幻影と実体

 急げ。あまり時間はない。

 雨も風もいまだ強い。時刻としては、だいたい昼前くらいか。ここに辿り着くまでに、俺はこの体で一時間ほどかかった。だがそれは、足跡などを辿りながら、非効率的なやり方で移動してきたからだ。あの海賊達の足であれば、多分、片道二十分程度で、座礁した船に到着するだろう。

 そこでどれくらいの間、留まるかはわからない。拠点はこちらだろうから、どうせまた戻ってくる。最短で計算すれば、四十分ほどでここに引き返してくるのだ。つまり、それまでの間に俺は、やるべきことを済ませなければいけない。


 やるべきこと。何をすればゴールになる? いくつか答えはある。

 一つ目。フリュミーはじめ、ここに囚われている仲間の乗組員を助け出す。もちろん、それだけでは、現状の問題を完全解決するには至らない。ただ、俺達のゴールは、海賊を倒すところにはない。生きてこの島を脱出し、ピュリスに帰ることなのだ。だが、この目標を達成するのは難しい。フリュミーはなんとか最低限、歩けるが、他の捕虜の状態は、ひどいとしか言いようがない。ろくに動かせないので、救出しても、自力で逃げ隠れする能力がない。船はここにあるので、他の船員をここに集められるなら……でも、無理だ。

 というわけで、二つ目。当初、俺が考えていたように、身体強化薬を取り戻す。これは通過点に過ぎない。この選択肢をとるなら、次の目標は、海賊の排除だ。特に、ゾークとシンは倒しきってしまわなければいけない。

 いや、倒すのではない。恐らく「殺す」必要がある。完全に制圧して無力化するのでもいいが、その後に逃げられてしまえば、また配下の海賊どもが勢いづくだろう。

 ……やれるだろうか?


 視界からゾークの黒いコートが消える。もう少ししたら、行動を起こせる。

 出て行ったのが五人。ということは、中にいる海賊は、シンと、残り四人の男達。シンから剣術スキルを奪ったので、技量だけなら上級者だが、七歳児の肉体では、まだ筋力が追いついていかない。だから、突入して連中を排除する、という作戦はとれない。

 やはり、先に薬を飲む必要がある。そうすれば、雑魚どもなら、割と短時間で倒しきれるはずだ。では、どうやって薬を取るか?


 俺の変身について、例えばフリュミーあたりが秘密を共有していれば、話はずっと簡単になっただろう。この姿を見るだけで、察してサポートしてくれるだろうからだ。しかし、それはないものねだりなので、結局、こういう方法を取るしかなくなる。


「誰かー? たすけーて?」


 ログハウスから少しだけ斜面を上がった辺り。木の陰から顔だけ出して、叫んでやる。当然、人間の姿に戻ってからだ。ゆえに、全裸でもある。ちょっと肌寒い。

 ちゃんと聞こえたかわからないので、周囲を見ながら、動きがなければもう少し接近する。後ろからいきなりゾーク達が出てこないとも限らないので、ドキドキだ。


「メーック船長ー! フリュミーさーん!」


 そろそろ聞こえたか?

 と思った瞬間、バタン! とログハウスの扉が開く。俺は慌てて頭を引っ込める。そして、鳥の姿になる。なるべく静かに羽ばたいて、木の枝に足をかける。木の葉の影から、連中の出方を窺った。


 二人ずつ、組になった男達が出てくる。その後に、やや重い足取りで、シンが続いた。二人組はそれぞれ、左右に駆け出していった。つまり、俺から見て右側の二人は、斜面を避けて、この裏側、崖沿いの海岸に向かって。左側の二人は、この坂を上らず、左手に広がる、密度の低い低木の林と砂浜のほうに。そして、彼らに指示を飛ばすような仕草をしたシンは、まっすぐこちらに走ってきた。

 近付いてくる。どういうわけか、頭の奥が熱くなる。なんだか、嫌な気分でいっぱいになる。当たり前か。敵が近付いてきているのだ。

 だが、シンは俺に意識を向けることなく、まっすぐ崖の上へと走り去っていく。彼が探しているのは、鳥ではないからだ。

 しかし、うまくいき過ぎているな。捕虜が大怪我していて、動けないからって、全員、出払ってくれるとは。


 なんにせよ、これは好機だ。彼らの見回りが三分しか続かなかったとしても、それだけあれば充分。その間にログハウスに飛び込み、俺の背負い袋を確認する。もし中に身体強化薬がなくても慌てない。あそこにはフリュミーがいる。奴らが中身をどうしたか、尋ねればいい。

 頭の中で算段をつけると、今一度周囲を見回してから、俺は人間に戻り、そこから全力でログハウスへと駆け下りた。そして扉を引き開けようとして、一瞬、動きを止めた。


 やっぱりおかしい。なぜあいつらは外に出てきたのか。

 子供の声に反応した? だがこれは、水夫達の側からの、あからさまな誘い。なのに、海賊が全員外に出た? 全員で?

 そんなはずがない。


 俺は、そっとドアの取っ手を掴み、次の瞬間、引き開けつつ、後ろに飛びのいた。地面に転がる。背中が泥まみれになるが、構ってなどいられない。

 起き上がりながら、俺は見た。


 そこには、シンが立っていた。

 入り口が一つしかないはずのログハウスの中から。さっき、外に走り出たはずの彼が。


 ……考えている時間はない!

 俺は弾かれたように、斜面を駆け上がる。


 甘すぎた。いや、これも想定内だ。走ってやり過ごせば。木の陰でもう一度、鳥になれば。今度は、家の傍まで滑空して、そこから人間に戻る。フリュミー達に見られさえしなければ、あとは問題ない。海賊どもには、口封じをすれば……


 後ろからシンが追ってくる。腹の傷があるせいか、思ったほど速くはない。とはいえ、体力差があるから、いずれ追いつかれる。もっと距離をとらなくては。クソッ!


「いたぞぉ!」


 ぎょっとした。

 なんてこった!


 今、上りかけの斜面の右斜め後ろから、ゾークとその部下達が、姿を見せたのだ。もう戻ってきたのか? さっきの俺の声が、こいつらにも聞こえていたとか? まずい。これでは、右側の森に入って、姿をくらます作戦が取れない。鳥に変身するところを目撃されたら、俺の優位が一つ消えてしまう。

 なんでこんなことになった。まったく、イライラする。

 幸い、まだ上へと逃げる余地はある。見上げれば、斜面はまだ、百メートルほど先まで広がっていた。だが、その後はどうする? また、頭の奥に、気持ち悪い熱が湧き上がってくる。

 くそっ。とにかく、もうちょっと上へ……ああ、畜生! なんでこんなに苛立つんだ。足元から吹き寄せてくる風と、雨粒が不快でならない。……風? 足元から?


 ハッと気付く。

 足元の砂利が音をたてた。踏みつけていたのは、森の中の下草ではなかったのだ。


 周囲を見回す。振り返っても、ゾーク達の姿は見えなかった。後ろから追ってくるのは、シン一人。そして前方には、大きく口を開けた断崖絶壁があるばかりだった。

 いつの間にか、頭の奥で暴れる熱のようなものは、引いていた。


 ……『幻影』。

 これが神通力の恐ろしさか。危なかった。


 そういうことか。シンは、ちゃんと考えていた。


 俺の声が最初に聞こえた時点で、恐らくだが、飛び出そうとした部下達を押しとどめたはずだ。どう考えても何かの罠だからだ。しかし、いくらシンに切りかかるほど大胆ではあっても、七歳児が一人で捕虜を奪還しにくるとは考えにくい。となれば、共同して動く水夫達がいる。

 まさか、誘いを仕掛けた方向そのものに、捕虜奪還を目論む船員達が潜んでいたりはしないだろう。何しろ、彼らは丸腰なのだし、海賊達をわざわざ警戒させる理由もないはずだ。

 そして背後には海しかない。崖の裏か、その反対側の茂みの中か、どちらかに俺の仲間がいるだろうと推測したのだ。

 だから、彼は四人の配下を二人一組にして、左右に送り出した。


 では、わざとらしく喚き散らした生意気な少年については、どう始末をつけるか? シンがやるしかない。それに、彼としても自分で仕返しをしたかったのだろう。だが、片腕と腹にダメージがある以上、できれば体力勝負は避けたい。走り回って傷口が開くのは、面白くなかろう。また、全力で子供を追い回しては、本当に小屋ががら空きになる。お手軽にケリがつくなら、それに越したことはない。


 それらを考え合わせれば、幻影を有効活用するのが、一番効率的だ。最初は、シン自身まで外に出たように見せかけた。不用意に扉を開ければ、奇襲を浴びせてやれる。だが、それには失敗した。

 とはいえ、やってきたのは俺一人。勝てるわけもないから逃げる。なら、なんとか逃げ延びたいという俺の焦りにつけこみ、判断力を奪ってしまえば。後先考えずに、目に見えるままに坂を駆け上がるなら、行く先は足場のない崖の向こうだ。

 しかし、その作戦まで失敗した。俺は直前で立ち止まってしまった。まだ遠いが、後ろからじりじり距離を詰めるシン。その表情には、明らかに苛立ちが見てとれた。


 幻影を見破っても、状況はさほど改善していない。

 シンはちゃんと位置取りを選んでいる。俺の斜め後ろ、南東から北西に向かって歩いてきていた。真北に向かって歩けば、俺が左に駆け出して、崖の途切れる森の中に逃げ込む可能性があるからだ。しっかり崖っぷちに追い詰めようとしてきている。


 やるしかないのか。身体強化なしで。

 俺は、慌てて周囲を見回す。手頃な大きさの木の枝。足元には落ちていなかったので、近くの若木から、枝を折り取った。一応、木質化した部分を残して、先端は千切り取る。だが、こんなもので、何ができるのか。相手は鉄でできた直剣を腰に帯びているのに。

 剣……待てよ?


 シンは、崖を背にした俺の前に立った。辛うじて剣が届く程度の距離だ。俺は両手で木の棒を構える。それを見ながら、彼は冷笑を浮かべた。腰から剣を抜く。

 やはり、か。

 それから、ゆらりと肩を揺する。その動作を見るのは三度目だ。但し。


 シンが必殺の逆袈裟斬りを繰り出した、まさにその瞬間。

 俺の口が短い詠唱を終え、木の棒が鋭く彼の右手を打った。


「うぁっ!?」


 小気味よい金属音を響かせながら、鉄剣が下生えの上を転がる。そこへ俺は横っ飛びに転がり、ようやく武器らしい武器を手にした。


 つまりは、そういうことだ。

 今のシンの動きは、ド素人といってもいいほど、遅かった。それに、剣の握り方も甘かったのだ。手元への一撃と『行動阻害』の呪文だけで、こうなった。


 剣術の知識はあっても、経験がごっそり抜き取られていた。そして、そのことに彼自身がまったく気付いていなかったのだ。

 無理もない。スキルを失ったのは、フリュミーに逆袈裟斬りを仕掛けていた最中だった。あれ以後、彼は一度も剣を振っていない。まさか初心者に逆戻りしているなどと、どうしてわかるものか。


 驚きに硬直するこの瞬間を見逃す手はない。

 俺の上背では、頭部を狙うのは難しい。だが、足ならば。

 全力で突きを放った。彼の右足に。


「ぐっ!」


 切っ先は、彼の太股を捉えた。刀身から伝わる、肉に食い込む感触。やった、という気持ちと、這い上がってくるような不快感とが、ないまぜになる。

 そのままシンは、なすすべもなく、その場に尻餅をつく。いまや左腕も満足に動かせず、右足も負傷した。残った右腕だけでは、次の一撃は受けきれまい。

 喉元に刺突を。俺は視線を向ける。


 目が、合った。

 シンの目を、見てしまった。


 手が止まる。

 もう、シンは動けない。戦えないはずだ。

 俺の目的は、彼を殺すことじゃない。無事にピュリスに戻ること。

 トドメを刺す必要はない……


 そう思った瞬間だった。


 シンは体を滑らせ、地面の上で蛇のように腰をよじる。残った左足で俺の脇を蹴ったのだ。

 余計なことに気を取られていた俺は、それを避けられなかった。


「あっ!?」


 体重が、重心が。体が左に泳ぐ。剣を取り落とす。あらぬ場所を掴もうとして……

 浮遊感。

 ついで、耳元に、体に、崖下から吹き寄せる風が。

 遠い地面がすぐ近くに。


 ……鳥!


 バサッ、という音が、俺の耳元に届く。

 崖下から吹き上がる暴風を、俺の翼は見事に咥えこんだ。落下に急激なブレーキがかかったかと思うと、そのまま、制御のつかないほどの勢いで、壁際を押し上げられていく。すぐ上には、ふらつくシンが見えた。地面に叩きつけられたであろう、俺の姿を確認すべく、立ち上がったのだ。その顔に、三メートル近い幅の怪鳥がぶつかっていく。


「うおっ!?」


 予想もしない突然の襲撃に、彼は仰け反った。

 一方、俺は彼の背後に回り込み、そこで人間に戻る。すぐさま足元に転がる剣を拾い上げた。


「やあっ!」


 力任せに、ただ横薙ぎに。

 シンは鋭く振り返り、避けようとした。だが、右足が利かなかった。そしてそこは、崖っぷちだったのだ。


 その一瞬。

 また目が合った。


 信じられないものを見るかのような目。

 逃れようのない死を直感した目。

 それが、途方もなくゆっくりと、下に下にと……


 ふっ、と彼の体が視界から消える。

 俺が崖っぷちに寄る前に、ドッ、という音が小さく聞こえた。


 足元に注意しながら、俺は下を見た。

 崖下の砂場に、白いズボンと、包帯の巻かれた胴体が見えた。小さく赤黒い染みも。

 そして、ピアシング・ハンドの能力をもってしても、それが何者であるかを判別することはできなかった。


 何かが、胸の奥にずっしりと落ちてきた。

 いくら瞬きしても、眼下の景色は消えなかった。それは幻影ではなく、まぎれもない実体だったから。

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