黒い波間に

 甲板に出る。さっきまでの病室の空気とはまったく違う、爽やかな風が流れていた。

 船の舳先に立つ。今は風が斜め後ろから吹いてきているのもあって、ジブセールは開かれていない。


 静けさは、長続きしなかった。

 がやがやと話をしながら、二人の船員が甲板にやってきた。


「おっ、フェイか。お疲れ」

「あ、どうもです」


 俺が頭を下げると、二人は手を突き出して、それを押しとどめた。


「聞いたぜ! お前が頑張ってくれたんだってな!」

「船長が言ってたよ。すげぇな、お前」


 フリュミーは、早速、あれこれ喋ったらしい。直接ゾークを倒したのが俺でないとするにせよ、既に子供としては異常なほどの活躍だ。注目されるのは避けられないか。


「運がよかっただけですよ」

「そうかもしんねぇけどさ」


 さも痛快だと言わんばかりの様子で、彼は続ける。


「さっき交替してきたんだけどよ、下の海賊どもの様子ったら、なかったぜ」

「縛られたまま、立ちっぱなしだからな。便器代わりの桶は一つしかねぇから、それを代わる代わる使うんだけどよ……全員、腕は縛られてっから、ズボン、脱げねぇだろ? だから、もう脱ぎっぱなしなんだぜ! はははっ、ざまぁ」


 無意識のうちに、嫌そうな顔をしてしまったのだろう。それに気付いた水夫達だったが、別の意味で解釈する。


「ああ、まぁ、そうだな。あそこの見張りなんざ、したくねぇよ。臭ぇから」

「そうそう、蓋をしても臭ぇんだよな、あそこ。もう、普通の荷物、積めねぇんじゃねぇ?」


 だが、俺は彼らのように笑う気にはなれなかった。

 昨日、海賊どもと戦っている間は麻痺していた部分が、徐々に元通りになりつつあったからだ。

 彼らにも、人生がある。中には救いようのない極悪人もいるだろう。だが、そんな連中ばかりでは、悪の世界といえども、到底やってはいけない。

 犯罪者だから、海賊だから、全員が良心の欠片もない悪人ばかりだ、と決め付けるのは……それこそ娼婦ならみんな生まれつき淫乱で、金とセックスが大好きな連中だ、というのに等しい。


「あー、でも、あと一人、いたんだっけ?」

「そうそう、俺らがボコった奴。フェイ、あれはどうなった? もう死んだ?」


 あれ、か。

 まるで物を扱うかのような言い草だ。


「いえ……生きていますけど」

「へー、じゃ、下の部屋に移せばいいんじゃね?」

「無理ですよ、まともに立てそうにありません」

「んじゃ、もう海に捨てちゃえば? 意味ないでしょ」

「一応、当局に引き渡さないといけませんし」

「はー、でも犯罪奴隷にするったって、片足ないんだろ? どうせ買い取り手なんかつかねぇって。無駄無駄」

「……僕が判断していいことでもありませんので」

「かーっ、真面目だねぇ」


 彼らに、俺の気持ちはわかるだろうか? 難しそうだ。

 田舎のトヴィーティア出身とはいえ、彼らは元はといえば、子爵家に仕える陪臣達の、そのまた取り巻きの子孫だ。次男、三男だからこうして海に出されてはいるが、それでも子爵家お抱えの船乗りで、身分は保証されている。

 社会の中心から、否応なく弾き出された人々。そんなものは、彼らの視界には入らない。


「少し、部屋で休んできますね」

「おう、無理するなよ」


 俺は返事をせず、早足で船室へと戻った。


 部屋に戻っても、することがなかった。俺は無事だった手荷物から、何かないかと探す。手に触れた本の感触に、それを袋から引っ張り出す。タイトルは『サハリアの生活と文化』。思わず床に叩きつけた。

 俺はじっと、薄暗い床の上を見続ける。目を閉じると、先日の光景が浮かんでくるからだ。崖の下に落ちていくシン。俺に斬り殺された三人の男。血を吐きながら息絶えるゾーク。

 五人も殺した。それだけじゃない。俺はリンガ村で、更に三人殺している。この世界に来てから、もう八人も殺した。信じられない。

 だからなんだ。全部正当防衛だ。やらなければ、こっちが殺されていた。


 再び呼び出しがかかったのは、早めの夕食を済ませた、日没前後のことだった。

 体調が悪化している、という報告に、俺は早足で病室に向かった。果たして、男は苦しそうに息を継ぎ、額からは汗を流していた。それでいて鳥肌が立っており、いかにも寒そうに身を震わせていた。

 俺は、手にした濡れタオルでそっと額を拭き、手で触れてみる。すごい熱だ。


 ここは悩みどころだ。解熱剤を使うべきかどうか。

 病原菌に対して、人体が発熱するのは、正常な反応だ。熱で細菌を殺そうとすると同時に、そいつらの起こす化学反応を妨害しようとしているのだ。逆に、体内の抗体はその温度で活性化する。

 病気だろうがなんだろうが、所詮は蛋白質。化学反応の触媒でしかない。触媒は適温でなければ機能しないから、これは有効な対策なのだ。

 だから、安易に熱を下げると、抵抗力を奪う結果になる。といって、いき過ぎた高熱は、本人の体に必要な化学反応をも阻害してしまうから、これもほどほどに抑えたい。

 魔法の存在するこの世界ではあるが、前世と同じような症状が見られるのだから、この辺り、同じような原理が働いていると、俺は考えている。


 頷いてみせると、船員も去っていった。手当てが済むまでは、見張りは不要だ。


「聞こえますか」


 俺が声をかけると、男はうっすらと目を開けた。


「またきやがったのか」

「一応、ピュリスに連れていかないといけませんので」


 忌々しそうに鼻をならしてから、彼は尋ねた。


「あと、何日だ」

「わかりません。でも、かなり西のほうに流されたということですから、あと二日くらいはかかるみたいです」

「はっ」


 また彼の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。


「じゃあ、見ないで、済みそうだな」

「だいぶ苦しいんですね」

「そりゃあ、な」


 呼吸が浅くなっている。その分、言葉も途切れがちだ。


「わかりました。解熱剤を使います。少しは楽になるはずですよ」

「無駄遣いだな」


 だが、そう言いながらも、俺が粉薬を口に含ませ、水を流し込んでも、彼は抵抗しなかった。


「……ピュリスを一目見たいとは、思わないんですか」

「思わねぇな」

「でも、故郷なんでしょう?」


 彼は首を振ろうとして、動きを止めた。それすら、今の彼にとっては重労働らしい。


「どの面下げて、帰るんだよ。おふくろはもういねぇし、親父は生きてるかどうかわかんねぇけど……海賊なんかになっちまった息子なんざ、見たくもねぇと思うぜ」

「そうかもしれませんけど」

「いい恥っさらしだ」


 救いがない。

 彼の中にもきっと、故郷を懐かしく思う気持ちはあるのだろう。だがそれ以上に、惨めさ、悲しさが勝っている。今の彼には、慰めになるようなものが、何一つないのだろうか。


「あの……海賊さん」

「あぁ? 俺にはキャサルって名前があんだよ」


 ピアシング・ハンドで見ているから、それはわかってはいた。ただ、教えられもしないのに呼ぶわけにはいかなかっただけだ。


「では、キャサルさん。その……今までで、一番楽しかったことは、なんですか?」

「はぁ?」


 俺の問いに、目を剥いた彼だったが、すぐに落ち着いた。


「ねぇな」

「本当に?」

「何を言えばいいんだ? 俺はずーっと下っ端だったんだ。たまに酒を飲んだり、売春婦を抱いたりはしたな。それが楽しかったことだっていうのか?」

「いえ……」

「ガキの頃の思い出か? ああ、楽しかったぜ。けど、自分で全部、台無しにしちまったんだ」


 どんな幸福な思い出も。そこには罪悪感が同居している。もはや、心から笑うことなんて、できなくなったのだろう。


「じゃあ、好きなものは?」

「ねぇよ」

「それなら、欲しいものとか」

「ねぇっつってんだろ!」


 キャサルは、声を荒げた。

 俺を睨みつけながら、苦しそうに息を継ぐ。


「……俺はいつ死ぬんだ」

「それは、まだ」

「正直に言えよ」


 俺は一瞬、口を噤んだ。

 死ぬか生きるかは、わからない。ただ、ここで助かっても、先はない。犯罪奴隷か、縛り首か。どちらにせよ、待っているのは絶望だけだ。


「今日明日が山です。それを越えられれば、命は助かります」

「ふん」


 こういう時、生き死にを決めるのは、往々にして患者の気力だ。前世のかかりつけの医師がそう言っていたのを思い出す。


「生きられるかどうかは、まだわかりません。でも、どっちになるにせよ」


 俺は、真剣に彼を見据えて口を開く。


「何の意味もない人生だったなんて」


 俺が言葉に詰まると、彼はそれを不思議そうな顔で見た。その後に、また皮肉めいた笑みが浮かぶ。


「ははっ、そうか」

「はい?」

「お前、臆病なんだな」


 一瞬、意味がわからなくて、キョトンとしてしまった。

 だが、後からじわじわと実感する。


 図星だった。

 そうだ。俺は彼の命を心配しているのではない。自分の罪が増えるのを恐れている。ただそれだけなのだ。


 愕然とする俺を尻目に、彼は虚空に視線を彷徨わせる。


「そうだな……一応、ちぃっとだけ大事にしてきたことなら、まぁ、あるかもな」

「それは、なんですか?」

「お前、信じるか?」


 彼はニカッと口を左右に開けて笑う。剃り残しのようなまばらな口髭が目に付いた。


「俺は今まで、一度も人を殺したことがないんだ」

「えっ?」

「嘘だと思うだろ? でも、本当だ。海賊のくせに、な」


 目を閉じて、彼は静かに言う。


「密輸の手伝いから、強盗の真似事まで、なんでもやった。剣も持ったが、脅すのに使っただけだ。実際に人を斬ったことはない」

「どうしてですか?」

「顔向けできねぇだろ?」


 キャサルは振り向いた。今まで見たこともないような穏やかな表情で。


「おふくろは、俺にまっとうに生きて欲しかったんだ。だから、売り飛ばすなって言った。結局、俺はこのザマだけどな。何度、てめぇで死んじまおうかとも思ったよ。けど、それをしちまったら、おふくろの気持ちはどうなるんだ」


 俺は、呆然とするばかりだった。


「そんで、おふくろからもらった人生で、人殺しまでするのかよ。だから、できなかったんだな……仲間から、散々、弱虫だの、根性なしだの言われても。ハハッ」


 そこでキャサルは、俺の表情の変化に気付いたらしい。


「おい、フェイ」

「は、はい?」

「俺が死んでも、気にしなくていい」


 彼は目を閉じて、静かに言った。


「散々悪いことをしてきたんだ……自業自得だ」


 自室に戻っても、落ち着かなかった。この気持ちをどう片付ければいいのだろう。

 何人も殺してきた俺。誰も殺せなかったキャサル。どちらがまっとうなのだろうか。

 だが、そんな迷いも、夜の帳に覆われていく。


 扉を叩く音で、はっと目覚めた。


「はい!」


 ハンモックから飛び降り、扉を開ける。

 一人の水夫が立っていた。


「起きたか。悪いな、病気の海賊なんだけど」

「どうしたんですか?」

「どうもしない。ただ、見てるとどうも、本気で死にそうだったから、一応、呼びにきた」

「わかりました!」


 俺は狭い廊下を走って、病室へと向かった。


 部屋の中には、ムッとする湿気と臭気がこもっていた。キャサルは、小刻みに震えながら、浅い呼吸を繰り返していた。そっと触れてみる。冷めかけたぬるま湯のようだった。


「キャサルさん」


 声をかける。だが、彼は目も開けられない。


「……めん」

「はい?」

「死にたく……ない……」

「死にませんよ! しっかり!」

「……母ちゃん……ごめん……」


 これは、死ぬ。

 回復の見込みはない。

 しかも、もう時間がない。


 こんな苦しそうに。

 自分の人生を後悔しながら。

 罪悪感に苛まれながら。


 ……駄目だ。

 やっぱり、駄目だ。


 彼は、悪事を働いてきたのかもしれない。だが、それは止むに止まれずだ。それこそ、正当防衛ではないか。なら、俺と彼の違いがあるとするなら、どこだ?

 罪は罪。だが、改心を望んでいるのに、その機会も与えられないのか?


 ……俺なら。

 俺なら、こうなった彼でも、救える可能性がある。

 この肉体はもう、無理だ。だが、別の肉体に乗り換えさえすれば。


「キャサルさん、まだ諦めないでください」


 俺は肩を揺さぶる。


「あと十分、いや、五分ください。そうすれば」


 植物では意味がない。知る限り、意識の回復が起こり得ないからだ。だが、動物であれば。

 最悪、昆虫でもいい。ネズミが手に入れば、なおいい。数日間の変身であれば、意識は回復し得る。ただ、デスホークの肉体はまずいか? 目立ちすぎる。

 後でどうやって人間の肉体を手に入れる? それこそ後回しだ。今、考えるべきことじゃない。


「人生をやり直せるんです、だから」


 そこで、俺は言葉を切った。

 もう無意味だとわかったからだ。


 ピアシング・ハンドは、もはや彼の情報を映し出してはいなかった。魂は抜け、その亡骸は、ただただ力なく横たわるばかりだった。


 背後で扉が開いた。


「おっ、死んだ? おっけー、あとは任せろよ」


 キャサルの遺体を、水夫は軽々と担ぎ上げた。そのまま階段を昇り、甲板に出る。

 雲の多い夜だった。黒々とした波が、時折、僅かな星明りに煌く。


「よっ、と」


 彼は、そうするのがごく当然、と言わんばかりに、キャサルだったものを放り投げた。

 水音がして、飛沫が撥ねた。

 それだけで、あとは黒い波間には、何も残らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る