新生活を祝って

 そろそろ日が落ちる。開けっ放しの窓から差し込む光に、橙色が滲んできた。

 日没が早くなってきた。現代日本の蛍光灯が懐かしい。あれがあれば、夜遅くまで活動できるのに。ただ、だからこそ、みんな夜中まで残業していたのだろうし、過労死する人も出てきてしまったのだろうが。この世界では、そこまでワーカホリックな人は、ほとんど見かけない。

 ピアシング・ハンドにとって、俺の初めての肉体に何か特別な意味があるのかどうかはわからないが、あまり酷使して、後から問題を抱え込むのは避けたほうがいいだろう。具体的には、視力の低下は防ぐべきだ。この世界にも、一応、眼鏡はあるのだが……もう少ししたら、読書をやめなければいけない。


 けれども、できればもう少しだけ、読み進めたい。

 この本、金貨二十枚もした。それも中古で。けれどもやっと手に入れた、念願の一冊。

 魔術理論の書籍だ。カバーしているのはほんの基礎だけで、しかも具体的な魔術については、ほとんど掲載されていない。それでこの値段。

 ジュサが前に言っていたが、まさに魔術は金食い虫だ。こんなの、庶民なら勉強しようだなんて思えない。


 内容を見ると、ますますその思いが強くなった。

 まず、呪文だけでもひどいものだ。その発音の難解なこと。母音が三十六個、子音やその他の音素が七十二個。発音だけでも、デタラメにややこしい。声調もある。それどころか、どこぞのアフリカの言語みたいに、息を吐くだけでなく吸い込む際に出る音や、舌打ちのようなものまで、音素になっている。しかも、手早く詠唱する場合の省略形や例外の規則などもあって、やたらと複雑だ。

 では、文字は百八種類なのかというと、それはいわゆる「カナ文字」扱いだ。カナに平仮名と片仮名の違いがあるように、魔術文字にも、様々な表記方法がある。それも、二次元だけでなく、三次元的な表記まで含む場合がある。もっとも、それを活用するのはたいてい、魔術道具を製作する専門家だけなのだが。

 一方、漢字のような、意味のまとまりをなす記号もあり、場合によってはそれらを用いないと、理論上、有効な記述ができないケースもある。というのも、魔術文字を書く場合、その図形の大きさや形も問題となるからだ。呪文の詠唱ではその差を意識する必要はないが、口先だけで行使できる魔術は決して多くない。

 俺の切り札である身体強化魔術。あの魔法薬に刻まれた文字も、そうした魔術文字の中の複合的な記号の一つだった。これは相当勉強しないと、自由自在に魔術を扱えるようにはなれまい。


 階下から足音が近付いてくる。

 目の前のドアが開いた。


「あら? お勉強ですか?」


 遠慮なく室内に踏み込んできたアイビィは、丈の低いテーブルを挟んで、俺の真向かいに座った。


 今、俺が座っているのは、新居の二階、広間のほうだ。俺が入居した際には、既にアイビィの手によって、何もかもが整えられていた。この部屋は、俺の考えに従って、段差を作り、靴を脱いで上がりこむようにしてある。背の低いソファを二つと、それに長さを合わせたテーブルが一つ。足元にはシュライ産の茣蓙みたいなマットが敷いてあるが、もう少し寒い季節になったら、サハリア産の絨毯に交換する予定だ。

 これらの品物を取り揃えるのに、彼女はちゃんと空気を読んだ。以前、入居先を見に行く際、高級な服を押し付けられて、俺が散々抵抗したのを覚えていたからだろう。この家にあるものは、庶民にも手が届くレベルの品ばかりだ。要求すれば、最高級品で固めるのも可能なのだろうが、そんなことでグルービーに貸しを作りたくはない。


「うん、ちょっとだけ……もうすぐ、暗くなるから、今のうちに」


 とはいえ、人が傍にいるのに、本に夢中なのも失礼だろう。俺はそっと魔術書を閉じ、目の前のテーブルに置いた。


 さっき、彼女はノックもせずにこの部屋に立ち入ったが、これは予め相談して決めたことだ。三階の私室に立ち入る際は、必ずノックをすること。勝手に私物に触れないこと。だが、それ以外の空間は、自由に出入りしていい。最低限のプライバシーは守りたいが、窮屈なのも嫌なのだ。


「それは何の本……」


 尋ねかけて、アイビィは口を閉じた。


「魔術の基礎なんだけど、アイビィはわかる? 教えてくれたら嬉しいんだけど」

「えーっ……」


 俺は知っている。彼女にはある程度、魔術の知識がある。精神操作魔術が3レベル、ならば六年前後に相当する練習時間があったはずだ。ただ、優秀な教師がいれば、それに熱心に訓練すれば、もっと期間は短縮できる。師匠はグルービーに違いない。彼女は、いったいどこまでの能力を有しているのだろう?


 この教本によれば、実は、精神操作魔術や身体強化魔術は、割と結果を得やすい部類であるらしい。なぜかというと、現象が術者や、対象となる人間の内側に留まるからだ。他にも、動物を制御したり、占いで予測を立てたり、といった部類の行動は、案外、垣根が低いとされている。

 逆に、火魔術や水魔術のように、目に見える物理現象を引き起こす魔術は、努力の割に報われない。小さな火を点すだけでも、高価な魔法薬や媒介となる魔道具が必要で、およそ経済的に釣り合いが取れないことのほうが、ずっと多いのだとか。

 だが、そうした問題を乗り越える手段もある。魔術核の獲得だ。これを体内に取り込むと、その人自身が魔法の道具同様となる。こうなると、触媒を用いなくても、ある程度の魔術を簡単に行使できるようになる。


 具体的には、例えば俺は、身体強化魔術を5レベルで習得している。だが、呪文だけで簡単に発動できるのは、恐らく1レベル相当の術くらいだ。ゆえに、アネロス・ククバンやキース・マイアスにしても、本来なら、呪文や動作だけでは、せいぜい2レベル相当の魔術までしか行使できない。ところが実際には、キースはもっと難易度の高い術をあっさり操ってきた。俺の体内の魔法薬を洗い流したり、足元を瞬間的に凍らせたり。どう見ても中級クラスの魔術を次々放ってきた。彼にはランク3相当の魔術核があったのだ。

 残念ながら、魔術核の製造法は、一般には知られていない。もしかしたら、どこかには伝わっているかもしれないが、それすらもうわからない。残存している魔術核は、どんなに低級なものであったとしても非常に稀少かつ高価で、仮にオークションに出されでもしたら、天井知らずの金額がつけられる。しかもこの魔術核、誰かが取り込んだらもう、取り出せない。使いきりなのだ。


 通常、人体にはほとんど魔力がない。それゆえにこうした工夫が必要とされるのだ。

 ただ、術者自身が大きな魔力を有する場合には、本来、魔力の通り道にしかならないはずの血液が、半ば触媒のように機能することもあるという。


 ただ、ややこしいのだが、では魔術の技量と魔力さえあれば、自在に魔法を使いこなせるのかと言えば、また少し違ってくる。

 魔術文字の複雑さを思い返せば自然と理解できることだが、特に高度な術を行使する場合、やはり道具の欠如が問題となる。十分な出力を得るのに必要な手続きが多すぎるので、詠唱だけでは賄いきれないのだ。

 だから、俺がイリクから奪った魔法薬のように、加工された触媒というのは、術者の能力を爆発的に高めるのに役立つ。魔力を与えるだけでなく、その出力の限界を広げてくれるのだ。


 アイビィは、本をパラパラとめくる。


「こんなの、よく勉強するよねぇ」


 呆れたように溜息をついてみせる。

 まあ、そうか。精神操作魔術を使えます、だなんて言えるわけがない。真っ先に俺が警戒するだろうからだ。ただ、そうはいってもたった3レベル。中級者程度の力量しかない。いきなり俺を操ったり、心を読み取ったり、といった芸当まではできないだろう。


 ちなみに、そうした超能力じみた現象を引き起こせるのは、実は魔術だけではない。この本で初めて知ったのだが、神通力なるものも存在するらしい。

 魔術の歴史は浅く、ここ一千年程度しかない。ギシアン・チーレムの昇天後に、中央陸塊に石版が降り注いだのが始まりで、それまでは魔法なんてものはなかった。いや、正確には「魔法」という言葉自体はあったが、それは特に、セリパス教徒によって敵視される邪悪な術のことだった。

 それに対して神通力は、なんと神話の時代から存在するという。原初の女神が、世界中に散らばる原人の願いを聞き届けて、様々な超能力を生み出し、与えていったのだとか。その効果は魔術に似ているが、詠唱も触媒も必要としない。但し、応用できる範囲は決して広くはなく、しかも現代、この能力を保持している人は非常に稀らしい。


「えーと、頑張ってくださいね」


 棒読みでそう言いながら、彼女は本をテーブルに置いた。


「まずは、仕事を頑張らないとだけどね」

「そうですね」


 二人して項垂れる。

 朝一番にこの新居に入り、店の体裁を整えた。それから昼に、近所の酒場兼宿屋に向かった。事前にアイビィが話を通しておいたという、例の一件だ。彼女には、酒場や宿屋だけでなく、娼館にも営業をかけるよう、指示してある。

 結論から言うと、交渉は失敗だった。俺の説明を、ほとんど理解してもらえなかったのだ。


 俺は、客に品物を買ってもらうために店を開けておくのは、壮大な時間の無駄遣いだと思っている。ビジネスで一番重要なのは営業? もちろんその通りだ。だが、ネット世代の俺には、店舗での対面販売が、まどろっこしく思えてしまうのだ。

 そもそも、マンパワーは限られているのだから、できることなら薬の製造にのみ注力したほうがいい。どこにどれだけ売れるか、前もって決まっていれば、それができる。


 だから俺はそもそも主要な客を、一般家庭ではなく、企業相手にしようと決めていた。一般家庭であれば、そこまで補充を必要としない洗剤や漂白剤も、酒場兼宿屋であれば、大量に消費する。そう考えた。

 ところが、相手の意識が低すぎた。清潔で真っ白なシーツを提供すれば、客の印象もよくなり、リピーターになってもらえる。これが理解できないのだ。

 わからなくもない。現代日本でも、同じ旅館に何度も泊まる人は、そう多くはないだろう。毎年、同じ温泉に通うファンならいざ知らず、ただの旅人なら、一度通り過ぎておしまいだ。海外のホテルなんかだと、もう最初から客を使い捨てるつもりでいるので、ひどい対応をするところがある。食堂では平気で腹を下すようなものを出し、夜、眠る際に冷房を切ると、途端に布団の中からダニの大群が襲い掛かってきたり、という有様だ。

 ただ、現代日本でそれをすると、ネット上に恨み言を書かれる。口コミは怖いのだ。常に競争の圧力に曝されているから、あまり無茶はできない。

 この世界では、まだそこまでの民度というか、口コミの圧力がない。今日の宿屋にしても、常連客がいないわけではないが、それはそういう場合にだけ、気をつければいい。酒場のほうにしても、店内をきちんと消毒しているかどうかなんて、目で見たってわからない。それよりは、少しでも値下げしたほうが喜ばれる。


 しかし、俺としては、それを見逃すわけにはいかないのだ。

 主要な顧客を企業と定めた理由。それは、ここが港湾都市だからだ。


 ただでさえ、大勢の人間が集まって生活する都市部は、不衛生になりやすい。これが、常に交易のために人の入れ替えが発生する港町となると、もう最悪だ。外部からの感染症がいつ、爆発的に広まってもおかしくない。

 人々は無防備に歩き回る。飲食店で食べたり、飲んだり、或いは料理を提供したり。ずっと海上で不自由を託っていた男達は、色町で欲望を発散させる。街に定住する娼婦達と、至近距離で触れ合うわけだ。それで宿に戻り、汚れのついたシーツに包まって眠る。

 ああ、考えただけで、鳥肌が立つ。


 この仕事は、腰を据えなければできないものだ。時間をかけて、周りから、市民の意識を変えていく。それによって、自分達も安定して利益を得る。短期的には難しくても、長期的には絶対に結果に繋がるはずだ。特に、何かきっかけでもあれば、人々の意識は大きく変わる。だが……

 ……俺にできるだろうか?


「あ、そうでした」


 ソファに座って体を揺らしていたアイビィが、何かを思い出したように、振り返った。


「フェイ君」


 業務時間中ではないから、君付けで話しかけてくる。もう、やめさせる気力も湧いてこない。

 彼女は、ニタニタしながら、続きを口にした。


「お風呂にする? ご飯にする? それとも……あたっ」


 どこで覚えた、そんなフレーズ。

 分厚い魔術教本の角で、頭をぶん殴ってやった。


「準備してくれるなら、夕食を済ませてから、お風呂に入ろうかな。でも、僕が自分でやっても」

「いいえ! ここは私が世話係としての責任を果たすのです!」


 そう言うと、すっくと立ち上がった。

 部屋を出る直前に振り返って、また笑顔。しかし、そこで思い出した。


「えっ、でも、ちょっと」


 俺は止めようとした。したのだ。


「期待して待っててくださいね!」


 ドアが勢いよく閉じる。

 彼女の一言に、俺は不安しか感じなかった。なぜなら……


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 アイビィ・モルベリー (24)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、女性、24歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 商取引    2レベル

・スキル 薬調合    3レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 投擲術    5レベル

・スキル 隠密     5レベル

・スキル 軽業     5レベル

・スキル 水泳     4レベル

・スキル 房中術    5レベル

・スキル 精神操作魔術 3レベル


 空き(13)

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 料理のスキルがない。まったくない。これだけいろいろこなせるのに、料理だけ。

 今までどうやって生きてきたんだろう。グルービーは彼女を俺につける際、この辺を問題視しなかったのか?


 だが、日が落ちきる直前、俺の不安は解消された。


「フェイくーん! 準備できましたよー!」


 なにせ、あれから十分経ったかどうかだ。こんな短時間で俺を呼びにくるということは……外で出来合いの品を買ってきたのだろう。それならば安心だ。

 俺は読書を打ち切り、彼女に従って隣の部屋に向かった。


 食卓の上にはパン。さすがにパンは、外のお店のものを買う。家に窯を置いて焼くというのは、結構な労力だからだ。なので、自炊するのは、その他のおかずだけ。

 で、肝心のおかずだが……


 俺は、目を疑った。

 台所の竈に、火が入っている! しかも、その上に鍋まで乗っている!?


「できましたよー、特製シチューでーす」


 おい、やめろ。

 見ただけでわかる。これ、おかしいだろ。

 材料を集めて、ただ煮ただけじゃないか。もちろん、グツグツに沸騰しまくっている。なんか、アクみたいな泡が浮いてるし。しかも、中に入ってるジャガイモ、芽をとってない。粗く中途半端に皮を剥いただけ。ふと、足元のゴミ箱を見ると、大量に身の部分が残った皮が無造作に詰め込まれていた。


「それから、特製ドレッシングとサラダー」


 うへぇっ。

 何が特製ドレッシングだ! これ、お前の胃液か? ただ酢をぶっかけただけじゃないか。

 もう、臭いだけで酸っぱくなってくる。


「更に更に、ステーキまでー」


 俺、もう、泣きそう。

 アイビィ、わかったよ。お前、初日から俺を殺そうとしてるんだろ。

 表面が黒こげだけど、これ、竈の中に直接肉を突っ込んだんだな。でも、逆に火力が強すぎて、表面しか火が通ってない。これだと中は生だぞ。見ればわかる。


「じゃあ、いっただきまー……あれ?」

「アイビィ、さん」


 俺は、ゆらりと立ち上がった。


「とりあえず、できるところから、サルベージしましょう」

「えっ? えっ? なに? サルベージって?」


 シチューは手遅れだが、他は、俺が手を入れれば、なんとか食べられる程度にはなるはず。

 結局俺は、彼女に説教を浴びせながら、夕食を作り直す羽目になった。


「旦那様ー、お風呂のご用意ができましたー」


 階下から声が聞こえてくる。

 心なしか、勢いがしぼんでいる。気がする。

 っていうか、旦那様か。いつの間に俺は、アイビィの旦那様になったんだ。


 一階に降りて、洗面台の前に立つ。そこに、ランタンを壁にかけたアイビィがいた。


「あ、準備できましたよー」

「……さすがに、お風呂の湯が沸騰しっぱなしってことは」

「ないですよー?」


 まあ、そうか。

 アイビィとて人間だ。皮膚に火傷を負うような水温であれば、気付かないはずがない。


「じゃあ、どっちが先に入ったほうがいいかな……って、ちょっと!」


 彼女は説明もなしに、シャツの前のボタンを外し始めていた。シュルリと音を立てて、紐ネクタイが床に落ちる。


「あ、じゃあ、先に入ってて」


 そう言いながら部屋から出ようとしたのだが、それを彼女の足が遮った。タイトスカートを下ろすと、彼女の白くて長い足が目に付く。それが折り曲げられ、彼女の顔が、俺の目の前にまで迫ってくる。


「ダメですよ」

「何がダメなんですか」

「ご主人様が先に入らないなんて、そんなお風呂は考えられません」

「じゃあ、上で待っててくださいよ」


 気付くと、彼女の両手が、俺の肩に添えられている。あ、しまった。


「そしたら、湯が冷めちゃいますよね」

「すぐ出ますから」

「ダメです」

「なんで」

「子供はちゃんと体を洗わないでお風呂から出てきちゃいますからね」

「洗います! 洗うから……って、何をするんですか!」


 彼女はしゃがみこんだまま、俺の上着を脱がしにかかってきた。


「ちょ、ちょっと! なに」

「背中を流しますよー」

「いや、わっ」


 三分後、俺は彼女に背中を向けて、しゃがみこんでいた。

 全部見られた。


 いや、ね? 俺も確かに、あちこち全裸で動き回ったりはしたよ? 鳥になった時とかさ。でも、別に露出趣味があったわけじゃなくて、あれは能力使用に伴う罰ゲームみたいなモノであって、見られることに快感を覚えるとか、ないわけで。

 そんな羞恥心など意に介さず、彼女は俺の後ろで、シャツの残りのボタンを外し、下着を脱ぎ捨てていた。


「さ、入りましょうか」


 どうしたもんだろう、これは。

 だが彼女は、気持ちを落ち着け、考えをまとめる時間をくれなかった。

 不意に背中に触れる、柔らかい感触。


「……っ!?」


 そのまま、浮遊感。胸で抱きすくめて、持ち上げやがった。六歳児とはいえ、二十キロくらいはあるんだぞ。それをこうも軽々と。鍛えてるんだろうけど。


「じゃ、湯船に入る前に、体を洗いましょうかー」

「……えっ?」


 それから十数分、俺は全身、体の隅から隅まで、彼女に触れられた。もうお嫁にいけない。本気でそう思った。

 だいたいからして、アイビィは全部、わかった上でやっている。俺が途方もなく早熟らしいことも察知しているはずだ。娼館への営業を命じている時点で、俺にその手の知識があるのを、理解しているに決まっている。それなのに、子供扱いという大義名分の下、こんな真似を……これは、セクハラだ。痴漢だ。訴えてやる。


 体を洗い終わってから、俺達は湯船に浸かった。狭いので、背中から密着されている。

 今となっては自分の前世が疎ましい。俺は若い女というものが、どういう快楽をもたらし得るか、知識としても、経験からも、理解してしまっている。そして目の前のアイビィはというと、前世の若い頃の俺なら、夢に見るくらいの美人といえた。

 要するに、俺は徹底的に子供でなければいけない。大人の彼女に対して、子供の体の俺が、大人みたいな反応をしてはいけない。だから、無心だ。無心になるのだ。今、背中にあるのはただのクッションだ。ビニールだ。じゃなければシリコンか、もしかすると、熱可塑性エラストマーだ。

 そう、昔は全部ソフビだった。でもそこで新素材のシリコンが開発され、一気に製品のリアリティが増した。だけど問題は残った。シリコンは時間が経つと、油みたいなのが浮き出てくるし、何より裂けやすい。修繕すると、傷跡が残ってしまう。そこで熱可塑性エラストマーだ。素材としては非常に優れているのだが、いかんせん、割高なのが悩ましい……って、俺は何について考えているんだ?

 くそっ、女子力が偏ってるだろ。料理があれだけ壊滅的で、スキルに裁縫もなくて。この世界の女に必須な二大技能のどちらもゼロなのに、房中術とか格闘術ばっかり鍛えていやがって。

 いや、落ち着け。教本にも書いてあった。気持ちを乱すと、魔術にかかりやすくなる。こうやってこいつは、俺に精神操作魔術を仕掛けようとしているのだ。そうに違いない。


 背中のアイビィは、実に楽しそうにしている。からかって遊んでいるのか、それともこういう演技なのか。俺にはわからない。

 そんな彼女が、俺に言った。


「で、フルコースいきましょうか」

「は?」

「決まってるじゃないですか、旦那様」


 何が?


「今夜は添い寝です! おねんねするまで、子守唄を歌ってあげますね!」


 このっ……!

 そういうのは、俺がせめてあと十五年、年を食ってからやれ!


「やーめーてー!」


 ジタバタ暴れようと手足に力をこめる。だが、無駄だった。後ろからガッチリ掴まれて、ピクリとも動けない。

 真後ろから、彼女の笑い声が途絶えることはなかった。

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