帰着、そして口論
どうやら、かなり西のほうに流されていたらしい。出航から三日半かけて、ようやく白亜のピュリスを望見することができた。
「……やっと帰れますね」
俺は思わず、疲れた声でそう呟いた。
とはいえ、甲板に立つフリュミーとしても、気持ちは同じらしい。
「まったくだよ。こんな近場の航海で、これとはね」
同感だ。
正直、さすがにこれはひどすぎる。
まず安全なはずのこの季節の航海で、これだけの暴風雨に巻き込まれた。しかも、漂着した島がたまたま海賊のアジトで、殺されそうになった。
これだけのトラブルが重なるなんて、滅多にあるものじゃない。もしかして俺、前世より不運になっていないか?
一方で、それなりの収穫がないでもない。
積荷の一部は流され、或いは海水に浸かったため、失われた。だが、海賊船の中にはそれなりの金品があった。海賊を討伐した場合、その所有物は、討ち取った人々に与えられるのが基本的なルールとなっているのだとか。だから、今回の航海の損失を埋め合わせるのは、難しくない。
だが、多数の死傷者を出した事実は、変えられない。数年間、訓練した水夫が六名。子爵家にとっては、無視できない打撃となった。
「こういう状況だし、悪いけど、家に帰る前に少し付き合ってもらわないといけない」
「はい、わかります」
なにせ出発した時の船を失っているのだ。代わりに老朽化した海賊船で帰港とか。これでは説明しないわけにもいかない。
船が着岸し、ロープで繋がれる。木の板を伝って地面に降りる。この安心感ときたら。
「沿岸警備隊の担当者を呼んでくれ」
フリュミーが、港湾管理者にそう告げる。まずやるべきことは、海賊の引き渡しだ。なにしろ、失った荷物の代わりに、十人からの海賊を積み込んできたのだ。それと、ゾークとシンの遺体も。これは首実検のためだ。名の知れた海賊であれば、賞金を受け取れる。
「みんな、疲れているとは思うが、もう一息だ。積荷を倉庫に運んでくれ。それで後は、屋敷に戻って休んでくれていい。僕は手続きを済ませてくる」
商船の帰着を知って駆けつけた子爵家の関係者に、フリュミーは短く説明する。船の中には、メックをはじめ六名分の遺体がある。まず、これを運び出して、遺族に届けるようにと指示をした。ほどなく大きな馬車がやってきて、遺体を積んでいく。そのままで遺族に見せるわけにはいかないので、途中で棺と遺体にかぶせる布を買っていく。
その間に、沿岸警備隊の責任者がやってきた。先に引き取った海賊の遺体、及び捕虜にした連中の証言から、彼らの身元が明らかになったのだ。フリュミーは、警備隊の事務室に招かれた。俺もなんとなく、ついていく。
カイ・ゾーク。一時期は二百人以上の荒くれ者どもを率いて、この内海を暴れまわった、フォレス人の海賊だった。一昨年、ピュリス海軍の討伐を受けて、その手勢の大多数を失った。以後は、小規模な商船隊を襲ったり、密輸を繰り返すなど、細々と活動していた。金貨五百枚の賞金首だった。
彼の所持品だった黒いコートは、西の果て、ムーアンに棲む黒竜の皮膚を加工したもので、相当な高級品だった。もっとも中古でもあり、長年使い込まれていたので、かなり値打ちは下がるのだが。黒竜の皮膚には外皮と内皮があり、外側は水を弾き、また刃物を寄せ付けない。内皮は衝撃を緩和し、打撃の効果を弱めるという。
シン・フック。以前は傭兵として、サハリアやマルカーズ連合国で活躍していた。だが四年前、殺人事件を起こしたのがきっかけで、追われる身となった。それを拾ったのがゾークだった。以後、彼はその腹心として活動した。彼もまた、金貨三百枚の賞金首だった。
また、特別に懸賞金がかけられていない海賊についても、生きたまま捕らえた場合は、原則、金貨五十枚で引き取ることになっている。彼らを待つ運命はただ一つ。犯罪奴隷だ。
海賊の所持品のうち、盗難にあって間もないもので、元の所有者から奪還要請があったものについては、所定の金額と引き換えに返還となる。だが今回、それに該当する品物はなかった。ゆえに、船内にあった、およそ二千枚の金貨と、多少の宝石、美術品などは、すべて子爵家のものになる。
俺? 奴隷だから、本来、財産権はない。だから仮に、持ち主である子爵が俺を連れて、狩りに出かけたとして……実際に鹿をしとめたのが俺だったとしても、持ち主は子爵になる。
奴隷の財産権が保護されるケースは、一般人とは異なるのだ。まず、主人が自分から与えた金品。これはもう、奴隷のものだ。例えば、エンバイオ薬品店での給料。これは正式に俺の財産となる。
それから、相手が俺を奴隷と知りつつ、俺個人にプレゼントをした場合、それも俺の財産となる。以前にフリュミーが俺に銀貨を渡した時とか、グルービーが俺を金貨三万枚で買い取ろうとした時などが、これにあたる。
最後に、主人の命令によらず、俺が一人で稼いだ利益。これも自分のものになる。例えば、仕事を言いつけられていない時間に森に出て、薬草を採取し、それを街の中で売ったとする。それで得た金銭は、俺自身の財産にできる。
この原則に照らして考えると、今回の海賊討伐に伴う利益は、どう分配されるのか?
まず、海賊どもの持っていた財産は、子爵家のものとなる。これは、俺個人の仕事ではなく、彼ら商船隊の活動の結果、もたらされたものと解釈されるからだ。海賊を倒したのは俺なのに? だが、捕虜を運搬したのは船員だし、そもそも航海に出発したのは主人の命令による。
生かして連れ帰った捕虜の分の謝礼。これも、子爵家の獲得物となる。さっきと同じ理屈だ。
少し際どいのが、シンとゾークにかけられていた懸賞金だ。
シンについては、俺が一人で倒した。もっとも俺は、殺されそうになって逃げているうちに、シンが崖から落ちた、と説明したが。それでも、シンは自殺したわけではないし、俺以外の人間がその「戦闘」に参加していたのでもない。
ゾークは、トドメを刺したのは俺でも、そこにフリュミーも参加している。主に陽動役としてだが。となると、彼と仲良く山分けとするのが正しい。
また、ゾークの所持品である黒竜のコートについても同様だ。売却して、その利益を分配するのが、常識となっている。
しかし……
「後で子爵家のほうで受け取るので、まとめてそちらに連絡してください」
フリュミーはその一言で片付けた。
これは、痛し痒しだ。
臨時収入は欲しかった。賞金首一人と半分で、合計金貨五百五十枚。コートの分を加算すれば、もっと。これだけあれば、さすがに魔術書の一冊くらいは手に入るはずだ。そうでなくても、自由の身になる日が近くなる。
しかし、ここで目立つのも避けたい。海賊の頭目をやすやすと討伐する七歳児。これはさすがにまずい。
「大丈夫? 疲れてない?」
「疲れてますよー……でも、まだやることがあるんですか?」
「あるさ……一番、いや、二番目に憂鬱なのがね」
困った顔をしたフリュミーが、俺を馬車に乗せる。行き先は総督官邸の東門だ。
数十分後、俺達は、イフロースの執務室のソファに腰掛けていた。
簡単に事情を説明した。なお、都合の悪いところはぼかしてある。具体的には、シンの死因は崖からの落下であり、逃げ惑う俺を追いかける途中の事故、ということにしてある。ゾークについては、フリュミーと口裏を合わせておいた。一緒に戦った、とだけ言っておいたのだ。
「……死者六名、か。大打撃だな」
「はい」
険しい顔をしたイフロースが、溜息をつく。しかも、死者の中には、次から船長に据えるつもりだったメックまで含まれている。
「ただ、人が減ったのとは訳が違う。訓練した水夫を失った。子爵家は、今後の海上交易についての計画を、大幅に見直さねばならん」
「はい」
「なぜ、この事態を防げなかったのだ、フリュミー」
執事の目が、すっと細められる。
「経験の不足です。彼らはまだ、海を理解できていなかった」
「六年も船に乗っていてか」
指導力不足。そう言いたいのか。
だが、メックを見た限りでは、それは当てはまらない。いや、もしそうだったとしても、フリュミーに何ができただろう。メックは六年も海の上にいて、次は船長を任される身の上だったのに、船乗りのことを「こんな仕事」と吐き捨てた。要するに、大事なことは何もわかっていなかったのだ。
「ここはムスタムではないのだぞ」
立ち上がり、靴の音を鳴らしながら、イフロースは叱責を続ける。
「そして、お前の妻子もここ、ピュリスにいる。お前は銀の腕輪をつけたのだ。この意味は理解していよう」
「はい」
腕輪じゃなくて、首輪じゃないのか。
海の上では、まるで自在に空を舞うカモメのように軽やかだった彼が、ここでは借りてきた猫のようにおとなしくしている。
「この失態は、埋め合わせてもらわねばならん」
「待ってください」
自然と声が出た。
俺はすっと立ち上がる。
「黙って聞いていれば、失態呼ばわりですか」
「フェイ君」
俺はずっと傍で見ていた。いつまで経っても自立しようとしないメック。海の男達の悪い習慣は真似するくせに、陸の論理を捨てきれない船員達。天候の変化も見抜けない、そのために必要な注意を怠る様子を。それをフリュミーが指摘しても、握り潰し。いざ暴風雨に遭遇すると、取り乱して無茶な命令を下し、最後は海賊相手に突っ張って、自滅した。
それが全部、フリュミーの責任だというのか。船長でもないのに。
なのに彼は、イフロースに反抗する俺を止めようと声をあげた。
「嵐がくるのに気付きもしないで、言われたことは無視して、それでこうなったんですよ。暴風雨のことを軽く見て、本当に巻き込まれたら、大慌てで船を座礁させていましたね。あれがなければ、せいぜい一日か二日遅れで、普通にピュリスに帰れていたんですから」
「フェイ君、やめるんだ」
フリュミーは、俺の心配をしてくれているのだろう。騎士の彼が多少、失敗をしたからといって、そこまでひどい目に遭うことはない。だが、俺は奴隷でしかないのだ。
だが、イフロースは、沈黙した。それから、ややあって、フリュミーに言った。
「少しの間、席を外していてくれ」
「……はい」
しぶしぶといった様子で、彼はやっと席を立ち、のろのろと部屋を出て行った。
扉が閉じる音がすると、イフロースは俺に向き直り、言った。
「席に着きなさい」
逆らう理由はない。俺はその場に腰を下ろした。
「お前はいろいろと忘れているようだが」
イフロースは、立ったまま、俺を見下ろしつつ、言った。
「いかに有望であろうとも。お前はまだ子供で、奴隷なのだぞ」
その一言で、俺の頭の中に火がついた。
「子爵家には、しかるべき秩序がある。それを守らねば」
「寝言は寝て言え、クソボケジジィ」
思わず、吐き捨てた。そうせずにはいられなかった。
目の前で、人が死んだ。殺された。俺が殺した。
それなのに、このやり取り。なんとくだらないことか。
「何が奴隷だ。何が貴族だ。死んだら一緒だろうが」
「なに?」
イフロースも、元は歴戦の傭兵だ。俺がすごんだくらいでは、怯えたりなどはしない。むしろ、怒りを表情に浮かべている。
「死んだら同じか」
冷たく燃える目で俺を見据えながら、彼は言った。
「お前の生き死にを、その貴族が握っているのまで忘れたか? お前は奴隷だが、そうでなくても、ここピュリスに生きるものなら、子爵家に逆らえるものはおらん」
「くだらない。俺はいつでも自由になれる」
「それはグルービーの手を借りてか」
「違う!」
俺は立ち上がった。立ち上がって、彼を睨みつけた。
「俺は、誰にも頼る必要がない。いつでも自由になれる」
「ほう、逃げ切れるとでもいうのか。一人で」
「逃げる必要なんかない」
「……なんだと?」
イフロースが眉を寄せる。
「老いたりとはいえ、この私を侮るとはな」
「ふん! 人間の分際で俺に勝てるわけがない。貴様に剣を抜く時間など」
そこまで言いかけて、口をつぐんだ。
頭に血がのぼり過ぎていたようだ。
危ない。本当にイフロースを殺すのならともかく。さもなければ、これは絶対の秘密だ。
心配は要らない。挑発はしても、剣を抜いたりはしないだろう。主人の持ち物を勝手に壊す男ではない。イフロースという男は。
「いや……今回、船員達が死んだのは、あなたのせいだ」
若干、声のトーンを落として、俺は言った。
「私の? せいだと?」
「そうです」
そうだ。言うべきは、こちらの話題だった。
「あなたはどうして、海のことをフリュミーさんに任せなかったんですか」
「任せていたではないか」
「いいえ、違います」
話し合いになった、と判断したイフロースは、ソファに腰を下ろした。俺もそれに従って、向かいに座る。
「何がいけなかったと言いたい」
「今回、船員達は、次からフリュミーさんが、上司ではなくなると知っていました」
熱くなった頭の中を整理しながら、言葉を選ぶ。
「だから、航海の終わりのほうでは、やりたい放題でした。嵐の予兆を見つけて、避難するようにと言われても、メック船長は取り合いませんでした。それより、彼らは自分の個人の取引に夢中でした。何があるかわからないのが海なのに、日持ちしない食品を積んで、なんとか間に合わせようと先を急いだのです」
「ふむ」
「でも、もともと個人の貿易をそれぞれがやるようになったのは、フリュミーさんが、彼らを育てるために許可したからであって。貴重な積荷のスペースを削って、子爵家の船で、好き勝手をやらせるためではなかったはずです。でも、それを止められなくなっていた」
イフロースは、俺の言葉を、腕組みしながらおとなしく聞いていた。
「そのくせ、いろんなところでフリュミーさんを頼ろうともしていた。いちいち報告を入れて、許可を取ろうとする。次からは全部自分の判断でやらなければいけないのに、ですよ? 要するに、どこまでいっても、誰かに守られた、雇われの立場でしか、ものを考えられなかったんです」
「実際、雇われの船員達ではないか」
そこに彼は口を挟んだ。
「私は、彼らの待遇を保証していた。普通の船乗りは、船が利益を出せなければ、自分達の収入も安定しないものだ。だが、子爵家の船に乗るからには、当家が要求する品物を購入し、運搬すればいい。それで利益が出なくても、彼らの給与は約束される。私が求めているのは、命令通り、計画通りに働く船乗りだ」
「だから、ですか? 責任感を持てなかったのは。自分の問題だと考えられなかったんですよ。彼らは。メック船長がなんて言ったか、わかります? 船乗りのことを『こんな仕事』と言ったんですよ? ムスタムでは女遊びに夢中だったくせに」
そう言われて、彼は表情を硬くした。
なるほど、確かに。子爵家の思い通りになる船は、今後も持てない、と言われたようなものではないか。
だが、これははっきり伝えておきたい。
「……前に言いましたよね」
「何をだ」
「子爵家にも、見るべきものはある、と」
「ああ、言ったとも」
「何を見ればいいんですか」
俺の辛辣な言葉に、彼は眉を寄せる。だが今度は、不思議とそこまでの怒りは浮かんでいなかった。
「もう一度言います。今回、船員達が死んだのは、あなたのせいです。もっといえば、自業自得です。これは、船乗りだからとか、そういう問題じゃない。子爵家が生活を、収入を保証してくれる? それに甘えてばかりの、覚悟も責任感もない連中ばかりじゃないですか」
事実そのものだろう。
イフロースは、何も言わなかった。
「去年の、お嬢様の誘拐だってそうですよ。噂で聞きましたけど、あれも、甘ったれた侍女達のやらかした事件なんでしょう? どうなってるんですか、ここは。ろくな人材がいないんですか」
「そうだ」
イフロースは、低い声で呻いた。
「お前は、既に子爵家の歴史を知っているはずだ」
「……ええ」
「二十数年前、先代が王都に出てきて、官職を得た。その時、傍にいたのは、田舎のトヴィーティアから連れてきた従者達だけだった」
彼はすっと立ち上がり、窓の外を眺める。
「彼ら陪臣は、元は付き合いのある田舎貴族の次男、三男の子孫だ。読み書きくらいはできるが、あとは見ての通り。ただの田舎者だ。それでいて、気位ばかりは高い。私が先代の執事に抜擢された時にも、随分と抵抗があったものだ」
いつの間にか、俺のほうに視線を向けている。
「当家としては、昔からの臣下を切り捨てるわけにはいかない。冷遇するのも論外だ。だから必然的に、彼らに重要な仕事を任せることになる」
「それで、船長に据えたのですか」
「メックでなくても、他の誰かが同じことをしただろう」
では、どうしようもなかったのか?
いや。
「フリュミーさんみたいな人を、他で見つけてくればいいじゃないですか」
「それでは、子爵家への忠誠心が保てない」
「だから、フリュミーさんには、ここの人と結婚させたんでしょう?」
「それは」
一瞬、言葉に詰まってから、イフロースは言った。
「私の失敗だった」
「何が失敗なんですか。フリュミーさんは、不満があっても、やるべきことをやっていましたよ」
「あれはもう、二度とやらない。私の不明で、彼らを不幸にしてしまった」
「……なんのことです?」
彼の顔に、暗い翳がさす。
ややあって、彼は首を振った。
「聞くな」
「はい?」
「知っていいことではない。このことは、二度と話題にはするな。フリュミーのためにも」
そう言われては、何も言い出せない。
イフロースは、改めて俺の前に腰を下ろした。
「もう、とっくにわかっているだろう」
その姿は、疲れきった老人そのものだった。
「だから、お前に高い金を出した」
それだけではないだろう。フリュミーのような人間を招いたのも。傭兵時代の副官だったカーンに来てもらったのも。彼は常に、子爵家の人材枯渇に悩まされてきたのだ。
「だが……今日、はっきりわかった。どうやらお前は、忠誠心を抱く人間ではなさそうだ」
「そうでもないですよ」
但し、俺の誠意は、実際に相手が俺に示した態度によるが。
「言い換えよう。お前を支配するのは、どうやら無理なようだな」
支配、か。
それならば、そうかもしれない。
俺を暗殺するなら、イフロースにもできるだろう。だが、脅して服従させるのは、不可能だ。本気で我慢できなくなれば、俺は別の肉体を得て、遠くに逃げればいい。そうなれば、誰も追いつけない。
「あのミルーク・ネッキャメルが、あそこまで価値を強調した奴隷など、見たことがなかった。だが、何のことはない」
彼は、深い失望を表現するかのように、また自嘲するかのように、皮肉な笑みを浮かべ、俯いて首を振った。
「確かにお前は異能だった。その年齢で大人顔負けの商売をこなし、料理の腕も確か。一流の薬剤師で、おまけに海賊にも立ち向かう。それならなぜ、ミルークがお前を手放したのか。簡単だ。いくら有能でも、利益を産みはしない。誰にも従わないからだ。要するに手に負えなくなって、手放したのだな」
「それは違います」
ミルークは、俺を送り出してくれたのだ。いや、俺だけではない。彼の中に何かの理由があって、奴隷商人という立場でしか、貧窮した子供達を救う術がなかった。
「どう違うのだ?」
「服従する人間だけが、利益をもたらすのですか」
俺のこの一言に、イフロースは目を見開き、俺の顔をじっと見た。それから、皮肉な笑みを浮かべる。
「取引次第だとでも言うのか……なら、何が欲しい? 金か? それとも身分か」
「本当に欲しいものは、ここにはありません。ですが、強いて言えば、知識や経験でしょうか」
俺の返答に、彼は笑みを消して、また首を振る。
「お前を買い取ったのは、私の失態かもしれんな」
おっと。
そこまで言われては仕方ない。
「いいでしょう」
確かに、金貨を何千枚も積み上げた彼からすれば、結果は得たいところだろう。
だから、ギブアンドテイクだ。
「僕に値打ちがあると思ったら、その分、すべきと思ったことをすれば結構です。僕はそれを見て、どうするかを決めます。きっと損はしないでしょう」
「……ふむ」
イフロースは、表情を消して、ソファにもたれた。
「わかった。もう行くといい」
俺は立ち上がり、一礼して、背を向けた。
「フェイ」
扉に手をかけた時、後ろから声が飛んだ。
「……昨年、お嬢様を誘拐させたのは、誰だ?」
まだ忘れていなかったのか。
もしかすると、あれから俺のことは、ずっと監視対象だったのかもしれない。
「さあ、それがわかれば、苦労はないですね」
実際に、俺が知っているのも、情報のごく一部だけだ。トゥダとか、ギムとか。彼らの名前だけ出しても、首謀者に辿り着けるかどうかは、わからない。
だが、続く質問は、もっと俺を緊張させた。
「で、お嬢様を連れ帰ったのは、お前か?」
いいえ、と言いかけて、やめた。
誘拐は確実。犯人に協力した人が見つかったのだから。なのに、取り戻した人物がいない。
だが普通、こんな手柄をあげておいて、自己申告しない人間などいるはずもない。つまり、ほぼバレている。黙っているのは、そもそも犯人側の人間か、さもなければ、お嬢様を救出はしたが、それを口外できない理由を抱えた人物か、だ。
「……失礼します」
金貨や、奴隷からの解放を引き換えに、俺の秘密を教えるのは、やはり割が合わない。
だから俺は沈黙する。俺がお嬢様を救い出したなどと、そんな馬鹿げた考えに、誰が同調するだろう? イフロースの頭の中だけであれば、好きに妄想していてくれて構わない。
「やぁ、やっと戻ってきたか」
廊下の向こうで、フリュミーが待っていた。
「大丈夫だったかい?」
「全然、平気ですよ」
「そうなのかい? すごいなぁ、君は」
そうして二人して、廊下を歩く。
「次はどこへ?」
「一番、居心地の悪い場所だよ……」
フリュミーは俺を連れて、使用人棟の地下室に向かった。そこには、今回の事故で亡くなった六人分の棺と……遺族達が待っていた。
なるほど、確かにこれは、今日最悪の仕事だ。俺とフリュミーの役目は、彼らに、亡くなった船員の最期の様子を伝えることだったのだ。
それから三時間ほど、泣き声やうらめしそうな視線に囲まれて、これ以上ないくらい、窮屈な思いをした。だが、それも遺族の気持ちを思えば、仕方のないこと。
それにしても、フリュミーの話術には感心した。俺を待っている間、ずっとシナリオを考えていたのだろうか。
彼の物語の中では、メックは未熟とはいえ、真面目な船乗りだった。ムスタムの最後の夜には、自腹で仲間達に酒をおごっていた。もちろん、普通の酒場で、だ。突然の暴風雨に襲われた際には、必死で指揮をとったが、運悪く座礁。海賊に囲まれた際には、他の乗組員を守るために、あえて前に出たとか。
メックの妻という侍女は、涙を流しながら尋ねてきた。
「それで……あの人は、最期になんて言っていましたか。教えてください」
「それは……」
「知りたいんです! どうしても」
俺は言いよどんだが、フリュミーは迷わなかった。
「落ち着いてくださいね」
「はい」
「彼は大怪我をしていたので、声も小さくて、はっきりとは聞き取れませんでしたが……僕にはこう聞こえました。『フィリア、ごめん、幸せに』と」
「ああ……はあぁぁっ!」
「あれだけ覚悟のあった男でも……最後には、妻のことが気にかかったのでしょうね」
「うっ……わあぁぁっ……」
そのまま、奥さんは激しくしゃくりあげていた。隣に立つ中年女性が、優しく彼女の背中をさすっていた。
「ありがとうごぜぇました」
頭を下げてきたのは、どこか垢抜けない、初老の男だった。メックの父親だろう。
「息子は、最後まで頑張ったのですなぁ」
「惜しい方をなくしました」
そう言いながら、フリュミーは神妙な面持ちで頭を下げた。
遺族の元を離れ、屋敷の敷地の外に出る頃には、もう日が翳っていた。
「……フリュミーさん……」
「ん? どうしたの?」
スッとした、という感じの顔をして、きびきびと歩く彼を横に、俺はじっとりとした視線を向けた。
「よくあれだけ、いろいろ口から出てきますね……」
「え? ああ」
「確か、メックさんの最後の一言って『フォレス人とサハリア人のハーフの女を買いました』じゃなかったでしたっけ」
「おー、よく覚えてるね? あの時から小屋の中の様子を窺っていたのかい?」
彼はウィンクをしながら言った。
「でも、僕の耳にはああいう風に『聞こえた』んだから。そう解釈しただけなんだよ、フェイ君」
「うーわー……」
人生は、時にきれいごとを必要とする。
ただ、なぁ……
釈然としない思いを胸に、俺は家に帰った。
「お帰り! お土産!」
家の扉を開けるなり、アイビィが飛び出してきて、俺にタックル、というか双手刈りを浴びせてきた。そのまま、石の床の上に転がる俺に、頬擦りしてくる。
「ちょ、ちょっと!」
「一ヶ月ぶりのフェイ君だぁ~」
「は、離して」
「もーうー、全身舐め回したいくらい」
「僕、お風呂、入れてないんだよ、汚いから、だから離して」
やっとのことで彼女の拘束を逃れ、一息つく。
「大変だったんだから」
「うん」
「ちょっと休ませてよ」
「うん、でも、その前に」
「なに?」
「お土産」
そう言いながら、彼女は両手を突き出す。
「あー……それなんだけど」
「え! ないの!?」
彼女は大袈裟にのけぞった。
「いや、買ってはきたんだけど……」
そう言いながら、背負い袋の中から、潰れた袋を取り出す。
「遭難した時に、僕のナツメヤシ、みんなで食べちゃったから……」
と、空っぽの袋を逆さにしようと持ち直す。その時、手の中に感触があった。
「……って、あれ? もしかして」
慌ててひっくり返して、袋の中をまさぐる。
あった。
一つだけ。親指くらいの大きさの、暗い赤紫色の、乾燥したデーツが。
「残ってた」
「わぁい!」
取り出したそれを、素早く彼女は引っ手繰る。そのまま、両手の先でつまんで、口に運んだ。小さくかじって、吐息を漏らす。
「あまあま~……」
半ば呆れながら、俺はそんな彼女を見つめる。
今更ながらに実感が湧いてきた。
俺は、日常に帰ってきたんだ、と。
……まだこの時には、自分の中に巣食ったものに、気付いてはいなかったのだ。
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