第七章 港湾都市の日常
飲めないスープ
薄暗い食堂。広さがあるだけに、やけにがらんとしている印象を受ける。
目の前には貧相なスープ。よれよれの脂身が入っているだけの代物だ。それにパンをつけて食べるのだが、このパンときたら、固いし古いし、味わいなんてあったものじゃない。
苛立ちが募るばかりだ。もういい。こんなもの、食わなくても。俺は席を立った。
屋外に出る。
夏の夜の空気は、生ぬるくて、湿っていた。
夜空だけは美しい。車の排気ガスのない世界ゆえだ。
気分は晴れない。本当に、たまったものじゃなかった。
あの後、お嬢様は丸一日、混乱状態だったらしい。もちろん、混乱に陥っていたのは、彼女だけではない。
丸二日間もの間、封鎖が続いたピュリス市だが、これ以上流通を止めるのは影響が大きすぎるとして、その解除を検討していたところだった。子爵家首脳部の煩悶は深く、子爵本人も、この失態や恥をどうするか、頭を抱えていた。
それがあの朝、突然に邸宅の中で発見されたのだ。出歩いてなどいなかった? しかし、それにしては、精神状態がおかしすぎる。ニワトリにでもなったかのように、手足をバタバタさせたり、どこかに行こうとしたり。娘が発狂したのでは、と子爵夫妻は絶望に突き落とされた。
だが、翌朝には、徐々に状態が改善してきたらしい。眠りながらうわ言を繰り返し、目覚めてからは、言葉も通じる状態になったそうだ。で、問題はここからだ。
睡眠中のお嬢様を見張っていた侍女が聞いていたのだ。寝言の中で、繰り返し「フェイ」の名前を呼んでいた、と。
さて、そこで俺の行動だ。
お嬢様が行方不明になった朝、俺は湾岸倉庫付近でハンカチを発見した。そして、ピュリス市の外に連れ出された可能性を進言した。
この推論は「間違っていた」ことになった。何せお嬢様は官邸の敷地内で発見されたのだ。もし、これが誘拐事件であったなら、犯人はどうやって封鎖中のピュリスを抜け出し、また戻ってきたのか。
まあ、そこはいい。ハンカチそのものは、確かにお嬢様の持ち物だったわけだし、俺はあくまで可能性を提示しただけだ。ただ、これで、俺の発見はさほどのお手柄とは言えなくなってしまった。
一方、失点なら積み重ねてしまったのだ。なぜかって? 俺はその後、丸二日にわたって、屋敷を留守にした。非常事態というのもあり、ほとんど気に留めていた人はいなかったのだが……ここでお嬢様の寝言が生きてくる。
特に、イフロースの疑念は強まるばかりだったようだ。屋敷の中だって、隅々まで捜索した。なのにどうして、今更自室で発見されるのか。それにまた、お嬢様発見時にうろついていた怪鳥はなんだったのか。そもそも、ハンカチを見つけて持ってきたのも、フェイだった。
必然、俺は呼び出されて尋問されることになる。もちろん、ごまかした。ご命令通り、街の中を探し回っていました、食事は先の遠征旅行で預かったお金を遣って、外で済ませていました、湾岸倉庫で寝ていました、といった具合に。だが、あまりに不自然と受け止められたようだ。わざわざ金まで遣って、どうして外食したのか? 屋敷で食べればいいじゃないか。
しかも、俺の状態は一見して異常だった。左腕にはまだ腫れが残っている。俺は街中で転んだことにしたが、イフロースあたりは、それが打撃武器によるものだと見抜いたのではないだろうか。
そういうわけで、行動の不自然さを追及されるうちに、俺は言ってしまったのだ。食堂のメシがクソまずいから、この際だからと外で食っていたんだ、屋敷の使用人部屋では、他のガキがうるさいから、一人になれる湾岸倉庫で寝ていたんだ、と。まあ、これは半ば事実ではある。
強硬に言い張る俺に対して、イフロースはそれ以上、問い詰めようとはしなかった。だが、この話が外に漏れた。
「フェイのやつは、奴隷のくせに、使用人向けの食事が口に合わないとか、ほざいたらしいぞ」
食堂の料理人どもを、はっきり敵に回してしまったのだ。おかげで、出される食事は以前にも増して、まずいものになった。
それならいっそ、本当に外食すれば? そうしたいのだが、金がない。コラプト行きの前に渡された金貨十枚は、現地で二十枚になった。その金のほとんどを薬剤の原料購入に充てたが、多少の銀貨、銅貨が残った。それはお嬢様の救出に向かう際、軍資金として持っていってしまった。鳥になって飛んで戻ったのだから、当然持ち帰れるはずもない。
ちなみに購入してきた薬剤は、これ以上放置したくなかったので、今日、頑張って加工した。すぐに作ってすぐに売るしかない品物だからだ。女性向けの日焼け止め兼虫除けという商品は、真夏の時期を逃すと、在庫になってしまう。
今回はカーンに監視されながらの調合になった。上級者でなければ扱えないような薬品を、当たり前のように生み出していく俺の姿は、やはり異様に映ったらしい。出来上がったものを見て、品質に問題はないと判断された。あとは売り捌くだけだが、ここでカーンは、すべて引き取ると言い出した。では、買取金額は? と尋ねる俺に、追って連絡するとだけしか言ってくれなかった。
つまり、今の俺は、完全に文無しなのだ。くそったれ。
まだある。お嬢様が、俺のことを覚えてしまったようなのだ。
近くにいられれば、一言、言ってやるつもりなのに。
「空を飛んだって? お嬢様が夢をみていただけでしょう? 僕はそんなの知りませんよ?」
ところが、あの一件で、彼女は俺に親しみを感じてしまったらしい。ただの金目当てだとかなんとかいろいろと、あれだけ冷たい言葉をぶつけてやったのに、どうしてだ? 内心はわからないが、とにかく誘拐事件に関する一連の記憶を、彼女自身は現実だと認識しているらしい。
もっとも、俺との約束は守ったらしく、それらについての質問は、イフロースからはされていない。彼がそれを知っていて、何も言わないなんて、あり得ないだろうから。だってそうだ。誘拐犯をそのままにしておくのか? だから彼は、まだ誘拐の事実自体を確認できていない。
それよりお嬢様だ。彼女が正気に戻った後の最初の朝礼。居並ぶ召使達を前に、普段はただ、ぼーっと突っ立っているだけの彼女が、その時にはやらかしてくれた。前のほうに立たされている俺を見て、軽く手を振ったのだ。
バカ、何をしてくれるんだ……! 必死で目を逸らして、気付かないフリをする。ところが、俺が反応しないので、彼女はもっと大きな仕草で注意を引こうとする。その結果、召使達の多くが、その異常な行動を目にしてしまう。すぐにイフロースが出てきて、やんわりとやめさせてくれたが、あれは心臓に悪かった。
朝礼が終わった後、俺はナギアに嫌味を言われた。
「あなた、どうやってお嬢様に取り入ったのよ?」
そういうわけで、このところ、ストレスが限界に達しつつあった。その上、やっと仕事を終えて食べる飯がこんなにもまずいとなれば……我慢できるものではない。本当に、夜空が美しいのだけが救いだ。
そういえば、ミルークの収容所で、一応、星座についても教えてもらったっけ。地球の夜空とは違うので、ここには北斗七星も南十字星もないのだが。今夜はほぼ新月なのもあって、安心して星を眺めることができる。
「おーおー、育ち盛りのガキが、食いもん残してるぜ?」
後ろから、野卑な声が飛んできた。ちっ。
「せっかく肉まで入れてやったのに、なんで残すんだぁ、おい」
若い男が二人。厨房に何年いるのか知らないが、料理スキルのレベルが低すぎる。一人は1で、もう一人は2だ。そんな奴らが、手を抜いて飯を作っているのだ。さっきのスープだって、飲めばわかるが、一度完全に沸騰させてしまっている。アク抜きも不十分だった。あんなの、現代日本では、そこらの主婦だってやらないような雑な仕事だ。
「手抜きばっかりするからですよ」
ついカッとなって、言い返してしまう。
「なんだとぉ?」
こちらをただの子供と思って、詰め寄ってくる。だが、俺はこの世界で何度も死線を潜り抜けてきている。アネロス・ククバンに殺されかけたり、キース・マイアスから逃げてきたり。ああいう化け物に比べれば、こいつらはただのチンピラでしかない。
ただ、今の俺には、直接戦闘に使えるようなスキルがないんだった。せいぜい、行動阻害の呪文で苦痛を与えるくらいか。
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(自分自身) (7)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク7、男性、6歳・アクティブ)
・マテリアル ラプター・フォーム
(ランク7、オス、14歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル 商取引 5レベル
・スキル 薬調合 5レベル
・スキル 身体操作魔術 5レベル
空き(1)
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あと一つ、何を奪おうか。武器なしでも、どこでも戦えるよう、格闘術でも習得しようか。
この世界は、やっぱり前世と比べると、格段に暴力的だ。いつか不老不死を探し求めに旅に出るのであれば、武術なしではやっていけない。
「お前、どこが手抜きだって言うんだよ?」
「バカみたいに沸騰させてるところ。塩加減がキツすぎ。アク抜きも不十分。ついでに言えば、栄養のバランスも悪い。肉が一切れ入ってるだけで、ろくに野菜がない」
「はぁぁ?」
事実をズケズケと口に出されて、二人は目を剥いた。だが、俺も止まれなかった。
「真面目に料理を作れないなら、やめればいい」
「あんだとぉ、このクソガキが!」
この世界の料理人の地位は低い。男なのに、女の仕事をしている、という認識。それなのにどうしてやめないかと言えば、ここが総督官邸だからだ。他所で生きるより、ここで働いたほうが、確実に安定する。
使用人の中でも、掃き溜めのような連中がなんとかしがみつくのが、この厨房という現場なのだ。さすがに料理長クラスになれば、そうでもないが。
男は俺をつまみあげると、腹に蹴りを入れて吹っ飛ばす。足元の石畳に転がった。
「いい気になってんじゃねぇよ、このフェイが!」
この場合の「フェイ」とは、俺の名前を指しているわけではない。名前は知っているが、その意味で言ったのではないのだ。フェイとはつまり、遠くの東方大陸に住む、ハンファン人に対する蔑称だ。
「……どうした! 何を騒いでいる」
低い声。気短そうな雰囲気が滲んでいる。
食堂のほうから、一人の男が姿を現した。
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カイ・セーン (40)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク5、男性、40歳)
・スキル フォレス語 5レベル
・スキル サハリア語 1レベル
・スキル ルイン語 1レベル
・スキル 料理 6レベル
・スキル 薬調合 2レベル
空き(35)
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「あっ、料理長!」
色黒の、初老の男。まだ四十歳だが、髪の毛は白くなり始めている。顔の皺も多い。それでいて、体つきは横にがっしりしていて、力は強そうだ。白いコックの帽子に、白い服、前掛け。口髭がきれいな長方形を描いている。
「このガキが、メシを残しやがるもんで、つい」
「そうなんですよ! 料理長もいつもおっしゃってるじゃないですか! 食べ物は粗末にするなって」
言われて、彼はじっとこちらを見た。
やっと立ち上がった俺に、彼はいきなり平手打ちを浴びせた。
「フェイとやら! まだ子供のうちに、好き嫌いをするとは、感心せんぞ!」
この野郎。
教育的指導のつもりなのかもしれないが、もうちょっと考えろ。お前の部下どもが吹っかけてきた喧嘩なんだぞ。
「……後進の指導がなってないんじゃないですか」
どうも今夜は、怒りが収まりそうにない。我慢する、という選択をできないようだ。
「なんじゃと?」
「手抜きばかりで、ろくでもないものを作っておいて、食べないからといって、こちらのせいにする。あなたもですよ、料理長。こんな連中を野放しにするばかりか、言われたことをそのまま鵜呑みにするなんて」
……もともと短気な男だとは知っていた。だが、どうやら瞬間湯沸かし器だったらしい。
「食堂に戻って、僕に出されたスープを見ればわか」
「このっ、貴様! 仮にも子爵家の厨房を預かるわしを愚弄するかっ!」
まずいな。殴りかかってくるかもしれない。
だが、俺が逃げようと身構えたところで、斜め後ろから声が飛んできた。
「何事です」
この一言に、料理長も、二人の下働きも、はっとして動きを止めた。
俺も後ろを振り返る。
「屋敷内での狼藉は、許しませんよ?」
言葉とは裏腹に、のんびりした雰囲気を漂わせる女性。子爵夫人のエレイアラだ。
「これは奥方! 狼藉などではありません! 躾です!」
「躾といえば、なんでも許されるんですか」
「このっ!」
口論が再発しそうなところで、彼女はふわっと割って入る。
「まぁまぁ……何があったのです?」
「こやつが、ご主人様からのいただきものを、食べ物を粗末にしたというのです!」
俺の抗弁も聞かずにキレまくっている料理長が、そう言い切る。
「まぁ、そうなのですか、フェイ?」
「いいえ」
俺はなるべく、落ち着いた声で応じる。
「奥方様はご存じないかもしれませんが、ここの使用人向けの食堂で出されるものは、それはひどい手抜き料理ばかりなのです。召使の食べるものとはいえ、子爵家の厨房から、こんな代物が出てくるとは、考えられません。正直、庶民の通う街中の居酒屋の方が、余程まともなものが食べられます。つまり、食べ物を粗末にしているのは、むしろ彼らのほうなのですよ」
「まぁ」
俺の説明に、奥方は金色の髪を揺らしながら、驚いてみせる。
「そうなのですか、カイ?」
「そんなはずがありません! こやつが贅沢なだけです!」
「なら、僕が食べているものを、一度、奥方様にお出ししてはどうですか」
「ふざけるでない! 奴隷風情の食べ物を、どうしてご主人様に召し上がっていただけようか!」
「部下の手抜きを放置して、いい加減な仕事をしているのがわかると、困るだけでしょう?」
口論はヒートアップするばかり。
しかし、この奥方も、実は結構な肚をしている。激しい言い争いの真ん中に立っていながら、まったく慌てていない。じっと言い分を聞き比べているようだ。
「そんなに言うなら、貴様が見せてみよ! 手抜きでない料理とは、どんなものか!」
おや?
怒りながらも、一応、料理人としての矜持はあるようだ。
言い分があるなら、実力で示せ、と。なるほど、それなら、俺も納得だ。
「具体的には、どうすればいいんですか?」
自然と声色も静かになる。妙な落ち着きが胸の中に満ちてくる。
「今から、何か作って出せばいいですか?」
「おう、早速やってみい」
「まあ、お待ちになって」
そこへ、奥方が割って入る。
「面白そうですね。カイ? 少しいいかしら?」
「は、はい! なんでしょう、奥方様!」
エレイアラは、含むところのある笑みを浮かべる。ああ、何かに似ていると思ったら、あれだ、リリアーナもこういう笑い方をするよな。実は結構、腹黒いのかもしれない。かわいらしく言えば、悪戯っぽい笑顔、と表現できるか。
「せっかくですから、私も一口、いただいても構いませんこと?」
「なっ、そ、それは、さすがに」
「よろしいではありませんか。では、こうしましょう」
料理長の抗議を無視して、彼女は淡々と続ける。
「来週のお昼には、来客の予定もありません。そこでカイ、あなたと、フェイ、あなたが、それぞれ一品ずつ作ってみてはどうでしょう? どんな料理が出てくるか、今から楽しみね」
提案という形をとりながら、もう彼女の中では、やることが決まっているようだ。今から楽しみ、と言われては、やりませんとは言えない。
「カイ、どんな品がいいでしょうね?」
うわぁ。選ばせるのか。もうこれ、奥方の意見に賛成するのが前提だよな。
「う……で、では、そうですな、さっき、フェイとはスープのことで揉めておりました。ゆえに、スープをそれぞれ作って出す、というのはいかがでしょう」
「僕もそれで構いません」
ふふっ、と微笑みながら、彼女は言い切った。
「では、この件は、来週のお昼に。二人とも、楽しみにしていますよ」
俺と料理長、二人の助手は、ただ頭を下げる他なかった。
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