富者の秘訣

 俺の右手には夜の暗闇。見ることはできないが、その向こうには小さな林と、青々とした海が広がっている。フォレスティアとサハリアの間を隔てる、小さな内海だ。だが、ここよりずっと東に行けば、今度は大きな内海に出られる。チーレム島と西方諸国を結ぶ海だ。

 そして俺の左手には、黄金に輝く振り子時計が腰を据えている。この応接室で一番の貴重品だ。故郷の地球のものと同じく、十二の時間が刻まれている。目を引くのは、文字盤の上に飾られた宝石だ。夜の闇とは対照的に、眩いばかりの光を放っていた。

 そして、俺とミルークが何も言わないと、時計のコチコチという音だけが、この空間に残る。


「人生とは不思議なものだな」


 脇にある瓶を引き寄せ、彼は手元のグラスに酒を注いだ。


「故郷を捨てて、こんな外国の片田舎にひっそりと暮らして……もう、この身の上に、何かが起きるとは思っていなかったのに」


 一口、赤く濁った酒を呷る。


「もしかしたら、私が生まれてきたのは、今、ここにいるためだったのかもしれん」

「……それは、どういうことですか?」

「そのままの意味だ、ノール……いや、ファルス、でいいのか?」


 彼は、また自分のルールを破った。彼にとって、奴隷を本名で呼ぶ、ということには、特別な意味がある。


「それとも、他にまた名前があるんじゃないか? ファルスというのは、この世界ではありふれた名前だからな」


 目を見開く俺に構わず、彼は続けた。


「馬小屋で見つけた時、お前は何か喚きたてていたな。あれは何かの言葉だった。私が知らないとなると、ハンファンか、それともワノノマの言葉か? だが、それを教える人物が、リンガ村にいるわけもない。まぁ、お前は黒髪だし、その親がハンファン出身だとして、お前に故郷の言葉を教え込んだのだとしても……それだけではお前の計算能力について、説明がつかない。他にも、私も知らない様々な概念を元に、考えを組み立てていたな? 要するにお前の思考力は、明らかに大人のものだ。とすると……」


 身を乗り出しつつ、彼は言った。


「……虫けらになれるお前なら、実は子供にも、大人にもなれたりはしないか?」

「想像力豊かですね」

「なにしろ、時間だけはたっぷりあったからな」


 グラスを置くと、彼はすっと立ち上がり、窓の外を見た。今夜は鉄の扉を下ろしていない。それでも、窓の外は真っ暗なので、目を凝らさないと、何も見えない。


「お前が姿を消して、その後、また見つかって……最初、私はお前を魔法使いではないかと思った。それも、歴史に名が残るくらいの、一流のだ。だが、そんなはずはない。大掛かりな儀式をするでもなく、貴重な触媒や、古より伝わる魔法の道具を使うでもなく、どうして人間が虫になどなれる? だから、お前はそれ以外の……」


 そっとこちらを振り返って、彼は結論を告げた。


「人智を超えた、何か途方もない、どこか遠くからやってきた存在なのだ」


 それは半ば事実であり、間違ってもいる。

 俺がどこから来たかとなれば、それは確かにその通りなのだが、中身の俺はといえば、平凡な人間でしかない。


「私は、そんな特別な何者かを守るために、女神によって遣わされたのではないか、とな」

「買い被りですよ。隣で見てたじゃないですか。僕には確かに、得意なこともありましたが、学ぶにも働くにも、ごく普通の人間だったじゃないですか」

「そう、そこだ」


 俺を指差し、ミルークは頷いた。そして、いそいそとまた、俺の向かいに腰を下ろす。


「お前に何をしてやれるのか、と思ってな」

「どういうことですか」

「今のお前は、貧しい」


 ミルークは真顔で言い切った。

 貧しい。ストレートに言ってくれるが、そんなの当たり前だろう。俺は奴隷で、財産などない。貧しくない奴隷が、この世界のどこにいるんだ。


「奴隷だから、それが普通でしょう」

「いいや、そういう意味ではない」


 彼は腕組みをして、俺を見つめた。


「お前に、富豪と貧乏人の違いを教えてやろう。富豪はな、金に幻想を抱いたりはしない。もちろん、大事なものだとはわかっているし、使う時は使うのだが、それで何が手に入るのか、どれだけの幸せをもたらすのかを、正確に理解しているのだ。だが、貧乏人は違う」


 ごく常識的なことを言われている気がする。それなら俺だって、金に幻想なんか抱いてはいないつもりだが。


「貧乏人はな……金さえあれば、なんでも手に入ると思っている。まあ、それは半ば、事実ではあるがな。だが、その考え方のせいで、奴らはいつまで経っても金持ちにはなれない。事あるごとに、奴らは私のような資産家に文句をつけるんだ。お前ははじめから金持ちだから金持ちなんだ、と。否定はしないが、それだけではない」

「あの、でも、僕もお金に幻想なんて、抱いていませんよ? ほら、宝物をくれるって言われても、断ったじゃないですか」

「そう」


 と言いながら、ミルークは、ピッと俺を指差した。


「あの時、勿論、私は落ち込んでいたが、心の中のどこか冷静な部分が叫んでいた。辻褄が合わない、とな」

「どういうことです?」

「お前は金を欲しがらなかったが、お前の行動のあり方は優秀ではあっても、私から見ると、貧乏人のそれだ。ノール、富める人は夢を持ち、それを追いかける。だが貧乏人はというと、その逆だ。夢を追いかけていると口では言いながら、実のところは、目標に後ろからせっつかれて、無理やり走っている……だから、行くべき道を、まっすぐ走れない」


 内心の深いところに矢が届いたかのようだった。

 そう、まさしくそうだ。俺の目標は、まったく変わっていない。死んだ後、どうなるかを知ってしまった。だから、俺はこの世界で永遠の命を手にしなければならない。幸い、ピアシング・ハンドの能力もあり、魔法も存在するこの世界であれば、そのチャンスは決して小さくはないだろう。

 だが、それなら急がなければならないのだ。不老不死を手にしたとしても、それが今から五十年後だったら? 若々しく元気な肉体に乗り換えてから、不死身になるのであればいいが、さもなければ、どんなことになるか。前世では、三十代後半になったばかりだったのに、日々、胃痛やらアレルギーやらで苦しんでいた。

 要するに、俺の目標にはタイムリミットがあるのだ。せいぜい、あと二十年。その間に無限の寿命を確かにする。できるだろうか?


「ノール」


 グラスをそっとテーブルに置きながら、彼は俺をじっと見た。


「お前の目標がなんであれ、それさえ叶えれば幸せになれる、なんてことはない。それは妄想だ」


 そんなことはない、と俺の心の深いところが叫ぶ。

 ミルークは知らないのだ。前世の記憶がないから、死後の世界を覚えていないから。だが、俺は見た。俺達は何度も何度も、苦しい人生を繰り返す。

 人生は苦しいのだ。この世界での最初の体験が、俺の確信を更に強固なものにした。貧困、虐待、そして飢餓と殺戮。せっかく頑張ってそれらから逃れても、そのままではやがて死ぬ。そしてまた、あの恐ろしい世界に放り込まれるのだ。


「多くの貧乏人は、いつかどこか、何かが空から降ってきて、自分の大好きなものを与えてくれればいいのに、と思っている。それでいて、毎日、自分の気持ちを押し殺して、嫌いな仕事をしているんだ。結局、ここでも心のあり方が幸せになれるかどうかを分ける。金持ちはいろんなことに興味を持てる余裕があるから、成功できるのだと。それは結果としてはそうかもしれないが、本質ではない」

「なら」


 俺は尋ねてみることにした。


「どうすれば幸せになれると思いますか?」


 俺がそう質問すると、ミルークは顎鬚をしごきながら、少し考えた。そして、ポツリと答えた。


「正しい取引をする、だな」

「取引、ですか?」

「そうだ」


 俺をじっと見据えながら、彼は言った。


「ノール、取引とはなんだ?」

「何って……物と物とを交換することです。お金の場合もありますが」

「そうだな、だが、これは理解できるか? 取引とは、本質的に赤字を生むものだということを」


 一瞬、戸惑った。

 ミルークは商人だ。そして、そこそこの成功を収めているから、お金にも困らず暮らしている。その彼にして、取引が赤字とは。


「じゃあ、こうしよう。ピュリスの街で、私がサハリア産のルビーを買う。そのルビーを、どこか宝石商のところで売り捌くとしたら、どうなる?」

「そんなの、商売になりませんよ。だって、買ったところで売るんでしょう?」

「そうなるな」

「じゃあ、当然、買値より安い売値がつきます」

「なぜだ?」


 当たり前のことを言われている気がしてならない。


「そりゃあ、だって、そうしなきゃ、宝石商は儲けがないでしょう?」

「そうだな。じゃあ、売る相手は宝石商じゃなくて、一般人にしよう。これなら稼げると思うか?」


 少し考えて、答えた。


「稼げるかもしれませんけど、効率は悪そうですね」

「そうだな。別に私から買わなくても、宝石商のところで同じものが手に入る。だから、私の売値は、彼らより高くはできない。一日中、街を駆けずり回って、やっと安い金額で売れるだけだ。労力を考えれば、これも赤字といっていいだろうな」


 何を言いたいのか、サッパリわからない。


「じゃあ、取引はしないほうがいいってことですか?」

「そうともいえるが、そんなのは不可能だな。人間のやることは、大抵、全部が取引だ。時間をかけて勉強をするのも、畑で農作物を育てるのも、みんな、最終的には、何か資源を投入して、別の資源を回収するという取引に落ち着く」

「そうなると、みんなどんどん貧乏になるようにしか思えないんですが」

「そうさ? 最後にはみんな、死ぬだろう? 健康とか、若さとか、時間という資源を使い果たして、富を失うのさ」


 救いがない発想だが、現実的ともいえる。

 だが、そうなると……


「じゃあ、正しい取引って、なんですか?」

「逆に、正しくない取引からいこう。そっちのが簡単だからな」


 俺の目の前で手を組むと、ミルークは目に意欲を輝かせながら続きを語った。


「さっきも言った通り、人はいつも取引をしている。取引こそは、人間の本質的な営みだ。フォレスティアの貴族どもは、農業こそがそれだと言っているが、あの馬鹿者どもは、何もわかっておらん。それも、自分で田畑を耕す農民が言うならまだしも、奴らは上前をはねるだけだからな」


 彼の顔に、自信に満ちた笑みが広がる。


「そして、ああいう連中は、悪い取引をよくやる。領地から上がった税収を、贅沢のために使ったりする。見栄のために立派な宝石を買ったり……それから、自分自身の空しさを埋めるために愛人代わりの奴隷を囲ったりとかな。かつての私にとっては、おいしい客だったわけだが……これは、資源と富の交換効率が、極めて悪い。わかるな?」

「はい」

「それが貧しさなんだ。富を損なうもの、それが貧しいということなんだ。いいか? 病気の体とか、ねじくれた根性なんてのも、立派にお前の資源の一部になり得るんだ。そういったものが、お前の取引にいちいち介入する。金持ちになりたいという貧乏人どもは、いつも金のことばかりを問題にするが、それは間違いだ」


 そう言いながら、彼は右手と左手、それぞれ一本指を立ててみせた。


「ここに二人の商人がいる。どちらも商売の腕前は似たり寄ったりだ。だが、一人は両親や兄弟とも仲が良く、友人にも恵まれ、優しい妻と元気な息子がいる。もう一人は、本人は大変に努力家なのだが、両親とはうまくいかず、兄弟は借金魔、環境が悪いのか、チンピラのような友人付き合いしかなく、妻は浪費家で息子は病気がちだ。さあ、どうなると思う?」

「そんなの、目に見えているじゃないですか」

「そう、その通り。不幸なほうの男は、両親を養わなければならないが、別居するために余計に金を払う。兄弟の借金を肩代わりさせられる。友人付き合いは、早めに関係を切らないと、痛い思いをするだろうな。息子の治療費にも大金が必要だし、そしてどんなに頑張っても、妻はどんどんお金を遣う。息子が病気がちで、理想的な家庭を築けなかったのもあって、その不満を金で解決しようとする」


 どこかで聞いたような、というか、実際に体験したような話だ。耳が痛い。


「もう一人の幸せな男は逆だな。仲のいい両親と一緒に楽しく暮らし、兄弟とは助け合える。いい友人と幸せな時間を過ごせるし、気立てのいい妻がいるから、この商人は、金を余計なことに遣わなくていい。だから、二人の財布の中身には、どんどん差がついていく」

「でも、そんなのどうしようもないじゃないですか。そう生まれてきてしまったんですから」

「そうだ。こうやって貧乏人はどんどん貧しくなる。しかも、そういう連中こそ、金に縋って、金の力で幸せになろうとするから、滑稽でもあるが……ある意味、金は女に似ている。馬鹿な男は、女を口説いたら、ベッドでどう楽しむか、どんなに尽くしてもらえるかしか考えない。そういう男を、女は見限っていく」


 情け容赦ない。

 だが、ミルークもこの何十年かで、そういう人間を山ほど見てきたのだろう。没落した資産家とか……


「富というのは、本質的に不平等なものだ。金は、自ら広がって行こうとはしない。何もしないでほったらかしにしておくと、どんどん一部の人に集中していく。そして、世界で一人しかお金を持たなくなったら……どうなる?」


 少し考えて、すぐに答えが出た。


「お金の意味が、なくなります」


 世界で一人きりしかお金を持たない、ということは、通貨として成立しない、という状態だ。そして、そこに至る過程で、社会秩序も崩壊していく。金をまったく持たない層が出てくるからだ。彼らは取引から疎外される。となると、自給自足しかできない。

 自給自足しかないとは即ち、分業ができないということだ。分業とは専門特化のことで、これによって効率化が図れる。ということは、自給自足社会は、効率化されていない世の中だ。一人一人の生産性が低いのだから、当然、貧しい。

 そういう状況では、広い範囲での秩序というものが意味をなさなくなる。つまり、貨幣経済が成立しない領域が膨らんでいく。こうして世界全体が貧しくなってしまうのだ。

 ……現代日本で読書に耽った俺にして、やっとついていける議論だ。実際の商取引の経験だけで、ここまでの結論に辿り着いたミルークの知性とは、どれほどのものなのだろう。


「そうだ。つまりそれが、金が死ぬということだ。私が前に、金が生き物だといったのも、そういう理由からだ」


 そうして、腕組みをして、背を伸ばす。

 あれ?

 でもまだ、肝心のところは、教えてもらっていないような。


「じゃあ、いい取引っていうのは」

「考えてみたらどうだ?」

「ええっ?」


 いや。

 悪い取引というものを、今、教えてもらった。

 ならば、いい取引とは、その反対をすることだろうか?


「……お金に縋るのが悪い取引なら……じゃあ、お金に尽くせば、いいんですか?」

「そうだ」


 ミルークは、頷いた。


「お金に何かしてもらおう、という下心なんか捨てるんだ。さっき言っただろう、金持ちは目標を追いかける。だが、貧乏人は目標に追いかけられる。その辺の違いは、ここにも出るんだ。何かしてもらおう、と思えば思うほど、焦りが出る。無理もする。その無理からくる疲れを癒すのに、また金を遣う。貧乏人は走りっぱなしで、少しも幸せになれない。だが、既に満たされている人間は、わざわざそんなことをしなくてもいいんだ」


 俺は、少し考え込んだ。


「救いがないですね」


 少し、むかっ腹がたってきたのもある。


「貧しい人ほど、より我慢をしなきゃいけないみたいじゃないですか。その通りかもしれませんけど」

「それを我慢だと思ってやっているうちは、結果がついてこないのだ」

「だったら、余計にひどい話ですよ」

「そうでもない。ノール、幸せな人、金持ちが特別な人間だと思ってはいけない。彼らが貧乏人の感じる不安や恐怖を感じないわけではないし、苦痛を知らないはずもない。好きなものならたくさんあるが、それだって生まれつきではない」


 ミルークは、微笑んだ。そして、ゆっくりと諭すような口調で、俺に言った。


「彼らが持つ最大の財産は、愛する努力が必要だと知っているということだ」

「愛する努力、ですか?」

「そうだ」


 彼は両手を広げて、空から降ってくる何かを掬い取ろうとするかのような仕草をした。


「お前にも、好きなものも嫌いなものもあるだろう? だから、好きなものばかり掴もうとしてしまう。下手をすると、それしか目に入らなくなる。だけど、現実に空から降ってくるのは、いいことも悪いこともお構いなしだ。だけど……少しだけ、少しだけ視点を変えてみるんだ。好きか嫌いかじゃなくて、どうしたら好きになれるか? ……なあ、好きなものと嫌いなものが最初からあって、あとは好きなものを追いかけるだけの人生なんて、随分と受け身じゃないか?」


 そう語る彼の眼は、まるで少年のように輝いていた。


「それは……」


 俺は回答に詰まった。

 好きなもの。嫌いなもの。そんなのは、自明だと思う。自分が自分なのだから、それはそうだ。なのに。


「出口を探すな。入口を探せ。……ふふっ、父の受け売りなんだがな」


 そういいながら、彼は軽く笑った。


「私は商人だから、あくまで金のことしか、教えてやれない。だが、私はこれが真実だと思う。そして、金と人生を分けて考えるべきではない。豊かさとは、全般的なものだ。それに縋ろうと握り締めているうちは駄目で、自然とそこから手を離せるようになれれば、もうその人は富んでいる。そう、いい取引とは、掴むことではない、手放すことなんだ」


 大事なことは語り終えた、と言わんばかりに、彼は脱力して、ソファに背を預けた。


「お前も、いつかいい取引ができるといいな」


 それは、彼なりの祝福の言葉なのだろう。

 だが、俺はそこに、意地の悪い問いを差し挟みたくなった。


「じゃあ、ご主人様は、いい取引ができているんですか?」

「ああ、ご主人様なんてやめろ。ミルークでいい」


 手を振りつつ、彼は言った。


「で、いい取引か……ははっ、偉そうなことを言っておいてなんだが、私も前に、大きな取引に失敗してな。今は、その後始末をさせられているんだ」


 だが、そう言いつつも、彼に悲観的な様子は見られなかったが。


「お金なら、たくさん持ってるはずですが」

「ああ、死ぬまでに使い切れないくらいにはな。だが、自分のためには、ほとんど役に立たない」


 はて。

 この際だ。俺は、以前からの疑問をぶつけてみることにした。


「あの、ミルークさん。それじゃあ、あなたは何にお金を遣っているんですか? 教えてもらったこと、ないですが」


 この質問を向けられると、彼は真顔になった。


「それに、変なことは他にもあります。あなたは先代族長の息子でしょう? どうしてこんな、外国の片田舎に引き篭もっているんですか」


 ここで、彼の表情にまた笑みが浮かんだ。少しばつの悪そうな感じのだ。


「いいだろう。金は、贖罪のために遣っている。私がここにいるのは、秘密を守るためだ」

「秘密?」

「ウォー家の娘を匿っている」

「……!」


 認めた。

 やはり、ジルは、ウォー・トック男爵家の生き残りなのだ。


「……贖罪、というのは?」

「数年前、エスタ=フォレスティア王国の南東部を襲撃し、トック男爵領を荒らしたのは、ネッキャメル氏族だ」


 彼は微笑みさえ浮かべているが、俺は硬直してしまった。こんなの、外に漏れたら大惨事だ。


「それは、報復攻撃ですか」

「そうだ」


 じゃあ、ミルークは。

 ネッキャメル氏族を裏切った人間? これは、彼の命に直結する事実だ。これが表沙汰になったら、エスタ=フォレスティア王国からも、ネッキャメル氏族からも追われる身の上となる。


「じゃあ、ジルは……? あれ? でも、肌の色は」

「父親がサハリア人だからな」

「なら、ミルークは、ジルと結婚しているとか」

「まさか。娘と結婚する父親がどこにいる」


 唖然として、言葉を失った。

 娘?

 でも、娘と……


「お前も見ただろう。私とジルとは関係がある。悪いか?」


 そう言われても、言葉なんか出てこない。

 酸欠の金魚みたいに、口をパクパクさせるだけだ。


「じゃ、じゃあ……ジルは、娘で、愛人で、ここに匿っていて、でも、ミルークさんの護衛なんですね?」

「ちょっと違うな」


 落ち着き払った声で、彼は言い切った。


「ジルは護衛じゃない。一応、そういうことにはしているが、あいつに武器を持たせているのは、いつでも私を殺せるようにするためだ」

「えっ!?」


 俺が目を泳がせていると、ミルークの顔に笑みが戻ってきた。


「ふふっ……はっはっは! まあ、お前には関係ないことだが、興味があるなら、そうだな……」


 彼はゆっくりと立ち上がると、執務室の奥に引っ込み、すぐ戻ってきた。

 手には銀色の指輪と、紙とペンが握られている。


「この指輪をやろう。お前がいつか、自由の身になったら、ネッキャメルの族長を務める、私の弟のティズに会いに行くといい。ただ、私の名前は、ティズ以外には聞かせないほうがいいだろう。この指輪は、その時、お前の身分を証明するものとなる」


 俺の掌に、ずっしりと重みがかかった。指輪の台座には、宝石の代わりに、何か印章のようなものが彫りこまれている。


「それは貴重なものだぞ。間違って売ったりするなよ?」

「は、はい」


 そう言ってから、ミルークは、神妙な面持ちになって言った。


「それから、これは……なんというか……お願いがあるんだがな、お前の気持ち次第だ」

「お願い、ですか?」


 俺は、きょとんとして、彼の顔を見つめた。


「ああ。ノール、無理なら断ってくれてもいいが……お前の名前を教えてくれないか?」


 名前。もちろん、俺はシュガ村のチョコスなんかではないし、ファルスと答えて欲しいわけでもないのだろう。

 だが、俺は彼の最大の秘密に触れてしまった。彼もまた、俺の秘密の一端を手にしたいのかもしれない。


「そんなの、知ってどうするんですか?」

「どうもしないさ。ただの自己満足だ」

「お金にもならないし、僕が何かできるわけでもないんですよ?」

「それでいいさ……それでも、ノール、これも『取引』だ。さあ、どうする?」


 そう語る彼は、実に楽しげだった。

 俺は少し考えてから、言った。


「……いいでしょう」


 俺は彼の手からペンと紙をひったくり、自分の日本にいた頃の名前を書いた。漢字で『佐伯 陽』と。


「これは、なんと読むんだ?」

「サイキ、ヨウです」

「ふうん。では、お前はサイキというのか」

「いえ、そっちは姓です。名前はヨウ」


 彼は不思議そうに、俺の名前の書かれた紙を見つめていた。


「やはり、そうだったんだな」

「はい?」

「お前が、この世界の理を超えた、何かだというのは」


 そうだった。彼はこれで、証拠を手にしたことになる。俺が異世界からの転生者だとまではわからないにしても。


「安心してくれ。この秘密は、決して外には出さないさ」


 紙を丁寧に折りたたむと、彼はそれを懐にしまった。

 まあ、紙だけ見ても、普通の人には、何のことだかわからないだろう。


「これは『いい取引』なんでしょうか?」


 俺は、皮肉っぽくそう尋ねてみた。

 ミルークは、一瞬、虚を突かれたような顔をして、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「さあ、どうだろうな?」

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