夕暮れの空を背に

 昼食を食べ終わると、みんな、日向に転がって、昼寝を始めてしまった。だが、その後は少し、様子が違った。


 最初に目が覚めたのは、俺かもしれない。周りを見渡すと、まだみんな寝ていた。どうしよう、まだ空気を読んで、一緒にいるべきかな、と思っていると、横でディーが体を起こした。

 みんなを叩き起こすのだろうか、と思いきや、彼女は辺りを見回し、寝静まっているのを確認すると、一人で歩き出してしまった。

 一人でどこへ行くんだろう? そう不思議に思っていると、後ろから草を払う音が聞こえた。場所から判断すると、ウィストだ。目で見たわけではないが、たぶん、彼は伸びをして、そのまま、また一人で歩き出していった。

 どうしたんだ? こいつら、何をしたいんだろう?

 疑問に思っていると、今度はタマリアだ。彼女も、前の二人と同じだった。一人立ち上がって、森の中へと歩いていく。

 よし、それなら、次に起きるのは俺だ。


 タマリアが歩いていった方向を追っていく。森の中の湖、さっき釣りをしていたのと反対側にある、倒木の幹の上に、彼女は腰を下ろしていた。何をするでもなく、所在なさげに青空を見上げている。

 なんとなく話しかけにくい雰囲気だった。彼女は静かな微笑を浮かべている。ということは、暗い気分ではないのだろう。だが、とても個人的な時間を過ごしているのだろうというのは、容易に想像がついた。

 そっと立ち去ろうとしたのだが、その時、足が小枝を踏みつけた。


「……誰?」


 ばっちり目が合ってしまった。


「そういうことね、なるほどなるほど」


 透明感のある笑顔を浮かべながら、彼女は俺の疑問に答えてくれた。


「ほら、一日しかないでしょ? だから、いろいろ詰め込まなきゃいけないの。やっぱり、子供らしく遊んでみたいし、おいしいご飯も食べたいし、のんびりお昼寝もしたい。でも、最後の最後には、自分の気持ちに折り合いをつけにいくのよ」


 言葉の意味を咀嚼している最中の俺に、彼女は更に説明を付け加えた。


「例えば私だって、つけられた名前はタマリアでしょ? でもきっと、売られた先では、別の名前で呼ばれるわ。もしかしたらタマリアのままかもしれないけど。でも、本当は、どちらでもない、本当の私の名前だってあったのよ。売り飛ばされるなんて、夢にも思ってなかった頃の」


 そういうことか。

 たとえこんな身の上になっても。いや、だからこそ、過去と向き合い、清算する場所が欲しくなるわけだ。故郷を懐かしみ、心の中で思い切り甘える最後の時間。それは同時に、子供らしくいられる自分との決別の一時でもある。


「帰ったら、一人になんて、なれないもんね」

「そっか……ごめん、邪魔したみたいだ」

「いいよ」


 長くなった金髪をかきあげながら、彼女は言った。


「ノールには、たくさん助けてもらったもん。ついさっきだってね」


 そういって微笑む彼女には、もう暗い影は付き纏っていなかった。時間はかかるかもしれないが、苦しみも大きいとは思うが……あとは彼女次第だろう。


「でも、せっかくひとりになれる時間だよ? ノールも、やりたいことはないの?」

「うーん……そうだね、言われてみれば。僕も散歩してくるよ」


 今日、この時間は、ものすごく貴重だ。俺にとってはそうでなくても、彼らにとっては、人生の中の大事な一場面なのだ。だから、さっさと彼女の前から立ち去ることにした。


 森の向こう側まで抜けてみた。更に小高い丘があった。その天辺まで登ってみる。丘の向こう側には、また森が広がっていて、その手前にきれいな小川が流れていた。この地域を潤すエキセー川の支流だろうか。

 思えば、あのリンガ村から抜け出した時にも、川に流されて難を逃れたのだ。少し懐かしい気分になった。村の近くの森にある女神の祠。その奥にある美しい沢は、今でも変わりないだろうか?

 俺は川べりまで下りていった。水面に顔を出している石を伝って、向こう岸に渡る。周囲を見回し、森に一歩踏み込む。木を背にして、俺は意識を集中した。ばさり、と生ぬるい布切れが顔を覆った。

 俺は翼を広げると、一気に上空へと舞い上がった。


 やはり、空を飛ぶのは気持ちがいい。高所に立つだけなら、前世でも高層建築物など、いくらでもあった。もちろん、それだけでも雄大な眺めを楽しむことはできたのだが、自由に飛びまわれるとなると、これはもうまるで話が違ってくる。

 それに、ここでなら確実に、俺は一人きりになれる。一人きりであればこそ、本音でものを考えられるのだ。


 不幸中の幸いというべきか。俺は、ついていた。

 大きな危険に見舞われたがゆえの脱出ではあったが、仮に飢饉がなく、あのままリンガ村にいたとしたらどうか。ピアシング・ハンドの能力に気付く機会はなかったかもしれない。それは別としても、あそこであのまま暮らしていたら、ろくな教育を受けられなかった。それどころではない。虐待も日常的だったし、毎日食べられる保証もなかった。

 収容所での三年半は、決して無駄ではなかった。ジュサは俺に読み書きを教えてくれたし、ミルークは商人としての基本を学ばせてくれた。贅沢はできないにせよ、健康的な食生活に恵まれたのも、よかった。

 俺自身、その境遇を生かしてきたと思う。学べるものは学ぼうとした。たとえ興味がそれほどなかったにせよ、だ。


 だが正直、俺は人生の目標を、商人としての成功になど、据えるつもりはない。俺は何にでもなれるのだ。他人が長年かけて積み上げてきた技術を、一瞬で奪い取れる。それどころか、肉体の横取りができるのだから、他人になりすますのも不可能ではない。

 俺はもうすぐ、貴族や大商人の集まるオークションに、奴隷として売られる。これは悪くない。それだけの有力者ならば、周囲に優秀な人物、高貴な身分の人間が集まるだろう。つまり、俺にとっては絶好の餌場だ。


 だが、俺の目標は、そんな小さなところにはない。ピアシング・ハンドによって莫大な富を手にしたとしても、それは一時の快楽を生み出すに過ぎない。だが、時が経てば、人は老いさらばえ、やがては死ぬのだ。

 死ぬとどうなるか。俺はそれを知っている。


 反省点も挙げるべきだろう。俺は少し、馴れ合いすぎた。前世からの悪い癖だ。最初はただ、いい子を演じることで、大人達の受けをよくしようとしただけなのに、気付くと真面目に頑張ってしまっていた。それも、商人の仕事の手伝いだけであればまだよかったが、ふと気を抜くと、うっかりとあちこちで「お人よし」な振る舞いをしてしまっていた。

 さっきのタマリアの件だってそうだ。彼女は、今でこそ、俺に感謝しているかもしれない。だが、この後どんな人生を歩むかなんて、誰にもわかりやしない。もしそれで幸せになったとして、その時、彼女が俺を覚えているかどうか。もし覚えていたって、きっとそれだけだ。何かが戻ってくるわけじゃない。

 頑張って人のために何かをしても無駄だ。無駄なんだ。それどころか、有害でさえある。前世で、散々そのことを学んだはずじゃないか。


 だから、道を逸れてはいけない。

 俺のこの世界での目標は二つ。一つは、優先順位が低いのだが……可能な限り大きな幸福感を得ること。もう一つが重要だ。不老不死を実現すること。

 どんなに大きな幸福を手にしても、死んでリセットでは意味がない。終わりではなく、リセットなのだ。ということは、今度は苦しみだけの人生が待っている可能性もある。だが、そうはさせない。無限に快楽を得続ける手段を手にして、あとは永遠の寿命を手にすれば……俺はどこまでも幸せだけを積み上げていける。

 もしかしたら、不老不死なら、既に実現しかけているのかもしれない。ピアシング・ハンドの能力さえあれば、この体が劣化しても、次の肉体に乗り換えられる。だが、俺自身の魂に刻まれた年齢が気になる。この数字に上限があるのかどうか、それはこれから調べてみなければなるまい。


 思えば、この三年間で、随分とこの能力を使いこなせるようになったものだ。今なら、この鳥の姿になっても、いきなり意識が飛んだりはしない。ちゃんと物を考えながら空を飛べる。ただ、やはり長時間は危険だろう。それでも、かなりコントロールできるようになった。この分でいけば……


 ……おや?


 さっき乗り越えてきた丘を登る少女の姿が視界に入った。その足取りに迷いはない。歩調も速い。今、こちらを向いた。確実に俺を見ている。

 俺も、見間違えたりはしない。黒髪の少女なんて、他に誰がいるというのだろう?

 このままでは、まずい。いったん、自分の肉体に戻らなくては。

 俺は、さっきの場所に急降下した。


「……ノール君?」

「まだダメだよ! ちょっと待って」


 危なかった。さっき、俺は鳥の姿のまま、水中に突っ込んだ。その後、すぐに人間に戻ったのだが、ほぼそれと同時に、ドナが陸の頂上に到達していた。水の中から顔を出すと、たった今、そこへ登り詰めた彼女と目が合った。それで俺は、慌てて森の中に引っ込んだ。彼女は、下り坂を走って降りてきたのだ。


「何してたの?」

「泳いでたんだよ、服を着るまで待って」


 裸のままでは恥ずかしい、というのは言い訳だ。一番の問題は、奴隷の腕輪が外れていることだ。樹木の陰で、こっそりつけてしまわないといけない。


「まだ、春になったばっかりでしょ? 寒いのに」

「あ……だって、収容所だと、毎日はお風呂に入れないでしょ? それにみんなと一緒にされるし。たまにはサッパリしたくなったんだよ」


 正直、水が冷たすぎて、歯がガタガタいっている。無理もない。日本でいえば、三月末か四月頃に相当する。温度計はないが、水温にして十五、六度くらいだろう。この水の冷たさだと、耳が痛くなったりもする。しっかりしろ、俺。晩秋の凍てつく川の中でも生き延びたじゃないか。だけど、濡れたまま服を着たから、なんかベトベトするし、体も冷える……


「ねえ、ノール君」

「なに?」

「さっき、大きな鳥を見なかった?」


 くそっ、やっぱり見ていたのか。


「知らないよ? 水の中に潜ったりしてたから、周りはあんまり見てない」

「そう」


 ドナはそれ以上、追及してこなかった。俺はほっと胸を撫で下ろす。


 五分後、俺とドナは、日向の斜面に横たわっていた。やっぱり、俺が寒そうにしているのがわかったのだろう。

 にしても、彼女はどうしたのだろう? 二回目に花を贈ったあの日から、やけに俺に懐いている気がする。もちろん、基本的に内気で、話も下手で、それを本人も自覚しているから……こうして自分から近寄ってきたりというのは、あまりなかったのだが。

 彼女にとって、外出許可は二回目だが、やはりこの時間が貴重なのは、他と違いないはずだ。しかも、フォレスティアの景気は回復しつつある。次のオークションでは、きっと売れていくに違いない。


「ねえ、ノール君」

「なに?」


 彼女は身を起こして、その場に座った。


「さっきの話」


 さっき?

 俺が水浴びしていた理由か?


「好きなものは何か、欲しいものは何かってお話」

「ああ」


 彼女は体を傾け、その端正な顔を、こちらに向けた。


「ありがとう」


 はて?

 俺はタマリアのために話したんだが。

 ああ、そうか。タマリアが元気になったから、俺にお礼を言うのか。


「タマリアも元気になってくれたなら、よかったよ」

「うん、でも、そうじゃないの」


 昼下がりの空を見上げながら、彼女は言った。


「私も、なりたいものがあるの」


 なるほど、夢の話か。

 ドナの人生は、ほぼ決まっている。六歳の今でさえ、たまにゾクッとするほど美しい彼女だ。この後、高値で貴族や商人に買われていく。もちろん、常識的に考えて、すぐに閨に呼び出されたりはしないだろう。ミルークから買うのだから、基本的な躾けは問題ない。ただそれでも、上層階級で通用するような作法なら、改めて仕込まれる。

 あと十年するかしないかで、彼女の主人は、やっと本懐を遂げる。つまり、熟した果実を食するのだ。その頃には、彼女は輝かんばかりの美少女に育っているはずだ。要するに彼女は、悪くすれば大商人の愛妾、うまくいけば貴族の側室になる。更に運に恵まれれば……つまり、貴族の正室が男児を生めず、彼女が先んじてしまえば、そのまま本当の意味での上流階級への仲間入りだって視野に入ってくる。

 要するに、シンデレラそのものの将来だ。まあ、主人がブタみたいな容貌の男だったら、そこは悲しくなりはするだろうが……それ以外にさしたる問題はない。二十一世紀の日本人なら、自由がないと苦情を申し立てるところだが、ここは封建制社会、身分制度が常識だ。十分な条件を与えられて生きていけるのであれば、そこに文句を差し挟むほうが非常識なのだ。


「それは、どんな?」

「……私は」


 そこで彼女は、言葉を飲み込んだ。

 まるで口にするには、勇気が必要だと言わんばかりに。


「……お嫁さんになりたいの」


 なるほど。簡単、とはいえないかもしれない。

 彼女はあくまで、愛人として、側室候補として購入される。正式な奥さんになる、というのは、なかなかハードルの高い夢だ。まあ、日陰の女では嫌だ、というのだろう。理解できなくもない。


「うん……もしかしたら、なんとかなるかもしれないね」


 正室が死ぬとかすれば。無論、それだけではダメだ。普通は後添えも、貴族や有力者の娘から選ばれてしまうから。だがその時点で、長子を産んでいれば。あんまり想像したくないが、ちょっとイメージしてしまった。先に第一子を出産したドナが、お付きの侍女に正夫人の毒殺を言いつける……

 俺の答えを聞いて、一瞬、ドナの顔は、ぱあっと輝いた。だがすぐに、その表情はしぼんでしまった。残るのは、儚げな微笑だ。


「ううん、違うの。そういうのじゃなくて」


 俺の心を読んだわけじゃないよな? ピアシング・ハンドが検知した限りでは、ドナにそんな特殊能力はない。


「私は」


 そこでドナは深呼吸した。

 そして、まっすぐ俺を見る。


「ノール君のお嫁さんになりたいの」


 えっ?

 ……なんで?

 どうしよう?


 ……いやいや、落ち着け。

 そうだ。これは、そうだ。あれに違いない。


 彼女がまだ、六歳の子供だというのを忘れていた。そして、その時間の大半を、収容所の中で過ごしてきた。その中でカッコよく見えたのは誰だ? ミルークは別として、同年代の子供の中では、まず俺だろう。なにせ、奴隷の立場にもかかわらず、主人から執務室の鍵を与えられるほどだ。子供達相手に授業もしてきた。いうなれば、ぶっちぎりのエリートだ。

 なるほど、確かに俺がドナでも、あの収容所の中から夫を選べといわれたら、俺にするだろう。でもそれは、狭い世界しか知らないから出てくる考えだ。


「ドナ。僕も売られるんだよ?」


 だから、ここは心に何かクッションでも挟んでもらって、そっと現実にお帰りいただくのがいい。

 もちろん、俺だって美少女が欲しくないわけじゃない。だけど、美女なんてものは、無限の寿命を手にすれば、きっと食い飽きるほど見つけられるだろう。こだわる理由なんてない。それより、お荷物を後々まで抱え込むほうが、ずっと厄介だ。忘れるな、俺は「お人よし」なんだ。だから。


「うん。わかってる」

「それでね、今のドナから見たら、僕は少しだけ、頭がよさそうに見えるかもしれないね。でも、ドナが買われていく先にはね、きっと大商人や貴族がいるんだ」

「そうね」

「当然、貴族には貴族の息子がいる。僕と違って、ちゃんとした教育を受けているから頭もいいし、剣術だって習うから、体も鍛えてる。礼儀作法からオシャレまで、何もかも行き届いた貴公子だ」

「うん」


 意外なほど、ドナは俺の言葉を素直に聞いている。いや、理解できているのか? ちょっと不安になってきた。


「でもね、ドナは僕よりずっと見た目もいいし、性格も素直だからね。貴族の息子も、一目で気に入るかもしれない。ううん、きっと夢中になるよ」

「……そうかな?」

「そうだよ。絶対そうなる。それは自信を持っていえる」


 そうそう。

 目の前の少年奴隷に熱を上げてたことなんて、すぐ忘れる。

 女なんて、そんなものだ。前世の経験が、そうだと言っている。


「でも、私はノールがいいの」


 ……あれ?

 さっきの訂正。素直といったのは、間違いだったかもしれない。そうだった。ドナは大抵素直だけど、なぜかたまに、恐ろしく頑固になる。


「えっと? あの? でも、僕、奴隷だよ?」

「うん」

「解放されないと、主人の決めた相手以外とは、結婚できないんだよ?」

「うん」

「そもそも、別々の主人に買われたら、遠くに行くだろうから、顔を見ることもできなくなるんだよ?」

「うん」


 本当にわかってるんだろうか?


「だったら、無理だと思わない?」

「それでも、私はノールに決めたの」


 これは、えらいことになった。

 これ、買われた先で、主人に向かってそんな言葉を吐いたら……ミルークの立場がなくなりそうだ。


「さっき、ノールは言ったよね。好きなものは何か、なりたいものは何かって」

「う、うん、言ったけど」

「私、何ヶ月もずっと考えてたの。でも、さっき、はっきりわかった」


 なんてこった。

 お人よしのせいで、湿気ったタマリアを火にかけたつもりが、別の火薬にまで飛び火してしまったのか。

 これだから俺はダメなんだ。

 いや、諦めるな。こうなったら、徹底的に論破だ。


「……ドナは、どうして僕が気に入ったの?」


 頭がいいところ、とか、顔立ちがきれいだから、とか言ったら、全部叩き潰してやろう。前世の頃から、自分をけなすのは十八番だったんだ。大人気ないが、大人の論理的思考力で、ドナの夢を木っ端微塵にしてやろう。


「頭がいいところとか……」

「うん」


 うんうん。


「顔もきれいなところとか……」

「うん」


 よしよし、作戦通りだ。


「そういうの、本当は全部、どうでもいい」


 あれぇ?

 裏をかかれた?


「ノールにはね」


 彼女はまた、頭上に広がる青空を仰ぎ見た。


「なんだろう……よくわからないけど、すごく大きな、何かがある気がするの」


 大きな何か? まさか、やっぱり鳥になったところを、バッチリ見られていたのか? 特殊能力を持っているとわかっているのか?


「たぶん、優しさみたいなものが」


 いきなり何を言い出すかと思えば。優しさ? 俺に? ばかばかしい。間の抜けたお人よしではあるが、それだけだ。

 本当に俺が優しい人間なら、これから売られていく少女を、そのまま見殺しになんかしない。俺がその気になれば、ドナ一人を逃がしてやるくらいは簡単だ。ついでに、誰か金持ちの肉体でも乗っ取るとかして、その財産を使って、贅沢な暮らしをさせてやるのだって余裕なのだ。

 だが、それはしない。できないのではない。したくないのでもない。しないと決めた。俺は、俺のために、俺のためだけに生きるのだと決めた。大事な俺自身を切り売りして、誰か他人に媚びて、代償に愛情を施してもらおうなどとは考えない。決めたのだ。

 収容所にいる間に、少しは優しくしてやった。それだけだ。充分だろう? 薄っぺらい善意など、人はすぐ忘れる。どうせドナも、大商人や貴族の家で大事にされれば、すぐにそちらに靡くだろう。俺達はすれ違っただけだ。

 俺は身を起こしながら、なるべく軽い声色で言った。


「ある気がするだけでしょ」

「ううん、あるの」

「僕にはそんなものは」

「ある」


 いつの間にか、彼女は、こちらに振り向いていた。顔が近い。


「ノール」


 強い意志を宿した彼女の瞳に引き寄せられていた。それで気付くのが遅れた。

 唇に触れる感触。何をされたのかと思ったが、すぐにわかった。


「私、絶対に諦めない。私がノールを守るの」


 ……今、なんて言った?

 ドナが、俺を守る?


「絶対にノールの傍で生きるの」


 そう言い切ると、彼女は勢いよく立ち上がった。


「行こ。もう、遅くなっちゃうから」


 俺は唖然として、ただ言われるがままに、立ち上がるしかなかった。


 馬車の前に帰りつく頃には、空は紅色に染まりつつあった。

 結局、昼寝した場所に最後まで残っていたのは、コヴォルだけだった。どうやら、あんまり気持ちよくて、熟睡してしまったらしい。ウィストが頭を蹴飛ばして、やっと起きた。

 ジュサは、全員いるのを確認した。確認が終わると、落ち着きなく周囲を見回した。その表情は、強張った笑みだった。


「よし、全員いるな! それじゃあ……帰るぞ! ちゃんと馬車に乗れよ?」


 実に言いにくそうだった。

 今日という日が、子供達にとってどれほど大切なのか、わかっているからだ。一分でも、一秒でも、少しでもこの場にいる時間を延ばしてやりたい。そう思いながら、あえて帰還を命じなければいけない。

 ……ほら、ドナ、よく見ろ。優しい男っていうのは、ジュサみたいなのを言うんだ。


 みんな、言われるがままに、馬車に乗り込む。今までの時間は、覚悟を決めるためにあった。それだけに、子供達のほうが、あっさりしていた。あくまでも表面上は、だが。

 俺は、最後に後ろを振り返った。


 西のほうに、赤い太陽が沈みつつある。手前にある丘は、その輪郭を風になびく草に覆われて、赤と緑の混じった、濁った色に染まりつつあった。その向こうの森の木々は、もうとっくに真っ黒になっていた。木々の合間に見える湖の水面は、昼間の優しげな様子とは打って変わって、ひどく冷たい藍色を宿していた。

 あっという間のような、それでいてものすごく長かったような、そんな一日だった。


 決別の日。あと、一ヶ月もしないうちに、三年半も過ごしたこの場所から、俺はどこか遠くへ行く。誰が俺を選ぶかもわからない。今更になって、実感が不安と共に、胸にしみこんでくる。

 猶予期間は終わりだ。つまるところ、俺も、他の子供達と同じなのだ。

 俺は視線を切って、前を向いた。灰色と藍色の交じり合った空の下に、くすんだ色の馬車がぽつんと佇んでいた。目指すところへ向かって、今こそ歩き出さなければならない。

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