事件発生

 朝日に照らされる白亜の城壁。ピュリスの北門だ。この都市を囲む石の壁には三つの門がある。その中でも、もっとも大きく、また通行量が多いのは、ここだ。ただ壁に門があるというのではない。防衛上、弱点になりがちな部分なので、わざわざ丸く張り出した形状になっており、外から見るとちょっとした砦のようになっている。しかもその左右には、門の屋上より背の高い塔が立っている。

 かつて王国の首都だったこの地を陥落させるのに、エスタ=フォレスティア軍は、散々苦労させられた。周囲の従属都市は制圧し、残るはピュリスのみ。だが、あとちょっとのところなのに、海戦では勝利を得られず、陸上からの攻撃にもしぶとく耐える。当時のピュリスはもう少し規模が小さく、街の東側がなかった。西側の宮殿を頂点とした市街地は、きれいに円周を描いて丘の上から並ぶ形になっていた。これらの家々は堅固な石造りのものであり、そのため、せっかく一部の城壁を破壊して突破しても、この家々が、その都度防衛線として再構築されて、攻撃を跳ね返してきたのだ。

 当初、エスタ=フォレスティア側は、兵糧攻めを狙った。だが、市内には充分な備蓄があり、水についても、実は宮殿の地下に深い井戸があったため、すぐに不足するという状況にはなかった。この上、なおぐずぐずしていれば、そのうちに周辺各国から援軍がやってくる。それに敵国も、お留守になった背中を狙うだろう。

 だが、ピュリスの鉄壁の防衛線をもってしても、防ぎきれないものがあった。それは……内側にこもる、澱んだ悪意だった。


 ピュリスに近い村落で一泊し、夜明け前から慌しく出発して、今。普通に働く人ならば、やっと朝食を終えた頃だろう。

 こんなに急がなくても、とは思うのだが、昼が近くなると、北門の交通量が増える。そうなると、かなり待たされるのだ。だからカーンは早めの行動を選んだのだが、理由は他にもあると思ってしまう。それくらい、朝日に輝く城壁は美しい。


 異変に気付いたのは、大きな門の真下に馬車を止めた時だった。


「……どうした? 何があった?」


 離れたところからカーンの苛立った声が聞こえる。

 いつもなら、ほぼフリーパスで済む手続きなのに、警備兵は、いつになく深刻そうな顔をしている。


「外から入るのに、何か問題でもあるのか!」

「済みません」


 一喝されて、門兵はペコペコ頭を下げる。数人が散らばって走って、門を開く。振り返ったカーンが、厳しい表情で叫ぶ。


「急げ」


 ただならぬ気配に、馬車は砂塵を巻き上げ、猛スピードで市内に突っ込んでいく。その後ろで、また重い鉄格子が下ろされる。


 屋敷に引き返した使用人達に、カーンは短く指示を飛ばした。最低限、今すぐ運搬や保管が必要な品物だけ、片付けるように。それが済んだら、中庭で待機。

 何か、余程の事件が起きたとしか思えない。とりあえず俺も、自分の購入してきた薬剤を、冷暗室に運んでもらう。

 さしあたっての後始末が済んだ状態で、俺達は馬車の横で所在無く佇んでいた。そこへ、カーンと連れ立ってイフロースがやってくる。みんな、頭を下げようと居住まいを正すが、イフロースは手を振ってやめさせる。


「時間が惜しい。そのまま聞くように。お嬢様がまた行方不明になった」


 またか。あのお転婆が。見た目は真面目で、おとなしくて、淑やかそうなのに。中身は絶対違うぞ、あれは。

 屋敷を抜け出して、遊びにでもいったのか。それも、こんな朝早くから。

 周りの大人達も、うんざりといわんばかりの表情を浮かべる。


「不在が確認されたのは、昨夜遅くだ」


 この一言に、みんなが向き直った。


「夕食にはいらっしゃった。夜、お休みになられるところも、乳母が確認している。だが侍女が深夜の見回りを行った際に、お嬢様の部屋の前の様子がおかしいことに気付いた」


 その異変は、ほんの僅かだったらしい。

 毎晩、お嬢様が就寝すると、もう部屋を出入りする者はいない。周囲で面倒を見る侍女は、一応、控えの間で仮眠をとっているが、基本的に朝まで外には出ない。護衛もいないわけではないが、実際に武器を持って寝ずの番をしている男達は、ずっと遠くだ。

 そんな中、実は、真夜中のうちにカーペットの交換作業が行われる。日中、出入りがあるうちにやるわけにはいかないので、深夜に、きれいなものに差し替えるのだ。ところが、ついさっき、きれいにされたばかりのところに、ちょっとだけ毛羽立ったところが見受けられた。誰かが踏んだのでなければ、こうはならない。

 違和感を感じたその侍女は、そっとドアノブに手をかけた。驚いたことに、鍵はかかっていなかった。


「これまでにも、お嬢様が勝手に外出なさることはあった。だが、真夜中に出かけられた例は、一度としてない。現在、最悪の状況を想定して、市の門はすべて閉鎖中だ……他の業務は一切進めなくていい。速やかにお嬢様を発見せよ」


 イフロースの説明の後にカーンが進み出る。いつもの班ごとに、探索する区域を割り振っていく。

 で、俺はどうなるのか。全員に指示を割り振った後の彼と、目が合った。


「そういえば……」


 俺を見ながら、カーンは何かを思い出したようだった。


「フェイ。お前には、特に指示は出さない。手段は問わないから、とにかくお嬢様を見つけるか、手がかりを掴んでこい。いいな」

「はい」


 前回、俺は彼女を発見した。結果は惨めなもので、散々ぶたれる羽目になった。だから、今回もできれば発見したくはない。

 だが、出かけないわけにもいかない。俺は帽子をかぶり、白い長袖のシャツを着て、官邸の門を出た。


 ぶらぶらと街を歩く。だが、散歩という雰囲気ではなかった。

 やけに人通りが少ない。代わりに、甲冑を身につけた兵士達が歩き回っている。なんてことだ。令嬢の行方不明を隠していないのだ。今、官邸には子爵も夫人もいる。彼らとしては、なるべく不祥事を表沙汰にしたくないはずなのだが、もう体裁を取り繕う余裕もないらしい。

 俺は、以前にお嬢様を見つけた、街の東側に向かったのだが、そこでは風俗店や連れ込み宿に、多くの兵士が突入していた。前回の教訓からだろうか。もし、彼女を攫ってこんなところに押し込めていたら、犯人は即刻死刑に違いない。

 ここまでしらみつぶしに探しているのなら、いずれ見つかるだろう。ピュリスは大きな街だが、夜間は門を閉ざしているし、堅固な城壁に囲まれている。その城壁の上を、兵士達が昼夜を分かたず見張っているのだ。これをすり抜けようというのなら、俺みたいに鳥になるしかない。


 なんとなしに歩いていたら、いつもの湾岸倉庫の辺りに着いてしまった。気持ちとしては、このまま倉庫の地下室にでも行って、本でも読んでいたいのだが……サボっていたことが知れたら、どんな目に遭うかわかったものじゃない。

 ミルークの収容所にいた頃の方が、まだよかった。なんといっても、いつでも読書ができた。エスタ=フォレスティア王国によるピュリス攻略戦。面白い物語にまとめられていたっけ。


 どう足掻いても防衛線を突破できないエスタ=フォレスティア軍。撤退を考え始めた頃に、思いもよらない幸運が舞い込んだ。指揮を執っていた高齢のピュリス王が、病に倒れたのだ。もっともそれは内部に秘匿され、その時点では外部から気付く余地はなかった。

 残されたのは、気性の激しい姫君と、幼く愚鈍な王子。姫は才女と名高かったが、彼女を煙たがる家臣は多かった。それで、戦時下という状況もあり、急速に彼女の立場は悪化していく。本来なら、彼女を中心に、一致団結して国防に努めるべき状況で、お家騒動が始まってしまったのだ。

 そこで彼女は、数少ない直臣の手を借りて、あろうことか、城内からの脱出を試みた。そこまでしなければ、命さえ危ない状況に陥ってしまったのだ。といって、城壁は越えられない。城門は通れない。だが、海ならば。

 船を漕ぎ出すわけにはいかない。そんなことをすれば、哨戒中の軍船に発見され、拿捕される。だから彼女は、大きな革袋を使った。中には空気が詰まっており、そのままでは水に浮きすぎてしまう。だが、適度な錘があれば、水面ぎりぎりのところにいられる。そして、ピュリスの海岸には、海流がある。海岸近くの潮の流れは、実は循環している。沖合いから海岸に向かうもの、逆に、前世の海水浴場でしばしば事故を引き起こした離岸流、そして、この二つを繋ぐ動き……海岸に沿った並岸流だ。

 姫君は、並岸流に身を委ねたのだ。そして、市外の海岸に辿りついた。彼女は敵国の王に、自分を王妃にして欲しいと要求した。もちろん、そのために手土産を用意した。自分が合図をすれば、西の城門を開く手筈となっているというのだ。今はまだ、自分の身代わりが、城内の一室に軟禁されている。だが、正体を知られてしまえば、もうこの手は使えない。周囲は、罠かもしれないと身構えたが、王は、迷わなかった。

 彼の決断は、勝利をもたらした。だが、代わりに王国は、それまでの質実剛健な気風を失い、南部地方の奢侈と頽廃に呑まれていく。現代のフォレスティア貴族が抱える矛盾も、ここに端を発しているのだ。


 ……まあ、いくらお嬢様がお転婆でも、革袋や小船まで用意できるとは思えない。まさか、ね。

 そのまま、波止場を歩く。出歩いている人はいない。船の発着は制限されている。商人達も、本当なら今日の昼にも出航する予定だったのだから、いい迷惑だろう。

 ところどころに緑の植え込みがある。そういえばこの前、忘れ物を急いで届けた時、この茂みにタオルを放り込んでいったっけ。屋根を飛び越えるとか、いろいろ無茶をしたから、見た目を変えてから出て行く必要があった。

 そして、そんな緑色の中に、小さなピンクが見え隠れしている。はて。


 嫌な予感しかしない。

 だが、何かを見つけた以上、何もしないわけにもいくまい。俺はいやいやながら、それに近付いた。


 明らかに女物の、それもサイズの小さなハンカチ。上等なものだ。

 こんなところに落ちている、ということは……


 いや、いや。

 これがお嬢様のものだという証拠はない。ないが。

 俺は周囲を見回す。誰もいない。よし。

 軽く念じるだけで、俺の肉体は消え去り、代わりに薄い灰色の、大型犬が出現した。


 鼻先をそっと近づけ、匂いを確認する。

 お嬢様のものだろうか? そんなのわかるわけない。一度、犬になった状態でお嬢様の匂いを嗅いでいれば別だろうが。

 だが、まさかとは思ったが、俺は懸念を払拭することにした。すぐ横には、海がある。並岸流に逆らう帰り道は大変だろうが、この犬の体力なら、なんとか戻れるだろう。俺は覚悟を決めて、水中に飛び込んだ。


 行きはよいよい、帰りは怖い、だ。泳ぐまでもなく、すいすいと城壁の向こう側に運ばれた。そこで俺は犬掻きをしながら、海岸を観察する。

 見れば、城壁からさほど遠くないところに、踏み荒らされた地面がある。俺はそこに上陸して、匂いを調べた。


 すると……やれやれ。見つけたくもないものを、またも偶然に見つけてしまう。余程、運が悪いらしい。いつもそうだ。例えば、ヨコーナーの手紙とか、ミルークの情事とか。

 いや、今回の発見は、確かに偶然ではあったが、時間さえ経てば、きっと兵士達も発見できただろう。少なくとも、ハンカチまでなら。波止場周辺には見るものも少なく、隠れる場所もないから、お嬢様が立ち寄る可能性が低いとして、まだ捜索の手が及んでいなかった。だが、他で発見できなければ、やがてはこちらにも人手が割かれたことだろう。

 ただ、問題は、本当に数百年前と同じ方法で、ここをすり抜けた連中がいると気付けたかどうかだ。これは、この犬の嗅覚がなければ、難しかっただろう。


 そして、犬の嗅覚は、その他の情報も拾っていた。恐らく、人間の男性と思われる匂い。男は女より体臭が強いから、判別しやすい。コラプト市内でワンワン大行進をやらかした時に、散々嗅いだものだ。それと、更にきつい臭気も残っている。それも複数。これは……馬だ。

 地面をよくよく観察すると、なるほど、かすかにだが、蹄の跡が残っている。


 確定だ。

 これは誘拐事件だ。それも、リリアーナは既に、市外に連れ去られている。しかも、今はどうかわからないが、少なくとも犯人がここを離れる時には、距離の稼げる馬を使っている。ゆえに対応は急を要する。

 だが、これをどう伝えるか?

 ええい、考えても仕方ない。俺の責任は、見つけたものを報告するところまで、だ。

 俺は急ぎ引き返し、海岸の岩にかじりつきながら、必死で波止場に引き返した。


「これが、埠頭の植え込みに?」

「はい」


 俺の報告を受けて、イフロースとカーンは、真剣な眼差しを向けてくる。


「近くにお嬢様はいらっしゃいませんでした。普通に考えて、あんなところにハンカチを落としたり、捨てていくはずもありません。海が近いことを考えれば、小船か何かで連れ去られた可能性もあります」


 最悪の中の最悪。認めたくない現実。

 イフロースは、決して動揺はしていなかったが、どれほど事態が悪化しているかは、はっきりと理解したようだった。


「しばし待て」


 背を向けると、足早に奥の部屋へと歩き去っていった。扉の向こうには、子爵と夫人がいるのだろう。

 ややあって、勢いよく子爵が飛び出てきた。こちらには構わず、廊下の向こうへと歩き去っていく。それを見届けてから、イフロースは俺に言った。


「今、捜索隊の一部を、市外の探索に回すことに決めた。だが、これだけではまだ、市内にいらっしゃる可能性も捨てきれん」


 拳を握り締めたまま、イフロースは苦々しげに言った。


「よく見つけてくれた、フェイ。だが、引き続き、市内の捜索を続けてくれ」


 それは意味がない。説明はできないが、俺はもう、彼女が外に連れ出された証拠を見つけてしまっている。

 だが、俺が抗議するような表情を見せると、イフロースは、穏やかに、嗜めるような口調で言った。


「城壁の外は、決して安全ではない。街道には、決して数は多くないながらも、盗賊もいれば、野獣や魔物も出没する。お前が目敏く、賢いのはわかっている。だが、六歳の子供でしかないのに、そんな危険なところで、何ができる?」


 これも、説明はできない。できないが、恐らくこの世界にいる生物が相手なら、一対一であれば、どんなに強大な相手であっても、一撃で倒せる。そこまでいかなくても、身体操作魔術と棒術を駆使すれば、中級クラスの冒険者までなら、圧倒できる。何より、逃げた誘拐犯の匂いを追えるのは、俺だけだ。


「危険なことは大人に任せるべきだ……少し休んでからでいい、引き続き頼むぞ」


 そう言うと、イフロースは背を向けた。自分の手勢の一部を、外に送り出す。その指示を出すためだろう。

 俺は黙って一礼し、引き下がった。

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