真夜中の語らい
鍵はかかっていなかった。すっと鉄格子を押し、室内に入る。
執務室のほうは暗かった。応接室のほうから、橙色のほのかな光が差してきている。普段はあまり蝋燭に灯を点すこともないのだが、今夜は特別らしい。俺はそちらに足を向けた。
「鍵の返却に参りました」
ミルークは、ソファの上で、俺の手の中に輝く鍵を一瞥しただけだった。それもそうだろう……滅多にないどころか、初めて見るのだが、彼は酒を飲んでいた。手にグラスを持っているので、鍵を受け取れないのだ。俺はそっとテーブルの上に鍵を置いた。
「ご苦労」
そう言いながら、彼は笑みを浮かべた。ふと、グラスを鍵の横に置くと、彼はフラリと立ち上がった。
「どうせ用事もないだろう、少しゆっくりしていけ」
座るようにと手振りで示すと、彼は奥に引っ込んだ。陶器が触れ合う音がする。まもなく、彼が香り高い紅茶と皿に盛った菓子をトレイに載せて、戻ってきた。
「明日だな」
「はい」
そう言いながら、彼は俺の目の前に置かれたティーカップに、紅茶を注いだ。だが、仮にも奴隷として、主人にそこまでさせるのは、やはりまずい気がする。だが、俺が遠慮するような仕草を見せると、ミルークは皮肉げに言った。
「そのわざとらしい様子を見るのも、今日が最後か」
「わざとらしい、ですか?」
「その敬語もな」
紅茶を注ぎ終えると、彼はふんぞり返って、ソファにドンと背中をつけた。そして悠然と足を組む。
「三年半、か」
「そうですね、随分、お世話になりました」
「お世話になった、か。明日、売り飛ばされる子供の台詞ではないぞ?」
これはまた心外な。
「本気でそう思っていますよ?」
実際のところ、お世話になったのには違いがない。いくら俺にピアシング・ハンドの能力があったにせよ、あの状況では、ミルークの助けが必要だった。もし彼がいなければ、俺は意識を取り戻す前に、また村外れにでも捨てられていただろう。そしてこの力は、周囲に誰かがいてこそ成立するものだ。しかも、どんな働きをするか、あの時点では把握できていなかった。
あの時点で生き延びるとすれば……安定した生活を営んでいる誰かの人生を、丸ごと横取りする以外に、道はなかった。無論、それすら簡単ではない。記憶は受け継げないからだ。
「ふん」
グラスを手に、ミルークはまた一口飲んだ。
「いい加減、少しは教えて欲しいものだな」
「何をです?」
「勿体をつけるな。お前が誰か、だ」
そう問い詰めながらも、彼の顔には、悪戯に耽っているような笑みが浮かんでいる。
「だから、それは……リンガ村のファルスですよ。今は奴隷のノールですけど」
「ふっ……はっはっは!」
不意にミルークが声をあげて笑い出した。
「リンガ村? 本当か? それは?」
本当、と言われても。当時の俺のフォレス語の能力なんて、たかが知れている。二歳児の、それもどちらかというと、言葉を覚えるのが遅いくらいの状態だったのだから、情報の正確性なんか保証できない。
「僕が、その頃、聞いた限りでは、ですけど。村の名前、間違えてます?」
「ふっ、ふっははは!」
また笑っている。
ミルーク、実は笑い上戸だったのか。
「間違えてはいないな。確かにそういう名前の村なら、あった」
「だったらおかしくないでしょう?」
すると彼は、声をたてて笑うのはやめた。表情はまだ、にやついているが。
「……どうやって逃げてきたんだ?」
「え?」
「リンガ村から、どうやって逃げ延びたんだと訊いている」
核心を突く質問だ。
と同時に、やはりミルークは何かを知っているのか。逃げ延びた、という言葉を使う辺り、そうに違いない。
ピアシング・ハンドの能力がなければ、あの虐殺の夜を生き延びることはできなかった。もちろん、それを説明してしまうわけにはいかない。だが、どう切り抜ければいいのか。
「えっと、たぶんですね」
「うん、たぶん?」
「川に捨てられたとか、そんなところでは」
「ほう」
「いや、なんとなくなんですけど、リンガ村、あの頃は食べ物がなかったみたいで、僕みたいな子供は、口減らしに捨てられたんじゃないかと……」
辻褄は合うはずだ。俺はシュガ村のティック兄妹に拾われた。川べりに転がっていたらしい。ならば。
「咄嗟に考えたにしては、よくできた嘘だな」
「どうして嘘だってわかるんですか?」
「それはだって……そうだろう?」
ミルークの表情が、やや真剣なものになる。
「リンガ村なんて、もう存在しないんだからな」
「は?」
「村自体、破壊しつくされた。廃墟しか残っていないはずだ。村人も全員、殺された」
俺は、あっけに取られて、口をポカンと開けていた。
「お前に言ったな? リンガ村のファルスだとは名乗るな、と」
「はい」
「なぜだと思う?」
それは、俺の特例ではない。たとえばドナだ。彼女のもともとの名前はノーラだった。他にも、タマリアやデーテルにも、本名の使用は禁じていた。
「奴隷としての自覚を持たせるため、ではないんですか?」
「勿論だが、それだけではない……お前に限ってはな」
彼はグラスを置いて、向き直った。
「三年半前、私はティンティナブリアの飢饉がひどいと聞いて、買いつけに出かけた。当初の予定では、リンガ村にも立ち寄るつもりだったのだ」
ミルークの視線が、俺に突き刺さる。
「だが……ティック庄で、村人に教えられたよ。今はこれ以上の西進は危険だと」
「危険? どうしてですか?」
「一つには、飢饉の度合いがひどすぎること。貧しい村人から見れば、私のような奴隷商人は、金持ちに見えて仕方がないはずだ。それがあんな飢饉となれば……買いつけどころか、いきなり殺されてもおかしくないほどだったらしいな……どうした?」
俺は、その「危険」がどんなものか、身をもって知っている。その記憶に思い至ったのが、顔に出たのだろう。
「だが、私がリンガ村に行かなかったのには、もっと大きな理由があったんだ……なんだと思う? ノール」
「それは……えっと」
ミルークが俺の顔を覗き込むようにして、また笑みを浮かべる。そこには皮肉が張り付いていた。
「心当たりはあるんだろう?」
「あ、はい、あの、えっと……」
どうしよう、どこまで話せばいいんだろう、ええい、ままだ。
「あの頃、リンガ村はおかしかったんです」
「ふむ?」
「その……食べ物が本当になくって」
「うむ、それで?」
「……最後には、村人同士で殺し合いまで。子供を殺して食べていたところを、逃げてきたんです」
俺の言葉を聞くと、彼は笑みを消して、顔をあげた。
「そこまでだったか」
「はい」
「だが、それなら尚更だ。なぜ、食い扶持を減らそうとしなかったのだ? それこそ、奴隷商人に身売りをすればよかったのではないか」
「そうなんですが……それはわかりません。もともと、そのことで村長が領主様のところに話し合いに行ったんですが、すぐ帰ってきてしまって。それから、村は無秩序状態になりました」
俺の言葉を聞くと、ミルークは腕組みをして、考え込んだ。
「私が知っている話と、少し違うな」
「どんな話なんですか?」
俺は自然、身を乗り出していた。
「反乱だ」
「は、反乱?」
彼はソファに身をもたせかけ、顎鬚の先をしごきながら、重い口調で説明した。
「農作物の出来が悪く、決められた税を支払えなくなったリンガ村は、伯爵に税の減免を陳情した。伯爵はそれを受け入れたが、村民はその恩情に背いた。彼らは納税の意志がないことを示すために、敢えて自ら小麦に火を放ち、暴力で領主に逆らおうとした。それで伯爵はやむなく兵を派遣して、反乱を鎮圧した」
「なっ……!」
そんな馬鹿な。あの火災のせいで、リンガ村はひどいことになったんだぞ。火災そのものは事故かどうか、はっきりはしないが、少なくとも自分で放火したなんて、嘘もいいところだ。
「そんなの、でたらめです! あの時、サイロが夜中に燃えて、だから次の日に、村長は話し合いに出かけようとして、すぐ戻って……あっ」
そういうことか。
だとしたら。もしかして。
村長がすぐに戻ってきたのは……お供の男がロバを奪ったからではなくて。プノスの姿の俺を斬り殺したあいつが、既に村の近くで待ち構えていて、村長を追い払った。村に戻ってこなかった大柄の男は、逃げたのではなく、殺された?
タイミングが良すぎないか? もしそうだとすると、大事な小麦が焼けた翌日に、もうアネロスは、兵士を率いて村の出入り口に張っていたのだから。
「じゃあ……あの時の兵士は……アネロス・ククバンは……そのために」
「なに?」
はっとして、思考を打ち切る。
「今、なんと言った」
「えっ?」
「名前だ。今、アネロス・ククバンと言わなかったか?」
しまった。余計なことを言ったか。だがもう、ごまかせない。なんにせよ、どこまで喋ってよくて、ダメなのか、もう判別がつかない。
「言いました」
「なぜお前がその名前を知っている? 本人を見たのか?」
「……はい」
「なぜ、奴だとわかった?」
「えっと、それは」
「名前など、名乗ったはずはないからな」
しまった。またやった。
ピアシング・ハンドがもたらした情報を、ポロッともらすと、本当に厄介なことになる。
だが、ミルークの関心は、既に次に移っていた。
「そうか……だが、奴はそんなところに潜んでいたか」
「あの、ご存知なんですか?」
俺の質問に、ミルークは頷いた。
「勿論だ。お前のほうこそ、奴が何者かも知らないのか?」
「だって、ずっとここにいたんですよ? わかるわけないじゃないですか」
そう答えると、彼は眉を寄せた。
「変なことを言うな? それじゃまるで、名前だけ知っていて、後は何もわからないみたいじゃないか」
「そ、そうなんですよ! あとは、サハリア人だったってことくらいしか」
「ふむ」
一度頷くと、彼はもう一度グラスを手に取り、中身を一気に煽った。コトリとグラスをテーブルに戻すと、彼は続きを語った。
「奴は……サハリアでも有名でな。だが、さすがに人を殺しすぎた。わかるだろう?」
わかる。一度、殺されているから。
俺が無数の槍に貫かれているのを、笑ってみていた。殺人に対する躊躇のなさ。いや、それどころか、積極的に殺戮を楽しむ心の持ち主だということを。
「多くの人間が、報復のために奴を追っている。だが、仇討ちに成功したという話は一切ない。なぜだかわかるか?」
「見つからないからですか?」
「それもある。だが、それだけではないぞ」
ミルークは、身を乗り出して言った。
「よく生きていたな」
「はい?」
「アネロス・ククバンは、無類の剣の達人だ。『首狩り』の異名をとるほどのな。今まで、奴から逃げおおせたものなどおらん。しかも、女子供でも容赦なく殺す。それなのに、どうやってお前は逃げ延びたのだろうな?」
運が良かった。プノスの肉体が川に落ちたからだ。あれで流されていなければ、たとえ肉体を捨てたとしても、這い出てきた俺はすぐ殺されただろう。
「……また、虫にでも化けたのか?」
いつの間にか、ミルークはまた笑みを浮かべていた。
「お前は変なところだらけだ。いつもいつも、本を読むといっては部屋に閉じこもって……中で何をしていた? おかしいと思って、一度、部屋に立ち入ってみたが、誰もいなかった。廊下にも出てきていない。奴隷の腕輪も床に落ちていたな。あの時も、虫けらになっていたのか?」
うっ……!?
ヤバい。バレている。どこまで?
冷や汗が滲んでくる。
「……もしかして」
「ん?」
「僕に、木の彫り物をくれたのは、ミルークですか?」
「なんのことだ?」
あれ?
「そんなものを渡した覚えはないが?」
「えっと、窓際に置いてあったんですが」
「知らないぞ?」
ど、どうしよう? しまった。いや、落ち着け。自分で墓穴を掘ってしまった。
ということは、だ。ミルーク以外にも、俺の能力に勘付いているのがいる? やっぱりドナか?
「はっはっは!」
ミルークが大きな声で笑った。
「お前でも、慌てふためくことがあるんだな!」
「あ、ありますよ」
「はっはっは!」
おかしくてならないというように、彼は膝を叩いていた。
「まあ、いいさ。お前は、そういう人間なんだろう。いや、人間なのか?」
「人間ですよ!」
「たまに虫になる人間か!」
俺が何も言えずにいたが、彼は追撃をやめなかった。
「まだあるぞ? 言葉の覚え方があんなに遅れていたのに、どうしてあんなに計算ができたんだ? お前の親は、あれか? 言葉を教える前に、算数を教えたのか? でも、どうやって?」
そうだ。数学を教えるには、まず言葉が必要なはずだから。
「まるでお前は、子供というより外国人だな。体は子供で、言葉も不自由なのに、考え方はまるで大人。それも、この辺ではまず見かけないような発想をする。それがリンガ村なんて片田舎の出身だなどと、信じられなかったよ」
「でも、それは」
「ああ、本当だろう。じゃなきゃ、アネロス・ククバンの名前なんて、出てこないだろうしな」
満足したように、ミルークは目を瞑って、首をソファに預けた。
「だいたい、おかしいだろう? この前、ドロルを捕まえた時、私はお前に、山ほど宝石を贈ってやろうとしたのに、あっさり断ったな? あれだけあれば、自分で自分を買い戻すのは勿論、商売の元手にも困らないし、遊んで暮らすのだって難しくない。非常識だと思わなかったか?」
「だってそれは……」
「ああ、わかっている。お前は、そんなに金に汚い人間ではないからな。というより、そんな欲があんまりない。いや、金には困っていない、のか? 普通の人なら、今すぐ使い道がないにせよ、とりあえず金を確保しておこうとする。いつ手に入るかわからないからな。なのに、それをしないということは……お前は余程の金持ちか、さもなければ、今すぐ金に換えられる何かを持っている、ということだな?」
もう、何も言い返せない。
ほとんど秘密を知られたも同然だ。
だからといって、今更ミルークを消すのか? それも違和感がある。
「このことは、私の胸にしまっておく」
だが、穏やかな笑みの中で、彼はそう言ったのだ。
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