、窓の下を見下ろす。


 袋叩きだった。

 三人の男が、よってたかって、丸くなったガリナの背中を蹴飛ばしている。

 リーアの長く豊かな黒髪を、二人の男が掴んで、引きずり回している。

 エディマの顔の包帯は引き千切られていた。しゃがみこむ彼女に、男達は唾を浴びせていた。


 考えるより前に、俺は駆け出していた。


「やめろ!」


 出入り口の扉を押し開けながら、俺は割って入った。


「やめろ! 手を出すな!」


 俺の声に、数人の男が反応した。


「なんだぁ、てめぇは」

「……っ! 僕は! その奴隷達の所有者だ!」


 そうだ。

 俺の『物』だ。それを勝手に傷つければ『器物損壊』だ。たとえ犯罪奴隷であっても。


「こんなガキが?」

「俺、知ってるぜ。こいつ、奴隷のくせに、薬屋の店長気取りなんだ」

「あぁ? 奴隷のくせに指図すんのか? おい」


 だが、彼らにそんな論理は通じなかったようだ。


「てめぇよぉ」


 一際大きな体つきの男が、立ちふさがる。その左右を、他の男が固めるように立つ。

 何を言い出すのかと思い、彼の顔を見上げる。その瞬間、左右の腕を掴まれ、引っ張られる。直後、鳩尾に痛み。


「ひゃっはー! 馬鹿な奴! おい、ポンポン痛ぇか、ポンポン」


 こいつら。

 信じられない。

 大の大人が、子供をよってたかって。


 そのまま、地面に引き摺り倒される。

 頭上から迫ってくる靴の裏。視界の隅に、俺を見て身を起こしかけるガリナが見えた。


 だが、痛みはこなかった。代わりに、頭上で音がした。


「恥を知りなさい!」


 ハリが割って入ったのだ。彼の拳は、リーダー格の男の顎にきれいに突き刺さった。そのまま、そいつは後ろによろめく。


「この野郎!」

「やっちまえ!」


 だが、何より暴力沙汰こそ、避けねばならなかった。もはや群衆は暴徒と化し、店ごと破壊しそうな気配を見せた。


 その時、ビーンという音がした。


 のそのそと身を起こしてみる。誰も動いていなかった。

 矢が、酒場の木の壁に刺さっていた。何本も。それらは例外なく、暴徒の顔、ちょうど目の高さにあった。顔から一センチと離れていない。


「静まれ」


 彼女の冷え冷えした声が響く。

 ちょうどウィー達が戻ってきたところだったのだ。


「これ以上、暴れるようなら、ボクが射殺する。これは正当防衛だ」


 そう言いながら、彼女は矢を番える。

 だが、一人だけ、空気を読まない男がいた。


「あぁ? ガキじゃねぇ」


 プツッという音が聞こえた。直後、男のズボンのベルトが切れて、足元に落ちる。


「かはっ? はぁっ!?」

「二度はない」


 そこへ、ガッシュも、手にしたハンマーを振り上げ、足元の石畳に叩きつけた。


「失せろ!」


 一瞬の沈黙。その直後、突然に群衆は、慌しく足踏みを始め、すぐさま散っていった。


 呆然としていると、ウィーが駆け寄ってきた。そっと俺を抱きかかえ、立たせてくれる。


「大丈夫? 怪我はない?」


 心配そうに俺を覗き込む、彼女の顔。

 そう言われて、俺の中には、申し訳なさが溢れてきた。


「ごめん……なさい」


 顔を見られない。

 何をやっているんだ。

 いろんな人に迷惑をかけて。


「ごめんなさい」

「謝るこたぁねぇだろ」


 ガッシュが、俺の肩に、その大きな手を置いた。


「お前は何も、悪いことしようってんじゃないんだからな。ただ、人を助けようとしただけなんだ。それがなんで、謝らなきゃいけないんだ」


 違う。

 やっとわかった。

 俺は、そんな立派な人間じゃない。

 こんなの、全部嘘だ。

 俺はこんなにも、卑怯者だったのか。


「フェイ」


 神妙な顔をした店長が、俺の前に立つ。


「店長」


 これだけの騒ぎを起こしてしまった。

 取り急ぎ、女奴隷達は、うちで引き取らなければいけない。とにかく、ここに置いておいては。


「ご迷惑を」

「今更、手伝いのお前に抜けられると、困るからな」


 そんな。

 どうして。

 俺は、ただ、本当に自分のことしか。


「おい、ガッシュ」

「はいよ」

「お前、ツケたまってたろ。しばらくウチの見張りやれ」

「おう」

「じゃあ、ボクらが送っていくよ」

「任せた」

「よし……フェイ君、歩ける?」


 彼らの顔を、まともに見られない。

 ただ、力なく頷くのが、精一杯だった。

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