一人、夜空を見上げる
夕方四時過ぎとなると、もうかなり薄暗く感じる。斜めに差し込む日差しが、ピュリスの真っ白な建物に彩を添える。空から見下ろせば、できの悪い麻婆豆腐に過ぎないが、地上から見る分には、そう悪い景色でもない。
「今年もありがとうございました!」
エンバイオ薬品店の今年の営業は、これでおしまいだ。縞瑪瑙の月、三十日。この世界では、どこでもこの日が仕事納めだ。明日からの六日間は、基本的にお祭りとなる。
一応、日程というものがあって、今夜とか、明日の夜あたりがまず、盛り上がる。この時期、実家に顔を出しに帰省する人も少なくないので、まずは今のうちに忘年会を済ませておくのだ。この時点で、飲食店は大忙しとなる。
二日目、三日目もお祭りの続きだが、夜遅くまで騒ぐ人は少し減る。私的な宴会や会合がもたれるのが、この時期だ。多くの場合、自宅にお客を招く形になるため、飲食店としては一気に閑古鳥が鳴く。昼間に喫茶店みたいなところで友達と語り合う人くらいはいるが、それくらいの需要しかないのだ。だが、これがないと、彼らも休みの日を入れられない。
この中休みを挟んだ後、四日目、五日目には、改めて盛大に祝う。お祭りの本番だ。街中が渦巻くような喧騒に包まれる。
対照的に、六日目はただの休養に充てられる。無理もない。五日間も酒を飲み続けるのだ。二日酔いになって寝転ぶ日、と相場が決まっている。そうして身も心も清め終わってから、蛋白石の月、第一目を迎える。仕事によっては、この日から通常業務が始まるが、多くの場合は、人々は女神の神殿なり、セリパス教会なりに通って、神に祈りを捧げる。
というわけで、うちもそれに合わせて予定を立てている。
今年中の営業は、今日まで。明日から六日間はお休み。但し、急患が出た場合には、俺が在宅であれば、薬の販売は行う。急性アルコール中毒とか、絶対ありそうだ。
だが、アイビィについては……
「ごめんねぇ」
店内の椅子に座る俺に、路地に立つ彼女が申し訳なさそうに言う。
グルービーの命令で、これから一度、コラプトに戻らないといけないそうだ。往復に時間がかかるのもあり、彼女が復帰するのは、来年一月の半ば頃からだ。俺がコラプトに行った時には、馬車での移動だったので、やたらと時間がかかったが、彼女は直接馬に乗っていく。多少は日程を短縮できるはずだ。
それならそれで、別の人員を寄越しておいてくれればいいのだが、今回は急な話というのもあって、代理が用意できなかったらしい。つまり、グルービー側の手落ちだ。
「大丈夫だよ。最近は、お客さんもマナーがよくなってきたし」
特に、一ヶ月前の、アイビィの膝蹴り以降は。
ケインはしばらく寝込んだ後、店を閉じたらしい。噂では、また国軍に雇ってもらえないか、打診しているのだとか。
「お店はなんとかなるとしても」
アイビィの暗い表情。割と珍しいかもしれない。
「ほら、年末年始の楽しい時期に、フェイ君を一人きりにしておくなんて、お姉さん、悲しい」
あ、今、わざとらしさ、入った。自分で自分の体を抱きしめるようにして、身悶えしやがった。
いや、俺は別に気にしないんだが。たまにはぼんやりできる日も欲しい。それに。
「いや、問題ないよ。酒場の仕事もあるし、子爵家のほうでもやることがあるからね」
「そっか」
はて。
一瞬、彼女の表情に、本当に翳りのようなものが見えた気がした。
いや、気のせいか。
「今日はもう、休もう。せっかくだから、アイビィの分は、今夜お祝いしよう」
明日は酒場の手伝いに忙しいし、明後日は子爵家の家中のパーティーだし。丸ごと休める日って、三日目と六日目にしかない。休めるだけマシか。料理人ってのは、こういう立場なんだよ。くそっ、収容所を出て、普通の暮らしをするようになった途端に、前世と同じような状況になってるなんて。
なお、一応、一月一日は、午後からの営業とさせてもらった。午前中は、見物がてら、女神の神殿に詣でてみようかと思っている。
翌朝一番に、彼女は出かけていった。
俺も、今日は一日、酒場のお手伝いになる。
朝から仕込みが始まる。昼過ぎからちょっと休憩が取れるが、夕方以降に客が殺到するので、そこからは真夜中まで休みなしだ。本当はこんな日にまで働きたくないけど、特別手当を出すって言われたらなぁ……
果たして夕方からは、まったく休む暇がなかった。この店、俺が来てからは、基本的にいつも満席なのだが、今日はそれに加えて、立ち食いする連中まで混じっている。店の外にも臨時でテーブルだけ広げて、ひたすら商売だ。
そういう状況なので、泊まり込んでいる連中も、抜け目がない。少し早い時間に降りてきて、場所取りを済ませている。何も注文しないで席だけ占拠するのも悪いと、これまた酒くらいは注文する。今はもう、店内はすし詰め状態だ。
「おー、フェイ、こっち! エール全部、それ、ここ!」
ガッシュの声だ。いつもの窓際ではなく、今回は中央のテーブルをいくつもくっつけて、輪になって座っている。他にもドロルやハリ、ウィーといった見知った顔に、なんとギルド支部長のマオ・フーまでいる。
「どうもです! お待たせしました!」
「ほっほっほ」
今日も白一色のカンフースタイルな老人が、俺を見て笑っている。でも、ここ、酒場だぞ。そんな真っ白い服だと、いろいろ料理のタレとか油とかがハネて、汚れたりしないかって思うのだが。
「本当にここで働いておるとはな。この鶏肉の料理は、お前さんのか?」
「あ、はい! お口に合いましたでしょうか!」
「滅多に口にできない上質な料理じゃな。来てみてよかったぞ」
「ありがとうございます」
頭を下げる。だが、客は他にも大勢いるので、あまり立ち話ができない。
立ち去ろうとしたところで、俺に手を振るウィーが目に入った。
「どう? あれは役に立ったかな?」
「はい! おかげさまで、明日の仕事、なんとかなりそうです!」
「そう、それはよかったよ」
それだけのやり取りで、俺は改めて頭を下げて、厨房に走る。
彼女には、別途、仕事を頼んでおいたのだ。本格的な冬になる前に、改めて猪の狩猟をしてもらった。これらは急いで血抜きをして、なるべく早く持ち帰った。うちの地下室で寝かすことしばらく。これらの素材は、明日の夜、子爵家の皆さんに振舞うことになっている。
「おい、フェイ! 油売ってんな! こいつを三番テーブルだ!」
店長が怒鳴り声を上げる。
「はい、ただいま!」
慌てて、仕事に注意を振り向けた。
それからほぼ一晩中、俺はひっきりなしの注文に追い回されることになった。
翌朝。お祭り週間の二日目だ。
お祭りの季節だというのに、俺はまだ、一度もそれを満喫していない。しかし、それを不満に思ってもどうしようもない。いつもの酒場はお休みでも、俺には別の仕事がある。
いい加減、だるくなってきた体を引き摺りながら、俺は総督官邸の東門をくぐった。
「いつまで待たせるんじゃ!」
口調は厳しいが、裏腹に態度は柔らかい。その眼差しこそ雄弁だ。
料理長は、本当に俺が来るのを待っていたらしい。子爵家の広々とした厨房には、彼だけでなく、他の見習い料理人が勢揃いしている。
「お前達! 今日はフェイの仕事ぶりを見て、しっかり勉強せい!」
今日の俺の仕事は、料理を一品、作って出すこと。
年末年始のイベントシーズンは、子爵家にとっても重要な時期だ。睡蓮の広間でも、四日目の夜に盛大なパーティーが催される予定になっている。ほぼ毎日、何らかの催しが詰め込まれているのだ。
だが、今日、この二日目は、家中のお祝いに充てている。そして三日目は、特に用事が割り当てられていないものには、休暇を与えている。
ちなみに、四日目は俺にとっては悪夢だ。午前中は酒場のほうで仕込みを手伝い、午後はまた立ちっ放しのオブジェになる予定だからだ。しかも、五日目も酒場で一日仕事。俺、まだ六歳なんだぞ?
で、家中の者がのんびり過ごしながら、ご主人様からの恩恵ということで、ご馳走をゆっくり食ってる間、俺はその供給源となるべく頑張るわけだ。しかも、料理長の要望に従って、いまだ未熟な見習いどもに手本を示しながら。
俺が今回、作ることにしたのは、猪のジビエの水煮だ。ワインなどで臭みを消すのではなく、丁寧に煮ることで、自然とすっきりした味わいとなるようにする。そして、味付けも柑橘系のソースを使う。しっかりした旨みがあるのに、サッパリした印象を与えたい。ただでさえ、この時期にはご馳走にお酒が続いて、胃腸に大きな負担がかかるのだ。
材料については、やや妥協せざるを得なかった。本当は成獣の猪ではなく、その子供の肉のがよかった。硬さに違いが出るからだ。だが、今回は子爵一家だけでなく、官邸内に詰めている召使全員に振舞うのだから、分量が必要だった。
まず、手順を見せ、ついでみんなを監督して、同じことをさせてみる。といっても練習ではないから、少しでも問題がありそうなら、飛び出していって修正する。料理長がいるので、思ったほど苦労はしなかった。
料理が出来上がったなら、まず召し上がるのは、やはり主人だ。だが、給仕するのは厨房組ではなく、別にそのための係りがいる。だから、一息ついて、気楽に過ごしていた。
そこへ、いきなり声がかかった。料理長が呼んでいる。
「フェイ、お前のことを、閣下がお呼びだ。顔を出せ」
「は、はい」
真っ白な料理人の服装のままだが、着替える時間も与えられず、俺は給仕担当の若い男性の後についていった。
官邸の一番奥まったところ、子爵一家のダイニング。意外と広さはない。なんか、貴族の館の食事スペースというと、縦に細長いテーブルがあって、そのお誕生日席に主人が座って……みたいなイメージがあったのだが、ここはそうでもなかった。
確かに、部屋の奥にサフィスは座っているし、位置もお誕生日席なのだが、そもそもテーブルの長さがない。左右にエレイアラとリリアーナ、それにウィムが座っているだけで、せいぜいあと一人分しか空きがないのだ。
室内の調度品は、どれも高級そうだが、派手すぎないものばかり。全体として、威厳とか権威より、落ち着ける空間を目指しているように見える。まあ、屋敷内でも公的な空間以外は、みんなこんな感じなのだが、はて……
ふと思ったが、これ、子爵本人じゃなくて、夫人の趣味で統一されているんじゃないか? 彼女本人は公式にはセリパス教徒ではないけれども、その影響を多大に受けている。
例えば、テーブルのサイズだってそうだ。フォレス人貴族なら、側妾の一人や二人はいて当然で、だから当然、子供の数は多くなる。というか、子孫繁栄、お家の断絶を防ぐためにも、そうするべきなのだ。で、子供が多ければ、それらに序列を設けて、長細いテーブルに並ばせる必要だって出てくる。
だが、セリパス教的な価値観を有する彼女は、サフィスに側妾も愛人も許さなかった。といって、彼女も普通の人間でしかないから、一度の妊娠出産に十月十日が必要で、だから子供は現在、リリアーナとウィムしかいない。次が生まれる保証もないだろう。
子供が増えないのなら、テーブルのサイズだって、最初から小さくていい。だから、食堂には狭い部屋を割り当てれば済むし、調度品の数も、それに従って少なくなる。結果、まるでルイン人貴族の私的領域みたいな雰囲気になる。
前から俺は、こういうところがサフィスらしくないな、と感じていた。見栄っ張りの彼なら、必要がなくても、もっと立派な部屋、目立つ置物を用意させるだろうからだ。
或いはもしかすると、彼の父がいろいろ見越して、お膳立てをしたのだろうか?
貴族の結婚は、普通、親同士が決める。つまりサフィスの父親が、あえてエレイアラのような女性を選んだ、というのもあったのかもしれない。
サフィスの父、フィルは、有能な財務官僚で、宮廷での立ち回りにも長けていた。ついには晩年にピュリス総督の地位を得るにまで至った。しかも、息子に継がせる約束まで取り付けた。しかし、彼にはきっと、一抹の不安があったに違いない。
確かに息子の評判は悪くない。学生時代の成績もよく、軍務に就いてもそつなく役割をこなしてきた。だが、それだけだ。苦労してド田舎のトヴィーティアから這い上がってきた自身とは違って、初めから貴族の息子として、輝かしい人生を、ただ与えられてしまった。しかも、美貌にも恵まれて、社交界でも話題の青年の一人に数えられている。
俺がそれと気付くくらいだから、やり手の官僚だった彼の父が、息子の本質を見抜いたとしても、何ら不思議はない。父は、必要に駆られて権謀術数を張り巡らせてきたのだが、息子のほうは、それにいちいち興奮する性質だった。しかも、下々には興味を示さない。与えられた名誉に酔いしれ、虚栄に踊らされやすい若者の危うさに、対策を要すると考えたのは、むしろ自然だろう。
その布石の一つが、イフロースなのだろう。大陸南西部の紛争地帯出身の叩き上げの傭兵指揮官を、わざわざ家宰に抜擢した。父の代から仕える重臣なのだから、サフィスといえども、その威光を無視するのは難しい。
そしてもう一つが、きっとエレイアラなのだ。美男子で、権力の中枢にも近いサフィスに対して、あらぬ考えを抱く女性も少なくない。だが、それに調子付いて、情欲に身を任せればどうなるか。しかも虚栄心とセットで暴れだしたら、もう手がつけられない。そうなる前に、夫にしっかりと首輪をつけられる女性……こう考えれば、すべて納得がいく。
エレイアラは、融通が利かないところもあるが、聡明な女性だ。しかも美しい。見栄っ張りの夫をうまく押さえつけて、必要以上の出費をさせずに済ませているのは、恐らく彼女の功績なのだろう。
「フェイ」
そんなことをつらつらと考えていると、隣に立つ給仕担当から、小声で呼ばれた。そろそろ、俺の料理が出されるようだ。
彼がカートを押して料理を給仕している間、俺はカーテンの奥に隠れて立っていた。どうだろう、俺の一皿にどんな反応をされるのか。やはり、自分の料理に対する評価は気になる。
一応、この料理の前には、魚料理も出されている。通常、間に挟むソルベについては、俺が料理長に頼んで、あえて省略してもらった。じゃないと、このソースの味が引き立たないからだ。どうせこの後、今度はきっちり煮込まれた、濃厚な味の肉料理が出てくるのだから、これがソルベと言えなくもない。無茶苦茶だが。
通常と異なる組み立ての料理に、サフィスは一瞬、眉を顰めたが、一口食べて、形容しがたい顔をした。
あれは驚いているのだ。質素なのに、しっかり旨みがある。味付けは塩、胡椒に、柑橘系のソース。どれも、肉本来の旨みを強調するためのものだ。そして、味わいが、どこかに偏るのを防ぐためでもある。
考えてみれば、この料理、子爵の好みとは正反対かもしれない。きらびやかな足し算ではなく、地味な引き算でできているからだ。
裏方の合図で、俺は進み出た。
「やあ、フェイ」
子爵は、いつもの笑顔を浮かべて、フランクに呼びかけてくる。
「前にエレイアラに聞いたんだが、なんでも、セーン料理長相手に、スープで勝負を挑んだそうじゃないか。しかも、私が公務でいない間に」
「はい」
「後で知って、残念に思っていたんだ。それなら、一度作らせてみればいいと思ってね。なかなか面白い味だったよ」
「ありがとうございます」
幸い、リリアーナは暴走しなかった。それでも、キラキラした瞳を向けてくる。エレイアラのほうは、よくわからない。これまた貴族らしい、感情の読み取りにくい笑顔を作ったままだ。一方、もうすぐ三歳のウィムは、ぶすっとした顔で俺を見つめている。
「君の活躍できる場面は、それこそいくつもあるようだね。喜ばしいことだ。今後も頑張りたまえ。きっと報われる日がくるだろうからね」
「もったいないお言葉です」
脇に立つイフロースの目線を汲み取って、俺は一礼して辞去する。
これで一安心だ。俺の仕事は終わった。明日は休める。
そう思って厨房に引き返すと、料理長が俺に声をかけてきた。
「フェイ、お前もせっかくだから、食ってから帰れ」
自宅に帰って、わざわざ火を熾して、また何か作るのもだるい。お言葉に甘えて、俺は自分の食べる分をトレーに載せて、召使用の食堂に向かった。
「あっ」
そこで、一家団欒に出くわした。あろうことか、ナギアとルード、それに乳母に船長だ。ちょうど今、彼らは俺の水煮を食べていた。
「フェイ君じゃないか」
船長が、友好的な態度で手を広げる。ああ、やりにくい。俺はナギアもルードも大嫌いなのに。乳母については、嫌ってはいないけど、薄気味悪いと感じているのに。船長一人だけ、カラッとしてるから、なんとも対応に困る。
「こっちに座るといい、さ、遠慮せずに、な?」
そう言われて、遠くには座れない。
ああ、またナギアが睨んでいる。
「君にはお礼を言いたくて。夏に書類を届けてもらった時、小銭を渡したけど、まさかそれが、こんな形で返ってくるなんてね」
そう言うと、彼は羽織っている外套を広げてみせた。
「前に使ってたのが、ボロボロになってきてて。それが今回、ピュリスに戻ってきたら、新品があったんだ。聞けば、ナギア達が僕のために買ってくれたそうだけど、そんなお金、どこから出てきたのかって」
そう言いながら、俺の肩に手を置いてくる。うん、彼のことは不快ではない。彼だけなら。
だから、親しげにされればされるほど、ナギアが睨んでくるんだってば。
「接遇を外れても、君は間違いなく、子爵家のエリートだ。カーンから話を聞いた時には、びっくりしたよ。もう、一流の薬剤師だなんてね。君ならきっと、腕輪を授かることになるさ」
「……そうでしょうか」
「ああ、そうだとも。僕なんかとは、比べものにならないくらい、既に優秀じゃないか」
そう言いながら、彼は袖をまくった。そこには、複雑な紋様の施された銀の腕輪が輝いていた。
「僕でさえ、与えられたんだからね」
「おめでとうございます」
これで晴れて彼も騎士身分になった。ナギアもさぞ誇らしいことだろう。
「だから、さ」
「はい」
「娘のこと、よろしく頼むよ」
「お父さん!」
ナギアが嫌そうな顔で、抗議する。それを船長は、酸っぱいものでもかじったかのような、悪戯っぽい顔をして、身をすくめる。
あー……そういうことか。離れている時間が長すぎて、わかってないんだ。これを娘の照れ隠しだと思ってるあたり、救われない。
「ははっ、気が早すぎたかな」
早くない。遅くもない。
ナギアはきっと、それなりの美人には育つだろう。でも、俺が手をつけることは一生ない。今、ここで誓ってもいい。
「そうだ、フェイ君」
「はい?」
「まだ計画段階だが、もしかすると、来年の春あたり、サハリアに行くことになるかもしれないんだ……で、イフロースやカーンとも相談しているんだが、もしかすると、君もそこに呼ばれるかもしれない」
「そうなんですか?」
でも、店のほうはどうするんだ。
一時的に誰かを寄越すか、アイビィにまかせっきりにするか……まだ、あんまり収益、あげてないからなぁ。
「いろいろ忙しいだろうけど、気持ちの準備だけはしておいてくれよ」
「はい」
ただ、サハリア……か。
いろんな世界を見てみたい気持ちは、ある。本で読んだだけの、内海の向こう側。行けるのなら、連れていってほしい。
結局その後、俺は、彼ら四人が別のところに行くまで、忍耐を重ねることになった。
……灯りもない中、見上げられない月の光だけを頼りに、俺は歩いて自宅に戻った。
街は静まり返っていた。青白い光の中、静寂に包まれたピュリス。しんと冷え切った真冬の空気が、この景色の清らかさを際立たせていた。
明日は一日寝よう。そればかり考えていたはずなのに、気付いたら、頭の中から何もかもが消えていた。見慣れたはずの通りなのに、初めて見るかのようで、新雪を踏みしだくような不思議な快感があった。
路地に入ると、暗さが増した。でも、ここまでくれば、何も見えなくても、間違うことはない。
自宅の扉に触れる。その指先が吸い付いてしまいそうなほどの冷たさだ。鍵を差し込む僅かな振動だけで、扉は重々しい呻き声を漏らした。続く金切り声と怒声の後、残響が徐々に静まっていく。
ランタンをつけなくても、俺は困らなかった。火の気はきれいに落としてあるので、家の中は寒い。もちろん、空気の流れが遮断されている分だけ、外よりは微妙に温かいのだが。ここまで歩いてきたのもあって、俺の皮膚は冷えていても、体の中はまだ、温かかった。
階段を登る。二階についた時、ふと思いついて、木の椅子を手に取った。そのまま、三階を通り過ぎて、屋上まで出る。
屋上のテラスに、椅子を置く。
周囲には、誰もいない。この時間、みんな家の中で静かに飲んでいるか、もう眠っているかだろう。
俺は月を避けられる方向を選んだ。なんとなく、東側を向いた。
いろんなことがあった一年だった。
激動の一年といってもいい。
去年の今頃は、まだ俺は収容所にいた。この、ピュリスのずっと東。コラプトを含む山岳地帯を越えた向こうにあるエキセー地方に、ミルークの隠れ家がある。
あの時は大変だった。タマリアの弟のデーテルが、実は殺されていたとは。それでミルークの機嫌が悪かったのに、ドロルのバカが、その事実を知らせる手紙を、わざわざ部屋に投げ込んだものだから……どうなるかと思ったが、周りのみんなが助けてくれた。
その後のミルークの謝罪が、まさか貴族の食べるようなスイーツに形を変えてやってくるなんて、思わなかったが。
春になって、犯罪奴隷達がやってきた。蹴飛ばされて、痛い思いもしたが、あの時、イリクから奪い取った身体操作魔術が、今では俺の切り札になっている。
オークションでは、子爵家とグルービーが、俺を奪い合った。結果、俺はイフロースに落札されてピュリスに来たわけだが……今思えば、とにかく想像力が足りなかった。どうしてドナをあのまま行かせてしまったのか。
子爵家での暮らしは、窮屈そのものだった。因習やしがらみにとらわれるばかりで、毎日が息苦しかった。
だから、カーン率いる商隊に参加させてもらえたのは、俺にとっては幸運だった。ここから遠くに見えるあの山のどこかに、コラプトがある。三日が経ったが、今頃、アイビィもグルービーの屋敷に到着した頃だろうか。
俺は突破口が欲しかった。そんな中、たまたまお嬢様……リリアーナが誘拐された。ピアシング・ハンドの能力があったから、後をつけるのは難しくなかった。
だが、俺は自分の力を過信していた。上級冒険者くらいなら打倒できたものの、本当の達人相手には、手も足も出なかった。俺には実戦経験が不足していたし、ちゃんとした訓練も受けたことがなかったからだ。しかも、いざ、切り札を使おうにも、多数の敵に囲まれては、どうしようもなかった。
苛立ちのままに料理長に喧嘩を売ってしまった。多分、これが引き金になったのだろう。俺は通商部からも追い出された。
ただ、これはよしあしだったのかもしれない。料理スキルが枠を占拠したせいで、俺は先を急ぐのをやめた。他の、よそから奪った技術ならいざ知らず、前世からの俺の努力の蓄積を、いまさら放り捨てる気にはなれなかったのだ。
それに結果として、俺は出会いにも恵まれた。ウィーやガッシュは、今では俺の店の常連だ。酒場の店長も、なんだかんだいって、俺に肩入れしてくれる。
今、俺が忙しいのは、それだけ価値が認められているからだ。そう思えば、そんなに悪い気もしない。
……本当に、いろんなことがあった。
収容所での三年半が、なんだかぼやけてきそうなくらいに、密度の高い日々を過ごしてきた気がする。
俺はこれからどうなるんだろうか。
俺と一緒に過ごしたみんなは……
ウィストは、コヴォルは、ディーは、元気にしているだろうか。
タマリアは、あれから娼館に送られたのだろうか。
ドナは……ここからたった一週間、いや、俺が鳥になれば数時間で行ける場所にいる。グルービーの下で、苦しい思いはしていないだろうか。彼女だけは、俺の努力次第で、或いは救い出せるのかもしれない。
ミルークは、相変わらず、子供達を引き取っては育てているのだろうか。
ジュサは、先生は、やっぱりみんなをかわいがっているのだろうか。
ジルは……結局、よくわからなかった。彼女とミルークの関係は、トック男爵領壊滅の真相とは、どんなものだったのか。
そっと手元の指輪を見る。
あの日の夜。俺の秘密の一部をミルークに教えた時、彼がくれた銀の指輪だ。
自由の身になったら、弟のティズに会いに行け。
その日は、いつになるのだろう。
まだまだ遠い未来のような気もするし、意外とすぐ、その日が訪れるのかもしれない。
そっと空を見上げる。
黒い夜空に、無数の銀の光がひしめきあって、そこだけが濃い藍色を滲ませていた。
心の中にしみわたる思いに、どこか何か、似たものを目にしたような気がした。ふと、故郷の村の祠の奥にあった小さな滝を思い出す。
音もなく瞬く星々。その輝きを織り込んだ、壮大な一幅の絵画。
その中に俺は、世界の祝福を見つけた気がした。
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