暗緑色の殺意
暑い。ものすごく暑い。
視界が陽炎に揺れるほどの酷暑だ。そんな中、俺は足音も立てずに、ただ黙々と先を急ぐ。目当ての轍の跡は、まだ北へと続いている。
自分の性格を呪いたくなる。すっとぼけてサボる、といった芸当ができないのだ。
要領が悪いとも言う。思えば学生時代にも、授業は真面目に受けていた。他の連中みたいに、授業中に他の学科の勉強をしたり、といったことは一切しなかった。どうしても授業そのものが気になって、他の作業に没頭できない。今、目の前にやることがあるのに、どうして余計なことをしていられるのか? 当時はそう思ったものだ。
同じように、ただボーっと授業を聞き流すのも無理だった。聞こえる以上、聞くか、メモを取るかしてしまう。目の前にやれることがあるのなら、やるべき。それこそ、眠気がひどいときに居眠りすることはあったが、そうでもなければ、何もしないでいるなんて、できなかった。
で、今回だ。
俺は、お嬢様が誘拐されたことを知っている。誘拐犯の上陸地点も、匂いも覚えている。だが、自分の正体を知らせるわけにはいかないから、それはイフロース達には教えられない。
なら、黙ってサボっていればいいのだ。だが、何もしないでいると、お嬢様はどうなるか。殺されるかもしれないし、売り飛ばされることも考えられる。
俺には関係ないじゃないか。そんなことは、わかっている。わかっているが、俺なら救出できる。
俺は、自分で自分に悪態をついた。なんのことはない。手紙の配達と同じだ。あの時も、船長に忘れ物を届けようとして、無茶をした。確かに、俺だからこそ、間に合わせることはできた。だが、それで得たものは?
いや、さすがに今回はわけが違う。街ごと封鎖して、お嬢様を捜索するほどの事件なのだ。これでもし、無事に彼女を連れ帰れば、きっと俺の株も急上昇。即座の奴隷身分からの解放に、優秀な教師や良質な教科書、もしかすると騎士身分の仲間入り、なんてのもあり得る。
そう、コヴォルではないが、俺も騎士にはなりたいのだ。憧れがあるわけではなく、もっと実用的な理由からだが。普通に人間の体のまま、あちこち自由に移動できるようになりたい。騎士ならば、入市税も取られずに、どこにでも出入りできる。
ただ、それを狙うなら、お嬢様の前で、それとわかる形で能力を行使するわけにはいかない。いけるだろうか? ダメならダメで、自分ひとりだけ、逃げ帰ってくればいい。
なんて考えているあたり、やっぱりお人好しが治ってない。これは病気だ。前世を思い出せ。リンガ村を思い出せ。だいたい、理由をつけなければ、他人から能力を横取りできないところも、俺の軟弱なところだ。こんな寄り道なんて、している場合か。そう自分を責めずにはいられない。
海岸にあった馬の匂いを辿っていくと、ほどなく別の匂いが混じった。東門付近から、ぐるりと回りこんで、北門の近くで、馬車に繋いだのだ。納得できる。夜間に移動できる距離など、たかが知れている。盗賊や魔物を恐れるのは、誘拐犯だって同じなのだ。何より、布で包んだか、ロープで縛ったかの状態の女の子を、むき出しのまま運ぶわけにはいかない。人攫いだと宣伝しながら移動する馬鹿はいないだろう。
だから、彼らは安全なところで、馬を休ませ、恐らく夜明け近くになってから、再び移動を開始した。果たして、街道の脇の空き地に、長時間滞在した形跡が残っていたのだ。
ということは、まさにカーン率いる隊商が、北門をくぐろうとしていたその近くで、誘拐犯は更に北へと逃走を開始していたことになる。ちなみに、俺達は北東方向からやってきたので、犯人とはすれ違っていない。
最初は、匂いが消えるのを警戒しながら、慌てて移動を続けた。なんといっても、ピュリスの北門からは、しばらく整備された石畳の道が続く。そこからやや西に逸れるルートが本線で、ピュリスと王都を結ぶ幹線道路になっている。だが、誘拐犯はその道を選ばなかった。
あるところで、石畳の通路を抜けて、脇道に馬車を向けたらしい。だがそこは、轍の跡の残りやすい砂利道だ。ほぼ真北に向かうこの道路は、エスタ=フォレスティア王国のほぼ中央部を通る路線だが、人口密度は低い。この地域の大部分は、未開拓の森林に覆われているのだ。小規模の都市や村落が点在する他は……恐らく、北東方向に向かえばティンティナブリアに、更に北に向かえば、かなり遠いが、フォンケーノ侯爵領に辿り着ける。
正確性を重視して、急ぎつつもゆっくりと匂いを追っていたさっきまでと違って、今なら、ただ車輪の跡を追いかければいい。だから、走ってもいいのだが……
犬の弱点とは、まさにこの暑さにある。人間と違って汗腺もない。体温が上がっても、舌を出して空気の出し入れをするしかないのだ。この上、全力で走って体温を上げるなど、自殺行為に等しい。
しかも、これだけの体格の犬なのに、案外、力がない。具体的には、荷物を運搬する能力が低い。小さなリュックに食料や水を詰め込み、着替えも入れた。ついでに、コラプトでの取引であまった銀貨や銅貨を数枚、放り込んでおいた。これだけでもう、限界だ。重い荷物を運ぼうとすると、短距離ならまだいいが、そうでもないとすぐに腰にくる。
暑い。ひたすら暑い。
明るさからすると、今、四時過ぎくらいか。今日は風がない。おかげで匂いも消えずに残ってくれているのだが。
昼前に意を決して飛び出してから、五時間ほど、短い休憩を挟みながらだが、移動を続けた。そろそろ本気でくたびれてきた。
ダメだ。もう限界だ。
そう思った時、遠くに水音が聞こえた。さわさわと流れる、川の水。それとわかるや、俺は我慢ができずに駆け出した。
道を逸れて、森の木々が張り出すそのすぐ下に、黒々とした清流があった。身を浸すと、一気に体が冷えていく。そのまま、鼻も突っ込んで、水をがぶ飲みする。生き返る。そこでハッと我に返る。背中にくくりつけた小さいリュックごと、飛び込んでしまった。
仕方がない。上陸して、周囲を見回す。誰もいない。いるわけがない。近くに人里もない地域だ。俺はそこで人間の姿に戻る。頭が急にスッキリしてくる。やはり、長時間動物のままでいると、どう頑張っても少しずつ知力が低下していくようだ。
濡れたリュックや、中の荷物を干そうと、背を伸ばして近くの木の枝にかけようとした時、俺の視界の隅に、人工物が映った。
遠く離れた小山の頂上。周囲の風景に溶け込んでいるが、見間違いではあるまい。あれは、古い城砦の遺跡だ。
いつの時代のものだろうか。ギシアン・チーレムの西方遠征に伴って建造された拠点かもしれない。或いはその後の、諸国戦争以後の基地か。はたまた、ただの山賊達の塞か。
だが、重要なのは、そこではない。俺が誘拐犯なら、どうするだろう? 昼夜を分かたず移動を続けるなど、不可能だ。かといって、のんびりと休みながら主要な幹線道路をウロウロしていては、すぐに手が回ってしまう。ならばこうして脇道に飛び込むしかないが、こんな森の中での野宿は、あまり好ましくない。
仮にも子爵令嬢の誘拐計画なのだ。恐らく、以前からの彼女の脱走癖を調べ上げた上での行動なのだろうから、犯人はきっちり準備を重ねておいたはずだ。最終目的地がどこかはわからないが、少なくとも途中で、犯人達が身を潜める場所が必要になる。
あの山塞は、なるほど、ピュリスからは近すぎるような気もする。一日で足りる距離なのだ。だが、追跡する側からすれば、誘拐犯がどちらに逃げたかもわからない。東か、西か、北か。いくつもある脇道の一つにある、地図にもないような古い遺跡。そうそう発見できるものではあるまい。
もし、轍の跡が、馬達の匂いが、あの砦に向かっているのであれば……
俺は、傾き始めた太陽を、木の葉越しに見据えながら、遠からず直面する脅威を思って、気持ちを引き締めた。
日が沈み始めても、熱を帯びた空気は、じとっと地面にへばりついたままだった。街中に比べれば、それでも随分涼しいのだろうが、決して快適とはいえない。それでも、俺は犬の姿で充分休憩を取り、それからまた、駆け出した。
思った通り、馬車はしばらくまっすぐ進み、あるところで方向転換した。そこは道というより、獣道だった。およそ馬車で乗り入れるような道ではない。随分乱暴な移動方法を選んだものだ。俺なら、馬車を乗り捨てて……いや、でも、それはダメか。こんな道の真ん中に、馬のない馬車が転がっていたら、不自然極まりない。とすると。
果たして、ますます道幅の狭くなった先で、藪の中に馬車が放り込まれていた。わざわざここまで来て、捨てられた馬車を確認する物好きなど、普通はいないのだ。この先は馬だけで移動する。どうしてここまで念を入れるのか? なんといっても、この馬車は、もしかしたら目撃されているかもしれない。万が一にも失敗できないのだ。だから、改めて隠れ家から抜け出す際には、また誰かが別の馬車に乗って迎えに来るのだろう。それまでは、潜伏して追っ手をやり過ごす。
夕暮れ時の森の中。平地より一層薄暗いが、幸い、犬の視覚は、色彩には弱くても、暗さには強い。それにそもそも、光より、音や匂いに頼っている。馬の臭いはずっと残っている。この様子からすると、どうやら、やはりさっきの山の上に向かっているようだ。
曲がりくねった獣道を踏み越え、頭を上げると、木々の黒いシルエットを左右にして、一直線に続く登り道に辿り着いた。登った先は見えない。そろそろ藍色に染まりつつある空があるだけだ。とはいえ、まだ相当な距離は残っているものの、この先にあるものとなれば、もうあの建物しかない。
犬の体で来てよかった。人間ならばもっと警戒されるだろうが、犬なら。野犬のフリでもして、適当に逃げ回ればいい。発見されても、まさかお嬢様を探しにきたとは思わないだろうからな。まぁ、ご馳走代わりに狩られないよう、注意すべきではあるが。
ついに目的地に。その興奮と安心が、一瞬の隙になった。耳は音を捉えていたのに。
不意に大きくなるノイズ。気付いた時にはもう、遅かった。
背中に走る鋭い痛み。途端に後ろ足に力が入らなくなり、へばってしまう。なんだ?
俺は慌てて周囲を見回す。だが、周囲は同じような、濃い緑色と黒に染まっていて、区別がつかない。ただでさえ、視力が低いのだ。
違う、目じゃない、耳と……鼻だ。意識を集中すると、僅かな呼吸音が聞こえた気がした。そこに目を向けた瞬間、再び空気が振動した。
あれは。
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ヤシル (26)
・マテリアル ラプター・フォーム
(ランク7、メス、13歳)
・スキル 爪牙戦闘 5レベル
・スキル 隠密 5レベル
・スキル 毒判定 3レベル
・スキル 対話コマンド 4レベル
空き(22)
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おわっ!?
なんだ、こいつは!
動物のくせに、名前がついている。いや、動物なのか? もしかしたら、魔獣に分類される生物かもしれない。ラプターっていうと、確か猛禽のことだったっけ。
しかも、やたらとスキルが多い。それになんだ、この「対話コマンド」って。もしかしてというか、やはりというか、こいつは、人間の管理下にあるに違いない。
俺は、どうすべきか。
ほとんどどうしようもない。最初の一撃が存外に効いている。ちょっとかすっただけのような攻撃だったのに、かなり的確に狙ってきていたようだ。なんとかもがきながらだが、立ち上がることはできた。だが、それだけだ。どうせ相手は速度に勝る鳥。対するにこちらは障害物に囲まれた犬。走って逃げ切れるものでもあるまい。
もはや姿を隠しきれないと判断したのか、それとも必要がないだけか。ヤシルはもう、茂みに紛れようとはしなくなった。まっすぐにこちらを見据え、その巨体を広げる。両翼を伸ばしきれば、その幅は三メートルほど。その羽はほとんど黒だが、一部が鮮やかな緑色だ。
美しくも恐ろしい。なるほど、ラプターか。確かに、ただの鳥ではない。鳥の形をした怪物だ。
どうする?
だが、考える時間を与えもせず、ヤシルは舞い上がった。俺を無視して、どこかに移動してくれるのか? ……いや。
侵入者の存在を伝えにいく……それも考えられないでもない。だが、この魔獣に、俺の正体がわかるはずもない。ならば、ただの犬を襲う理由があるか? 恐らくこいつには、侵入者の抹殺が命じられている。それができないほどの大軍がやってきた場合にのみ、報告に向かうはずだ。
ということは。考えたくない可能性。こいつが上空に舞い上がったのは。
俺は、重い体を引きずって、太い木の陰に隠れようと急ぐ。だが、間に合わなかった。
急降下からの一撃。頭部への直撃は避けられたが、左脇腹から背中側まで、ゴッソリと引き千切られた。強烈な一撃に、背負っていたリュックが弾け飛ぶ。
ああ、そうか。そりゃそうだ……犬なんかになってたから、こんな単純な理由にも気付けなかった。どこの世界に、荷物を運ぶ野良犬がいるんだ。ヤシルは、俺の背中にぶら下がる人工物を見て、背後にいるであろう人間の存在を知ったのだ。
さっきの攻撃で、俺は横倒しになっていた。とても立ち上がれそうにない。特に、左の前足は、まったく動かせない。痛みが激しすぎて、全身が痺れてしまった。黒い血がどんどん流れ出てくる。これは、ダメだ、もう……
瀕死の犬を見下ろしながら、それでもヤシルは上空で、戦闘態勢を崩さなかった。よく訓練されている。近くに人間がいるはずだと考えて、油断なく周囲に視線を這わせているのだ。
これでは、この犬の体を捨てた瞬間、今度は俺自身が犠牲になる。手元に棍棒でもあれば、攻撃を受けきるくらいはできるかもしれない。更に身体強化魔法を使えば、苦戦はするだろうが、逃げずに向かってきてくれれば、倒し切るのも可能だろう。だが、無理だ。薬は持ってきたが、今はまだ、リュックの中だ。のんびり中身を漁るような時間はくれないだろう。それにそもそも、棒がない。犬が運ぶには嵩張りすぎるので、断念したのだ。
どうやら、追い込まれてしまったようだ。そうこうするうちにも、出血が続く。激痛にもかかわらず、意識が遠のき、視界が黒ずんできた。
もう、手段は選べない。
一瞬の集中の後、俺は全裸で森の土の上に投げ出された。耳をかすめる風切り音。見据えろ!
黒い翼が目前に迫った瞬間、それは掻き消えた。
「あ……危なかった……」
俺は思わず、その場にへたり込んだ。途端に、この一週間ずっと帰りの馬車に揺られ続けた腰が、悲鳴をあげた。
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(自分自身) (7)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク7、男性、6歳・アクティブ)
・マテリアル ラプター・フォーム
(ランク7、メス、13歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル 商取引 5レベル
・スキル 薬調合 5レベル
・スキル 身体操作魔術 5レベル
・スキル 棒術 4レベル
空き(0)
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