子爵の叱責
夕方、俺は居間の窓辺に座って、魔術書のページを繰っていた。内容が頭に入ってこない。ただ読み飛ばしているだけ。
何がいけないんだろう。急にこの世界が理解できなくなった。
俺は虐待されている女奴隷達を見つけた。だから持ち主から買い取った。その後、彼女らをまともな持ち主に譲ろうとしている。
ところが、神殿には事実上、受け入れを拒否され、セリパス教会に至っては、俺を色魔呼ばわりまでしていった。
彼女らが奴隷だからだろうか?
だが、俺も奴隷だ。
いや、俺は子爵家の所有物だ。使い捨ての犯罪奴隷とは、立場が違う。
誰もが彼女らに冷たくするわけではない。酒場の店長だって、犯罪奴隷と聞いて、不安を顔に出しはしたが、宿泊を拒否することはなかった。ガッシュ達だって、あの悪臭タワーの掃除も手伝ってくれたし、その後だって引き取り先の相談に乗ってくれた。
昼間のあの女。どうして俺のところまで来たのだろうか。
誰が彼女を焚きつけたのだろうか。
そうだ。誰かが動かしたのだ。俺の行動に不快感を感じている誰かが、ついにきっかけを見つけて、攻撃を始めたのだ。
でなければ、説明ができない。確かに俺は、彼女らの引き取り先を探してはいる。しかし、別に街中に触れ回っているわけでもなく、子爵家の名前と権力を振りかざしたのでもない。広告すら出していないのだ。ただ、知り合いの口コミで動いているだけ。
この件を知っている人間は、限られていたはずだ。しかも、それは身内ばかり、つまりアイビィやガッシュ達。だが、彼らが悪意ある行動を取るとは考えにくい。それ以外となると、街を出たオカマ野郎と、あの悪臭タワーの持ち主くらいか。
この件、ごく初期の段階で、そいつはいち早く動いた。俺がぼやぼやしているうちに、見えないところで状況は変化していたのだ。現にザリナは、リンが動くことを事前に察知していた。
……だが。なぜだ?
子爵家の人間だろうか。俺が注目を集めるのを妬んで……恨むとすれば誰だ? 厨房の連中? だが、セーン料理長は俺を大事にしてくれている。あいつらがわざわざ、上役に憎まれる危険を冒すだろうか? ナギア? 論外だ。俺じゃあるまいし、こんな真似ができるものか。イフロース? カーン? ばかばかしい。
だが、それ以外となると。街の中の薬屋か? しかし、敵対的だったケインみたいな奴は、もうとっくに片付いたはずだ。だいたい、まともな頭をしていれば、俺達と喧嘩するより、仲良くしたほうが利益になるとわかる。
そもそも、目的はなんだ?
俺を憎んでいるのか? それとも利益のためか? まるでわからない。
しかも、恐らくだが、状況はどんどん悪化している。
機会があれば、リンはセリパス教会で、信者達にあることないこと一切を吹き込むはずだ。俺の悪口が、街中の至るところにばら撒かれつつある。
それだけならまだいいが……最初期と違い、この件が人に広く知られるようになると、誰がことを起こしたのか、それが見えにくくなる。人混みにまぎれてしまうのだ。
どうすればいいのだろうか?
……階下で音がする。重い金属製の扉が開閉しているのだ。続いて、階段を登る足音。
「フェイ様」
無表情なアイビィが、俺に伝える。
「お客様が」
そう言う間に、後ろから足音が。大人の男性のものだ。しかし、案内を待たずに踏み込むとは、どうしたことか。
本を脇に置いて立ち上がろうとした時、その人物が出入り口までやってきた。
「失礼する」
なんと、執事のイフロースが、自分でここまで来ていた。
おかしい。明らかにこれは異常だ。
何か用件があるのなら、人を使って呼びつけるとかすればいいはずなのに。
「フェイ」
部屋の中に遠慮なく踏み込んできて、彼は言う。
「お前は余計なことをしてくれたようだな」
「……なんのことですか」
「とぼけているわけではなかろうな? 奴隷達の件だ」
「どうして余計なことなのか、教えてください」
それが気になって、頭が痛くなりそうだ。
「その前に」
腕組みをしつつ、部屋の中を落ち着きなく歩き回りながら、イフロースは続けた。
どうでもいいけど、ここは段差があって、靴を脱ぐべきところだ。でも、初めてここに来た彼はそれがわからず、土足で歩き回っている。あとで掃除しないといけない。
「お前はなぜ、彼女らを購入した?」
「なぜ……って、ひどく虐待されていたからです」
「それだけか? 他の理由はないのか?」
「ありません」
「ふむ」
彼はピタリと足を止めた。
そこへ、すかさずアイビィが声をかける。
「あの、イフロース様」
「何か」
「大事なお話中、大変恐縮ですが、そこは土足では……」
「んっ? ……おっ、おおお」
慌てて靴を脱ぐイフロース。なかなか似合わない格好だ。
だが、その後はもう、すぐにいつも通りの様子を取り戻した。ものすごい勢いで迫ってきて、俺の真向かいに座る。
「フェイ、時間がない」
「はい?」
「お前はこれから、ご主人様に呼び出される」
「そんな大事に!?」
「事件になってしまったのだ」
「どうして!?」
驚く俺に、彼は顔を寄せた。
「その前に。どうして奴隷を助けようと思ったのだ」
「あまりにひどい扱いだったからです。死ぬのも時間の問題だったのですよ?」
「だが、犯罪奴隷とは、本来そうして死なせるべきものではないか」
「譲渡奴隷もいたんです。それに、あれを見たら、いちいち考えてなんて、いられませんよ」
彼は一瞬、眉を寄せたが、それ以上、この問題を追及しなかった。
「それで、お前は、その購入費用をどこから出した」
「もちろん、海賊退治でいただいたお金です」
「それでは、全額、お前個人の財産から出したというのだな」
「はい」
彼は、僅かな時間、考える素振りをして、それから俺に言った。
「フェイ、もし、購入した奴隷すべてをタダで手放せと言われたら、どうする」
「条件によります」
「どんな条件だ」
「僕にお金を返す必要はありません。でも、彼女らをまともなところで働かせることです」
「それは難しいだろうな」
俺はムッとしたが、彼は構わず続けた。
「よくわかった。お前は不幸な奴隷に同情して、衝動的に買い取ってしまったのだな。それでいい。そういうことにしよう」
「そういうことって、なんですか」
「お前を今すぐ、ご主人様のところに連れて行く。だが、いいか。お前は一言も喋るな。なんとか私が話をつける。任せるんだ。いいな」
有無を言わせない雰囲気だった。
彼は返答を待たず、俺を促した。
「立て。もう行く」
一時間後。
俺は背中から、気持ちの悪い汗を滲ませていた。
総督官邸の中心、子爵の執務室の前の控室に、俺は座っていた。
俺が追い詰められているこの状況、近くにナギアがいたら、なんと言うだろうか?
誰も何も言わないが、なんとなく周囲の人の雰囲気で、かなり深刻な状況にあると察知できる。
カチャ、と音がして、装飾された扉が開く。
「お入りください」
子爵の傍仕えを務める若い男性が、俺とイフロースにそう告げる。なお、アイビィは留守番だ。
中には、明らかに苛立った様子の子爵が立っていた。腕組みをして、足踏みをしている。片方の眉を釣りあげて、その端正な顔を引き攣らせている。俺を視界に捉えた瞬間、その目で鋭く睨みつけてきた。
「来たか」
「お待たせいたしました」
イフロースは、静かな声でそう応えた。
「では、改めて、これはどういうことだ? イフロース」
子爵は、近くのテーブルの上から、紙切れを取り上げた。
「市民からの苦情が、私に寄せられているのだぞ。セリパス教会からも糾弾される始末だ! どうしてくれる!」
「いずれも悪質な嫌がらせでしかありません」
「だが、現に! 悪評が広まっているではないか!」
悪評?
俺が女奴隷達を引き取っただけで? 俺個人にではなく、子爵にまで?
「あの抹香臭い女は、私に言ったぞ! 子爵家は、不潔な女どもで富を築いたのか、とな!」
……えっ?
それって、俺が彼女らを買い取ったから? 確かに、子爵家の奴隷である俺が、売春用の女奴隷を買い集めたわけだから。そうなると、子爵家が売春ビジネスでお金儲けをしている、ということになるのか。
でも、ちょっと違和感が……
「事実無根にございます」
「当たり前だ!」
そう叫びながら、彼は書類を床に叩きつけた。ちらっと視線を這わせる。そこにあったのは、署名だった。
「フェイ」
子爵は、その床に落ちた書類を、顎で示した。
「なんと書いてあるか、わかるか」
声を出すな、とは言われているが、主人からの命令は無視できない。
「読んでもよろしいでしょうか」
「さっさとしろ」
それで俺は、そそくさと彼の足元にかがみこみ、落ちた書類を拾った。そしてさっと目を通して……
「これは……!」
腹の奥から、怒気があふれかえってくるかのようだった。
この一連の書類を整えたのは、セリパス教会のリン・ウォカエー。ここに書かれているのは、子爵家の悪事と、市民からの苦情だった。
書かれている内容によると……
子爵家はかなり前から、ここで売春事業を営んでいた。それも、自分達が経営している事実を隠すため、とある人物を雇用して、彼に一切を任せていた。
営業の実態も最悪で、犯罪奴隷を最低の環境におき、汚物も垂れ流しで、そのため周囲の市民生活に不便を生じるほどだった。またその店には、各種の犯罪組織が出入りしていたこともあり、彼らと子爵家は、何らかの関係をもっていた。
だがつい最近、代理人との関係がこじれ、雇用関係が消滅。子爵家側は、売春宿の経営を持続するため、女奴隷達だけは引き取り、売春宿に使用していた建物も整備し直した。
この陳情書では、そのような売春宿の再建を中止し、犯罪者のたまり場を作り出さないように、との要求が明記されている。そして、この要求に賛同する市民の署名が、長いリストになっていた。
「そんな……!? ばかな……」
「フェイ」
顔色を変えかけた俺に、イフロースが声をかける。
それ以上は何も言うな、という意志表示だ。それで俺も、なんとか自制心を働かせる。
「こんな醜聞が王都に伝われば、どうなると思うのだ」
「無実を証明すれば問題ございません」
「たわけが! 本気でそう考えているのか!」
これは、子爵の言葉に一理ある。
例えば、前世の、昔の中国あたりでも、そうだった。公的な立場のある人間が、誣告されたとする。たとえ事実を伴わない訴えにせよ、不正を行っているとの噂がたつだけで、それは本人の不名誉となり、能力不足を示す証拠と考えられてしまう。政敵を葬る手段として、しばしば活用されたのだとか。
「早期に解決なさることです」
「そんなことはわかっている!」
そう。これが中央の連中の政治的材料となる前に。
迅速に火消しができれば、子爵家にダメージはない。
「だが、どうすればいい……くそっ! イフロース! 元はといえば、貴様のせいだぞ!」
えっ? 俺じゃなくて?
なぜ?
「お前はなぜ、こんな奴隷を買った!? 子爵家を支える人材を育てるためだと? 見てみろ、この結果を! せっかく引き取ってやったのに、勝手な真似を仕出かして、足元を揺さぶるばかりだ!」
「長い目で見てくださいませ。フェイはまだ、子供でございます」
「子供? 子供だと? 子供が、売春婦を買い集めて金にしようなどと考えるか!? ……ああ、考えるのだろうな、卑しい奴隷の子ならばな!」
その物言いに、俺は一瞬、目の前が暗くなった。カッとなって、割り込みそうになったのだ。だが、それはなんとか堪えた。
子爵が怒るのは、まだ理解できる。危険なスキャンダルの原因を、俺が勝手に作ってしまったのだから。
だが、その後の発言は、とてもではないが、我慢できるものではない。卑しい奴隷を引き立ててやったのに。金目当てで売春婦を買い漁る卑しい子供。こいつの笑顔や誉め言葉は、いつだって表面だけだ。本音では、奴隷のことなんか、いや、使用人達のことでさえ、見下している。
「フェイが奴隷を引き取ったのは、彼らの命を救うためでございました」
イフロースが、身をかがめたまま、俺の弁護をしてくれている。
「フェイは先の海賊退治で受け取った報奨金を使っておりませんでした。それを今回、奴隷達を救うために使っております。今も宿屋に匿っており、食事を与えているとのこと」
「いらぬ慈悲だ! 犯罪奴隷だぞ! なぜ死なせておかなかった!」
「救い出した時点では、見分けがつかなかったそうです。確かに愚かではあるにせよ、なにぶんにも、善意からの行動でありますれば」
「くだらん! だいたい、考え違いも甚だしい! フェイ! 貴様は子爵家の奴隷だぞ! ならば、私の役に立つことだけすればいい。それ以外は一切考えるな! 見るな! 動くな! この腐った奴隷めが!」
スッと頭の中が冷えた。
見た目は美青年でも、中身はアレだ。グルービーより卑しい。利権にしがみつく、有害な、腐敗した貴族。しかも、無能だ。
だいたい、なんなんだ。穢れた女奴隷だかなんだか知らないが、そいつらがピュリス市内でひどい扱いを受けていたのに、今まで何ら対処してこなかったのはお前じゃないか。公的権力をもって、市内を浄化する権限を持っていたくせに。
他にも言いたいことはある。毎月発生する三叉路の交通事故は。汚水がそのまま流れる一部の市街地は。そもそも、ムスタムからの帰り道に船が座礁した時、俺達が海賊に襲撃されたのも、ピュリス市の不始末だ。お前がろくに仕事をしないから、問題が起きるんじゃないか。
構わない。消してやる。
この世界で、ちょうど……リンガ村で三人、この前の海賊で六人だから、十人目。お前に対してなら、きっと心も痛まないだろう。
半ば放心状態のまま、ピアシング・ハンドを発動させかけたその時、背後の扉が開いた。
「何事ですか」
子爵夫人のエレイアラだった。その脇には、リリアーナもついてきている。
部屋の空気が一瞬、動きを止める。
「随分な叫び声ですね。ですが、女神は私達を戒めませんでしたか。憤怒にとらわれることなかれ、と」
奥方は、どちらかというとセリパス教徒だ。どちらも本質的には同じ女神を崇拝しているということもあって、単なる女神信者と、セリパス教徒の平信者の区別が難しい。
ルイン人貴族の血を引いていて、セリパス教徒の乳母に育てられた彼女だが、公的にセリパス教徒であると名乗ったことはない。だが、憤怒を戒めるようにとの教えは、モーン・ナーの経典にしか書かれていない。
「それどころではない! 見よ、この出来損ないの奴隷が、エンバイオ家を危機に陥れようとしているのだ!」
サフィスは完全に興奮してしまっている。一方、奥方の落ち着きっぷりときたら。
おかげで俺まで冷静になれた。そうだ。殺してもいいが、殺す理由がこれではよくない。状況も最悪だ。目撃者が出てしまう。まったく生産的じゃない。
ついでに、どうして今、彼女がここにいるかも、やっと理解した。タイミングがよすぎる。これは屋敷内のネットワークのおかげだ。俺に好意的な使用人が、裏で動いてくれたのに違いない。どこかで報いたいところだ。
「お話は少しだけ、聞いてきましたよ」
「女が口出しをするな! これは我が家の名誉にかかわる話だ!」
「悲しいことをおっしゃいますな。エンバイオ家の運命は、そのまま私の運命ではありませんか」
彼女は、うっすらと笑みさえ浮かべながら、夫を諭した。
「なんでも、哀れな境遇にある女達を救うために、私財をなげうったのだとか。人々のために尽くし、王国を平和に導くのが貴族の務めでありますが、ならば従者もまた、主人に倣うべきです。フェイは役割を理解しているようですね」
穏やかだが、有無を言わせない雰囲気を纏っている。取り乱した子爵は、これに一瞬、口ごもった。
「それどころではない。今、子爵家を非難する声があがりつつあるのだぞ」
さっきよりトーンの下がった口調で、彼はなんとか言った。
「ええ、憂慮すべき状況ですね」
「そうだろう。わかるだろう」
「でも、だからといって、今、フェイを怒鳴りつけても、何も解決はしませんね」
確かにその通り。
俺に悪意があって、わざと子爵家の声望を落とそうとしているのなら、話は別だが……まず、そんなはずはないと、イフロースもエレイアラも理解している。
となれば、もう次の段階を考えるべきなのだ。どうすればこの不名誉な噂を消せるのか?
「声をあげているのは、誰ですか?」
「……セリパス教会の司祭、リン・ウォカエーだ」
「なるほど、では、この訴えを取り下げてもらえるよう、私からも働きかけてみましょう」
合理的だ。
だいたい、余程の大事件でもない限り、一地方都市の噂が、そのまま王都に伝わるなんて、あり得ない。だが、そこで宗教組織とか、何か力を持った集団が意図的な動きをすると、それが実現してしまう。
だからまず、リンを黙らせる。
「あなたは、この噂の出所を探ってはいかがでしょう? 明日の朝にでも、政庁の方々に命じてみては」
「む……そうするが……」
子爵は、娘と妻を見比べながら、やっと声を絞り出した。自分が怒鳴れば、リリアーナが悲しそうな顔をする。やりづらいことこの上ない。これは、夫人の作戦だろう。自分一人で意見しにいっても、女のくせにと相手にされない危険がある。だが、娘の前となれば。
「フェイ」
いつの間にか、エレイアラがこちらを向いていた。
「あなたの善意を悪用しようとする人がいます。今は注意を要する時期ですから、振る舞いには気をつけるのですよ」
「はい、奥方様」
俺が頭を下げると、彼女は満足そうに微笑んだ。
そうして身を翻す。
「では、早速」
エレイアラは、部屋を出て行く。
その後にくっついていたリリアーナもまた、一緒に。部屋の出入り口で、彼女はもう一度俺に振り返り、手を振った。
「また遊んでねー」
場の緊迫した空気からすると調子外れの、間延びした声。
やっぱりリリアーナはリリアーナだ。わかっててやっている。空気を無視した明るい声色。これが彼女の意思表明となる。まったくもって、生まれながらに貴族の娘なのだ。
「では、我々も」
ずっと頭を下げたままのイフロースが、低い声で言う。
「勝手にしろ」
俺達は改めて一礼し、子爵の執務室を出た。
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