初めてのお散歩

 危ないところだった。


 屋根を飛び越えて、素早く封筒を届けよう! ……どうしてこんなバカな考えを思いついたのか。

 はじめのうちはよかったが、やはりというか、街の中心部に近付くにつれ、目撃者が増えてきた。特に、街を南北に貫く大通りの南端、ちょうどそこから左右に広がる三叉路で、五階建てのビルの天辺から天辺へと、飛び越えてみせたのはまずかった。道行く人が足を止めて、俺を見上げて指差していた。

 こうなると興味本位の野次馬みたいな連中が動き出す。なんとか俺を捕まえようと、追いかけだす暇人が出始めたのだ。冗談じゃない。

 港のすぐ近くで、俺は植え込みの中に身を隠した。そこでタオルを捨て、上着を脱いで転がした。上はシャツ一枚、ラフすぎる格好だが、この際、仕方がない。ここから先は、もう建物の上を走るわけにもいかないし、またそんな場所もない。今の身体能力を隠しつつも、うまく追いつかなければ。

 そう思いながら、俺は封筒を手に、走った。数百メートル先に、別れを惜しむ四人の親子の姿が見えた。


 あの背の高い、筋肉質な中年男性が船長だ。使い古された灰色のロングコートを羽織っている。精悍さを漂わせる海の男。控えめなヒゲからは、威厳よりも野性味を感じさせられる。サマになっていて、なかなかカッコいい。

 その傍にいるのは、彼の妻であり、ウィムの乳母でもあるラン。それにルードとナギアだけだ。あと一人、末の娘がいるらしいのだが、さすがに屋敷に預けてきたらしい。


「待ってくださぁぁぁい!」


 くそったれ。

 俺のことを普段から目の敵にするナギア。理由もないのに小突いてくるルード。こんな奴らの親のために、どうして俺が、こうまで頑張らなきゃいけないんだ?

 彼らの姿が間近になると、俺は意図的に歩幅を狭くした。馬みたいな速さで駆けつけようものなら、それが後々、話題になりかねない。

 こうしているうちにも、しゃがみこんで船長は子供二人の頭を撫で、それから立ち上がって背を向けようとしていた。


「船長! 忘れ物です!」


 この声に、やっと彼らは振り向いた。よかった。本当にギリギリだったみたいだ。

 ここからは演技だ。本当はまだまだ余力があるのだが、あえてよろけてやる。そして、膝に手をついて、肩で息をする。そこでようやく、顔をあげて、こう言ってやった。


「これ……手紙とか、入ってるから急いで運べって……秘書の方から」

「見せなさい」


 表情を引き締めた船長に封筒を渡すと、彼は中を検めようとして……中にある便箋の一枚に気付いた。もうそれだけで、どういう性質の書類か、理解したようだ。


「なぜこれが?」

「詳しくは、わかりません。なんか、その……内務班の人が、今日の船に渡し忘れたとか」

「ということは……そうか、じゃあ、あいつがまた、うっかりやらかしたか」


 そう呟きながら、ヒゲの似合うワイルドかつダンディな中年船長は、封筒を大事そうに内ポケットにしまった。


「ありがとう。君は……フェイ君、だったかな」

「あ、はい」

「おかげでドジを踏まずに済んだよ」


 そう言いながら、彼は温かみのある笑みを浮かべた。そこには、屋敷の中で暮らす連中にありがちな、あの嫌味な雰囲気はなかった。こんなちゃんとした親父さんから、どうしてルードやナギアみたいな、ねじくれた子供が育つのか。ちょっと不思議だ。

 ふと、左右を見ると、子供二人は、微妙な表情をしていた。まずルードだが、何が起きたのか、まだちゃんと理解していないようだ。ナギアは、もう少し察しがいいので、状況を把握しかけている。だが、俺に助けてもらったなどと、認めたくはない。かといって、憎まれ口を叩くわけにもいかない。今は両親の目の前なのだ。いい子でいなければ。


「確か、ナギアと一緒に、接遇のお仕事を手伝っているんだったかな?」

「はい、いつもご指導いただいております」

「ははは、ご指導、か。よく出来た子だな。ナギア。どうだ、フェイ君は。ちゃんと仲良くしているか?」


 彼女は一瞬、口元を引き絞ると、そこで感情を噛み殺した。次の瞬間には笑顔を浮かべて、当然の如くに猫なで声で言い切った。


「はい、お父様。いつも頑張ってくれるので、心強いです」


 本当は、嫌いで仕方がないのだ。それどころか、たった今、ただ嫌いという段階を超えて、憎らしいという新たな境地にまで到達してしまった。実子である自分を差し置いて、父にかわいがってもらっているフェイ。自分だって、たまに帰宅した時にしか甘えられない人に。


「そうかそうか。フェイ君、これからもナギアを頼むよ。そうだ」


 何かを思い出したように、彼は慌しく懐をまさぐり、続いて革袋を取り出すと、そこから五枚の銀貨を取り出した。


「フェイ君、今日はゆっくり帰りなさい」

「えっ?」

「ピュリスに来てから、まだ一度も遊びに出たこともないんだろう? これで少しは、楽しんでくるといい」


 銀貨五枚。子供のお小遣いにしては、破格だ。だいたい、前世の感覚でいうなら、五千円分くらいか。受け取りたくない。横からルードとナギアが、ものすごく睨んできている。


「せっかくですが、いただけません。僕はお屋敷の仕事をさせていただいただけですから」

「ははは、そうだな、それもそうか」


 よかった。引いてくれて。


「それじゃ、こうしよう。君はこのお金で、内務班と秘書課に、お土産として、ちょっとしたお菓子を買ってあげて欲しい。それぞれ、銀貨一、二枚分程度のでいいかな。うちの人間の失敗を、埋め合わせてくれたお礼とお詫びということでね。で、あまったお金で、お昼ご飯でも食べて、ちょっと何か欲しいものがあったらそれも買って帰ればいい。どうかな」

「ええと、勝手に外で食事をするというのも……」

「これも仕事だ。屋敷の外のことを、まったくわからないままじゃ、お使いもろくにできない。今回もかなり道に迷ったんじゃないか? この先、勤まらなくなるよ?」


 筋道は通っているか。それくらいなら。用事を済ませて、遅くなるから外食する。うん、あまり断るのもなんだし。それぞれ銀貨二枚分くらいのお菓子なら、手元に残り銀貨一枚きり。昼飯を食ったら終わりだろう。よし。


「お勤めということであれば、お引き受け致します」

「うんうん、ありがとう、助かるよ」


 そう言いながら、彼は俺の手の上に、五枚の銀貨を落とした。と、次の瞬間に、もう五枚の銀貨を追加した。


「えっ!」


 ヤバい。ナギアが超睨んでる。どうしよう。このお金、残しておいて、後でそっと返そうかな。いや、多分、そういう問題じゃない。わかってる。彼女は、前にチラリと顔を見たきりほぼ初対面の俺が、見下す対象であるはずの俺が、いきなりここまで父にかわいがられているのが我慢ならないのだ。

 そんな俺の気持ちを、ただの遠慮としか受け取っていない船長は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、一歩下がった。


「それじゃあお前……ルード、ナギア、そろそろ出発だ。元気でな」

「はい、いってらっしゃいませ」


 それまで空気のように存在感のなかった乳母が、ゆっくりとした仕草で、夫に頭を下げた。船長は、軽く手を振ると、もう振り返らず、さっさと歩き出していった。


「本当に、ありがとうございました」


 また、その場に水がしみていくような、静かな声がした。いつの間にか後ろに立っていた乳母だ。


「よっぽど慌ててきたのですね。そんな格好で」

「あ……」


 そうだ。今の俺はシャツ一枚。人前に見せられる格好ではない。


「済みません、無作法を」

「いえいえ」


 柔和な笑みを浮かべる彼女だが、決して見た目通りの人物ではない。屋敷の中でも有数の権力者だ。メイド長ほどメリハリのある性格ではないのだが、長年貴族の屋敷で務めてきただけあり、礼儀作法にも、実は厳しかったりする。その場で叱りつけたりはしないが、あとでじわじわとプレッシャーをかけてくる。そんな感じの人なのだ。


「今回は、それどころではなかったのでしょう。本当にお疲れ様です」

「あ! あの」


 俺は、そっとさっきの銀貨を差し出した。


「こちらのお金ですが、僕みたいな子供が持ち歩くには、金額が大きすぎますし、無用心です。言い付かったお仕事の分だけはいただきますが、あとは預かっていただけませんでしょうか?」


 気持ち悪いお金は、さっさと手放すに限る。


「あら。これは気付きませんでした」


 そう言われて、乳母は懐から財布を取り出した。片手でお金を差し出しては失礼にあたる、と思い、十枚の銀貨を掌に載せて差し出す。だが、すぐに引っ込めた。


「あらあら」


 抑揚のない声。冗談じゃない。更に銀貨を追加しようとしていたのだ。

 これはダメだ。俺は、貸しは作っても、借りはごめんなのだ。なのに、この乳母ときたら。

 もちろん、わざとやっているのだ。ただ感謝の気持ちを伝えたいだけ、せいぜい娘と仲良くして欲しい、というつもりだった船長とは違う。自分のため、夫のため。そしてこれからも子爵家で生きていく子供達のため。


 目先の金を欲しがっていないから忘れがちなのだが、俺のような少年奴隷にとっては、銀貨十枚というのは、充分すぎるほどの大金だ。通常の少年奴隷が金貨五百枚程度で取引されていることを思い出せばわかる。つまり、俺は今日だけで、普通の奴隷を身請けするのに必要な金額の、五百分の一を稼いだことになる。……まぁ、自分の実際の落札額を知っている以上、こんなのはスズメの涙にしかならないとわかっているのだが。

 こんなはした金で囲い込まれてなど、やるものか。


「帰りましょう、ルード、ナギア」


 頭の中を切り替えた彼女は、やや厳しい口調でそう言った。お見送りはおしまい。これからまた、日常に戻るのだ。


「あなたのことは、ちゃんと報告しておきますから、ゆっくり帰っていらっしゃい」

「はい。ありがとうございます」


 軽い会釈をすると、彼女は子供二人を連れて、歩き去っていった。

 彼ら三人の姿が人込みに消えてから、俺はやっと、安堵の吐息をついた。


 とりあえず俺は、さっき放り投げたタオルと上着を回収した。波止場近くの植え込みに転がしておいたせいで、かなり汚れてしまっている。仕方ない。これを着なければ。日焼けを作るわけにはいかないのだ。顔は少し焼けてしまうかもしれないが、この際、やむを得ない。


 それから、俺は歩き出した。

 今更になって、解放感が胸に満ちてくる。そうだ。今の俺には充分すぎるお小遣いがある。しかも、多少遅く帰ってもいいらしい。目の前には、はじめての街並みだ。ちょっとした旅行気分を味わえる。

 どうしよう。まずは飯でも……と、そこまで思い至って、現実を思い出す。

 そうだった。身体操作魔術の効果は、あと三十分くらいで消える。そうなったら、あの副作用だ。だから、その前にどこか、ゆっくり休める飲食店などに落ち着かなければいけない。

 そんな風に考えながら、俺は周囲を見回した。とりあえず、この波止場には、そんな場所はない。


 足元には、しっかりした石組みの土台。そこここに、係留に使う突起が設置されている。何隻もの木造船が、それぞれの場所に浮いている。押し寄せる波にきらめく陽光が眩しい。

 この世界でも読書好きに育った俺にとっては、実はここは、一度見てみたい場所の一つだった。エスタ=フォレスティア王国によるピュリス包囲戦。その戦況は、市内からの脱走者によって一変した。なんと、海流によって城壁の外側に出た王女が、国を売ったのだ。なかなかドラマチックなお話だったので、よく覚えている。

 だが、今、こうして現場に立ってみると、なんとも味気ない。美しい波止場であるとはいえるが、当時の史跡など残っているはずもなく。そもそも、王女が上陸した正確な位置だって、記録にない。まあ、当時のピュリス市は、もっと西寄りだったので、この辺は間違いなく、城壁の外だったらしいが。


 反対側、陸のほうには、いくつもの木造の倉庫が立ち並んでいる。その手前には、一部の通路を除き、ぎっしりと植え込みが設置されている。おかげで景観は美しいが、荷物の運搬には不便だろう。こんなものに、誰が費用を出しているんだろう? あ、そうか。一応、高潮対策でもあるのか。

 さて、波の音を聞き続けるのも、それはそれで心地よい。だが、魔術の副作用で倒れこむなら、もう少し場所を選びたい。こんな日差しの強いところで、一時間も寝転ぶのは勘弁だ。植え込みの中なら日焼けは避けられるが、今度は虫刺されが怖い。

 ここは街の南東の端だから、ここから少し、北側にまわってみよう。


 およそ十五分後。俺はちょっとアテが外れて、軽い焦りを覚えていた。

 こんなことなら、どこかの時点で、街の中の簡単な案内を受けておくんだった。今、いる辺りには、飲食店など一件もない。小さな家々の間を、細く曲がりくねった通路が、ごちゃごちゃに交わりあっている。しかも高低差もあるから、まず馬車なんかは入り込めない。

 構造だけみると、まるでスラム街だが、幸いここにはその手の不潔感というか、身の危険を感じるような雰囲気はない。それどころか、活気に満ちている。今もすぐ近くの建物から、威勢のいい打撃音が聞こえてきている。

 そう、ここは職人街なのだ。どうやらエリアごとに、ここは鍛冶屋の区域、ここは指物師の区域と定められているようで、それぞれの場所で、職人達は仕事に励んでいる。


 考えてみれば、それも必然か。このピュリスの街は、基本的に貿易の拠点として栄えてきた。まず海沿いの地域が開発され、そこから内陸に伸びるように道路が整備された。こちらに来る時に見た、あの三叉路は、大昔からのものだ。

 形のいい高台は、その西側にあった。必然、そこに城砦が構築される。一方、人口が増えてくると、様々な需要が持ち上がってくる。また、流入してくる様々な物品をこの場で買い付け、製造につなげようとする職人も集まりだす。彼らに残された地域は? ここしかなかったわけだ。


 恐らく、この区域の都市計画の杜撰さには、他に実用的な理由もあるのだろう。西側のように大きな丘があって、きっちり城壁で囲えているならいいのだが、こちら側はそこまで恵まれた環境にない。となれば、街への侵略者を迎え撃つには、こうしたわかりにくい通路を備えた街づくりをしたほうが、都合がいいに違いない。

 よし。多少無理にでも、西側に突っ切ろう。いろんな職人達の、小さなお店の数々は、見物しているだけでも飽きがこないのだが、このままここにいるわけにはいかない。


 大通りに出た。ピュリスの中心街だ。他の区域ではせいぜい二階建てくらいの建物ばかりだったが、ここには五階建ての高層住宅がある。下のフロアはたいてい店舗になっていて、場所によっては二階もそうだったりする。船乗り向けの宿屋があるのも、このあたりだ。

 陸側からピュリスに入るには、普通は北側の門を通ることになっている。その門にまっすぐ繋がるのが、この大通りだ。ここだけはものすごくしっかり整備されていて、馬車が三台くらい、並んで走れるだけの幅がある。加えて、歩道も広く取ってある。さっき、波止場に向かう際にも、この道路だけは、そのまま飛び越えるのは無理だった。

 この大通りの南端に、それぞれ東西に緩やかなカーブを描く分岐がある。それぞれ、ちょっと道幅が狭くなる。西側は住宅街、そして最終的には軍港に繋がっている。東側は商用の港湾だ。だから、西側は早々に飲食店などが途切れてしまうのだが、東側には色とりどりの看板が目立っている。

 この三叉路、ぱっと見た限りで、かなり効率が悪い。なにせ、明確な交通ルールがないのだ。一応、午前中は出航する人、午後は到着した人が多いらしいので、なんとなくの流れはできているようだ。それにまた、西側から大量の馬車がやってくることはあまりない。一度だけ、勢いよく走り抜けていく馬車の一団を見かけたが、みんな足を止めて先を譲っていた。多分、公務だったのだろう。


 今は昼時、あちこちの店から、おいしそうな料理の匂いが漂ってきている。どこがいいだろう? あまり混雑しているところはダメだ。これから一時間ほど、腰を下ろしてもいいような場所。少し空いていて、日陰のあるところがいい。

 ちょうど目の前に、落ち着いた雰囲気の店があった。上は五階まであるから、当然下までみっちり石造りなのだが、一階の店舗部分の表面は、きっちりと焦げ茶色の木材で覆ってあった。繊細さより無骨さ、こぎれいというより古びた感じだ。年を重ねた男のひび割れた、しかし温かみのある手を連想させる雰囲気だ。

 中に立ち入っても、いらっしゃいませなどと声をかけられたりはしなかった。俺が子供だから、紛れ込んだだけだと思ったのかもしれない。

 店内は、ほどよく薄暗かった。建物の強度を考えても、そんなに大きな窓はつけられない。それにまた、ピュリス一帯は、どちらかというと南国だ。日差しはなるべく遮るべきものなのだ。

 数人の男が、店内のあちこちのテーブルに座って、黙って飲食している。一箇所だけ、雑談しながら酒を酌み交わす三人組がいたが、あとは静かなものだ。辺りを見回すと、上の階に昇る階段が見えた。

 なるほど。ここも、宿屋兼飲食店というわけか。荒っぽい海の男達とか、旅を重ねるたくましい行商人が集う場所なのだが、そんな連中が、昼間から宿屋備え付けの食堂で休んでいたりなどするだろうか。彼らは大抵、外を歩き回り、屋台の飯で済ませてしまう。彼らがここで飲食するのは、基本、朝と夜だけだ。

 都合がいい。込み合っていなければ、子供一人、ずっと休んでいても、文句など言われまい。

 俺は、カウンターの近くまで駆け寄ると、洗い物に集中する店主に声をかけた。


 ひどい一時間だった。正直、副作用をナメていた。

 前回、ジュサと戦った後も、それなりに疲労感があった。起き上がるのも厳しいほどだったが、あれくらいなら、覚悟していた。

 全然違った。今回は、手加減なしに全力で走り回り、オリンピック選手も真っ青の大ジャンプを繰り返した。およそ七歳児の肉体には耐えられないだろう、壮絶な負荷をかけたのだ。

 結果は……薬の効果が切れると同時に、全身が腫れ上がったかのように、熱と痛みが急激に襲ってきた。目の前に並べられた料理を前に、俺は指一本、動かせなくなった。せっかくの料理を、温かいうちに食べようとしない俺を、店員が不審がって見ていた。

 三十分ほどして、ようやく手が動くようになったので、無理やりスプーンを手にとって、食べ物を口に運んだ。ところが、ろくに飲み下せない。噛むだけでやっとだ。だいたい、味がよくわからない。そういうわけで俺は、冷めかけた料理を、のろのろと無理やり体に詰め込んだ。きっと、食べはしたものの、胃袋も動いていない。

 一時間ほどして、ようやくこの苦痛から解放されると、やっと俺は起き上がった。お代を置いて、店を出る。


 明るい大通りに出たところで、俺は手元の残金をそっと確認する。

 さて、残った金は……銀貨九枚と、銅貨が少々。このうち、二枚から四枚は、内務班と秘書課へのお土産に消える。ちょっと上品なお店で、何か焼き菓子でも買って帰ればいい。問題は残りだ。

 乳母やナギアに突っ返すのもいいが、きっと受け取ってはもらえない。ならば、俺のものにしておけばいいのだが、なんといってもあの子供部屋。プライバシーも何もない。貴重品など置いておけないから、ミルークからもらった指輪は首から提げているし、アクアマリンのブローチもシャツの内側に隠している。今まで現金を持つことがなかったから、それでなんとかなったが……このお金、同じ部屋の子供達に見咎められたら、面倒なことになる。

 そうだ、それなら。

 俺は来た道を戻り、職人街に引き返した。


「ただいま戻りました」


 俺が薄暗い内務班の事務室に戻ると、疲れた様子のイーナさんが、座ったまま振り返る。この人、いつもストレスでいっぱいだ。


「もう連絡は届いているかと思いますが……」

「ええ、知ってるわ」


 問題が表面化せずに済んだのは、好ましいことらしい。一瞬だけ、彼女の目に力が戻る。


「なんとか間に合ったみたいね。助かったわ」

「運がよかったみたいです。で、これ……」


 俺は、薄っぺらい木箱を二つ、差し出した。


「船長が、ご迷惑をおかけしたとのことで、形ばかりのお詫びをと。こちらを探していまして、少し遅くなりました」

「ええ、じゃあ、秘書課の分も預かっておくから」

「では、仕事に戻ります」

「ああ、今日はもう休んでいいわよ」

「えっ?」


 溜息一つ、座り直した彼女は、うんざりした口調で吐き捨てた。


「大人が大人だから、子供も子供になるのよ。あなたが自分の仕事を済ませたのは知ってるから。あとは他の子がやるわ」


 そう言ってから、彼女は皮肉交じりの笑みを浮かべた。


 昼下がりの庭園を横切って使用人の寮に戻る途中、しゃがみこむ数人の子供が見えた。向こうでもこちらに気付いたらしく、しきりとこちらを見つめてくる。だが、何も言わない。これは面倒だ。どうやら、俺が彼らのサボりを密告したと認識されているらしい。


「こら! お前らはお前らの仕事をしろ!」


 見張りの青年が声を張り上げると、子供達はすぐに視線を逸らした。こうして彼らの炎天下での作業は、続けられる。


 俺は歩きながら、いろいろ反省していた。今回の行動は、失敗だった。

 結局のところは、俺のお人よしがいけないのだ。彼らが困っていたのは確かだし、こうして無事、封筒を届けることもできた。だがそのために、俺は自分の正体を知られかねないリスクを背負ったし、貴重な魔法薬も消費した。それで得られたものは?

 俺が俺の能力を隠している以上、封筒の運搬に成功したのは、ただの幸運によるものとされる。カトゥグ女史や秘書課の連中が、多少は俺に負い目をもってくれたとしても、それで得られるものなど、たかが知れている。そして、船長は笑顔で銀貨をばらまき、乳母もそれを追認した。

 要するに、俺が得たものといえば、数枚の銀貨と、僅かな休憩時間だけだ。降って湧いた災難をどうにか切り抜けた、というだけ。最初から、あのタイミングで事務室に顔を出さなければ、それで済んでいた。

 もっとうまく立ち回らないといけない。そうでないと、この屋敷では、やっていけない。


 それと、能力の活用も、よしあしだ。使えるからといって、気楽に行使してはいけない。この魔法薬も、やはり持ち歩くべきではない。あれば使ってしまうからだ。銀の指輪もブローチも、ついでにしまっておきたい。

 俺は、最後に手元に残った銀貨一枚を、親指で軽く弾いた。残りは?

 特注の小型貯金箱を作るのに、消えてしまった。とんだ笑い話だ。しまっておくべき現金が、ほとんどなくなってしまったのだから。おまけに、品物はまだ手元にない。数日後、屋敷まで届けてくれるらしい。やれやれ。


 俺は、もう一度、後を振り返る。しゃがみこむ子供達の麦藁帽子が、時折、陽光を照り返す。

 ちょっとは風通しがよくなれば。

 まあ、久々の散歩も楽しかった。そう思うしかない。

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