可憐な花々とおいしいケーキ
「わぁ……」
花畑の真ん中で、俺達は車座になった。申し合わせたわけでもないのに、同じタイミングで紙箱を開ける。途端にいい香りが漂ってきた。
さすがは貴族向けの超高級店。ごく簡単なお弁当とはいえ、なかなかしっかりしている。
まずは細長いパンが二つ。一つは固めで、色とりどりの野菜の上に、極上の肉をローストしたものが挟まっていた。もう一つは柔らかく、周辺各国から取り寄せた様々な果物が、生クリームと一緒に包まれていた。いずれも薄い紙で仕切ってあるので、形が崩れたりはしていない。
それだけではない。箱の隅のほうに、太い円筒形の陶器がある。これは、ダンボールのような分厚い紙に周囲を包まれていて、パンと接触することはない。触れてみると、なんと冷たい。木の蓋を開けてみると、氷の入った紅茶だった。この世界の文明レベルを考えるに、これはかなりの贅沢だ。氷の魔法を使える人に頼むか、高地から氷を削って運んでくるかしなければ、手に入るものではない。
だが、ダングの店の真髄は、これだ。
「これが……あの! チョコレートケーキ! ……なのです!」
この世界にも、カカオに相当する植物があるらしい。ただ、言うまでもなく、フォレスティアには自生していない。サハリアより更に南にある大陸、シュライ人の領域の一部地域でだけ、栽培されている。当然ながら、材料価格だけでもかなりのものになる。前世の日本と違い、チョコレートは相当な貴重品なのだ。
そしてダングの店はパン屋ではない。ケーキ屋だ。パティシエなのだ。その技術の粋が、この一切れのチョコケーキの中に詰まっている。
前世、料理人としての経験がある俺から見て、どうか? まだ食べてみなければ何ともいえないが、現代日本でも一流といえる水準にあるのは、間違いないとみている。
「どっ、どうしよう……ねぇ? これ、食べるの?」
「どれから食うんだ? これ?」
「普通に考えりゃ、肉のってる奴からだろ?」
「どうかなぁ? 案外、甘いほうから食べたほうが、最後のケーキがおいしく感じるかもです」
みんな、興奮を隠せないでいる。まぁ、無理もない。カカオはおろか、砂糖だってろくに口にしたことがない子供達だ。落ち着けというほうが無理なのだ。
だが、前世で散々……悲しいことに、大人になってからだが……甘いものを食べた経験のある俺からすれば、そこまで騒ぐほどのことでもない。だから、久しぶりに子供らしくはしゃぐ彼らの姿を見て、微笑むくらいの余裕はあるのだ。
だが、みんなの顔を見回すうちに、俺の視線は固定された。
「……タマリア?」
彼女は、何ともいえない顔をしていた。口元は微笑んでいる。だが、眉は下がっている。目元に不自然に力がこもっている。そんな顔つきのまま、固まっていたのだ。
「あっ」
俺の声に気付き、慌てて表情を取り繕う。
「あ、なに?」
「どうしたの?」
「え、あ、うん、おいしそうだなって」
だが、やけに力のない声色に、俺は気付いてしまう。いや、他の四人も。いつしか、さっきまでの浮ついた空気は、雲散霧消していた。
「ど、どうしたの? みんな。さ、食べようよ」
タマリアの乾いた声が聞こえる。だが、表情に残る翳りは消えていない。だから、誰も動き出さなかった。
それで彼女は、率先して食べようと、パンに手を伸ばす。だが、それを持ち上げようとして……震えた指が、取り落とした。
「ごめん……」
いつしか、俯いた彼女から、涙声がこぼれでた。
「楽しい雰囲気、ぶち壊しちゃったね……」
誰も何も言い出せなかった。それはそうだ。自分より大事にしてきた肉親を失ったその悲しみ、これを誰に理解できるというのか?
きっとタマリアは、こう考えたのだろう。こんなにおいしいものを食べられるなんて幸せ。でも、これをデーテルが食べられたら、もっとよかったのに。どうして私がここにいて、デーテルがもういなくなってしまったのか。
だが、これはよくない。彼女は今後、幸せを見つけるたびに、罪悪感に引き戻される。不幸な人生しか歩めなくなるだろう。
「ごめん」
目に涙を浮かべたまま、タマリアは顔をあげた。その顔は、不器用に微笑んでいる。
「私、ちょっと散歩してくるから、みんなは気にしないで」
そういって立ち上がろうとした。
ミルークはどうしてタマリアを同行させたのだろうか? そしてよりによってどうしてこんな贅沢をさせてやったのか? 罪滅ぼしか? 違う。こんなもので、自分の失敗を埋め合わせられるなんて、彼はそんな甘ったれた考えはしない。
これはきっと、彼なりのお願いだ。できるなら、タマリアに前を向かせて欲しい。失った誰かの幸せではなく、これからは、難しいとしても、自分の幸せを探して欲しい。
そして、そんな願いを意識的に汲み取れる人間は、きっと俺しかいない。……もうあと一ヶ月もすれば、二度と会うことはなくなるのだから、別にほったらかしにしてもいいのだが……やっぱり俺は、お人よしだ。
「タマリア」
俺が声をかけると、彼女は、ビクッとして、立ち止まった。
「座るんだ」
俺が静かに、しかし強い口調で言うと、彼女は無言で従った。他の四人は、心配そうに目を見開いている。
「なぁに?」
消えかけた笑みを、無理やり作りながら、彼女は俺に尋ねた。何の用があるのかと。
俺は何を話せばいいのだろうか?
悲しんでても、何も変わらないよ。幸せにならなきゃ。
人生、いいことも悪いこともある。だからきっと、いつかいいことがあるよ。
俺達が傍にいるからさ。
全部、クソ食らえだ。
押し付けがましいのに、無責任なのに……特に最後のなんて、本当に無意味だ。俺達は奴隷で、もうすぐあちこちバラバラに売り飛ばされる身の上だ。心の中で思ってる? それが何の足しになるんだ。
タマリアは、我慢して、笑みを浮かべて、頷くだろう。この場も収まるだろう。でも、断言できるが、そんな言葉で救われる人間なんて、どこにもいやしない。どこにもだ。
こういう言葉は、その場の嫌な雰囲気をごまかしたいだけの、本気で相手の気持ちを汲んでやる気のない、薄情な他人の使う台詞でしかない。
だいたい、そうだろう? 元気が「ない」人に向かって、みんなよく元気を「出せ」と声をかける。いったい何事だ。俺には、やせ我慢をしろと言っているようにしか聞こえない。
悲しみを癒せるものがあるとすれば、まず時間だ。でもそれはもう、充分費やしたはずだ。
だからたぶん、今、大切なのは……後押しじゃない。支えですらない。気付きなんだ。
「……そういえば、タマリアってさ、好きな色は何?」
「えっ」
予想もしない問いかけに、彼女は戸惑った。ドナやディーも、ウィストですら、目を丸くしている。
「えーっと」
「たとえば、この花とか?」
俺は、手近なところで咲いている、桃色の花を摘んでみる。
タマリアの反応が薄いので、今度は白い花を。
一輪ずつ見せながら、今度は、青紫色の花。
「わからない? 自分の好きな色だよ?」
「えっ? あ……ちょっと待って」
彼女は意識を切り替えて、じっと小さく可憐な花々を見つめた。
「これ……かな」
タマリアが選び取ったのは、黄色い花だった。
「そうだね。タマリアにぴったりだ」
俺がそういうと、タマリアは疑問を抱えたまま、また不自然な笑みを浮かべた。まだぎこちなさはある。だが、意識の奥深くに小さな気付きが芽吹いたのではないか。そう期待するしかない。
「タマリアはさ、将来、そうだなぁ、十年後くらいにお金持ちになったら、何をしたい?」
「お、お金持ち? ちょっと、ノール? 私がお金持ちになんて」
なれるわけがない、か。思考停止はよくないな。
こういう時には、頼れる男に助けてもらおう。
「コヴォル。君ならどうする? 十年後に、金貨百万枚あったら」
「え、お、俺かよ? う、うーん」
単純で素朴な彼は、すぐに真面目に考え始めた。これがウィストだと、かえってダメだ。さっきまでの微妙な空気を思い出して、逆に俺に問い返すだろう。これは何のための質問だ、と。そうなったら台無しだ。
「そうだな。まずは、金属の鎧を買う! 全部鉄の塊でできた奴! それと、盾と剣だな! 馬も欲しい! それで騎士になる!」
すかさずディーが突っ込みをいれた。
「……コヴォルはお馬鹿なのです」
「なんでだよ!」
「お金を払って騎士になるつもりなのですか?」
「う……」
確かに、金で騎士の身分を買えなくもないだろうが……それはきっと、ものすごくカッコ悪い。
痛いところを突かれて、コヴォルは声を荒げた。
「そ、それは! 俺が自分で手柄をたてるんだ! じゃ、じゃあ、あまった金で、城を建てる!」
「金貨百万枚じゃ、さすがに城までは無理だろ……」
ウィストが呆れたように言う。
どだい、コヴォルの頭では、大金の使い道など、論理的に組み立てられようはずもない。
「うるさい! とにかく俺は、立派な城を持って、騎士になって、手柄をたてるんだ!」
いろいろと順序が支離滅裂だ。だが、素晴らしい。
好きなものはなに、と尋ねられて、それにまっすぐ答えを返せる。これは一つの智慧なのだ。そしてなぜか、小賢しい人間には、なかなかそれができない。
俺は笑みを浮かべながら、タマリアにもう一度尋ねた。
「で、タマリアは?」
「えっ……」
しばらく悩んで、彼女は言い訳をした。
「そんなの、わかんないよ。大金なんて、持ったこともないし」
「じゃあ、お金でなくてもいい。なんでもタマリアの願いが叶うなら、何が欲しい?」
タマリアの固い笑みが、すっと消えた。と同時に、場の空気もさっと冷えた。さあ、くるぞ。
「……デーテルを、生き返らせて欲しい」
そして、俺はあえて即座に言い切る。
「それは駄目だ」
「どうして! なんでもって言ったじゃない!」
「それはタマリアの願いじゃない、だから駄目だ」
彼女は言い返そうとして、喉を詰まらせた。自分の願いじゃない、という言葉。それがどういう意味か、図りかねたのだろう。
俺の苛烈なもの言いに、ウィストがやや、非難を込めた視線を向けてきている。俺はウィンクをして、なんとか我慢してもらった。
「じゃ、じゃあ……他に、なにが、あるっていうのよ……?」
「それを聞きたいんだ」
「そんなのないわよ」
「ある」
「ない」
「絶対にある」
俺の揺らがない姿勢に、彼女はまたも言葉を失った。
「少しだけ、話は聞いた。ミルークが言ってたよ。デーテルを買い取るつもりはなかったって。でも、どうしても親がデーテルを手放そうとするから、タマリアが庇うから、二人一緒に引き取ったんだって。その時からでしょ? デーテルの幸せが、タマリアの夢になったのは」
目に涙を滲ませながら、彼女は頷く。
もう少しだから、頑張ってくれ。
「じゃあ、その前は、どんな夢があったの?」
「その……前……」
彼女の目は、何もない一点を見つめていた。きっとそこには、遠い昔の風景が映っているのだろう。
「でも、そんなの、たいした夢なんてなかったよ? 普通に、貴公子に見初めてもらって、結婚するみたいな、そんな御伽噺みたいなものしか」
「それでいいんだ。どうしてそんな夢をみたのか。本当は何が欲しかったのか。それを考えてみるんだ」
「バカなこと言わないで。知ってるでしょ? 私、もうすぐ売春婦になるのよ? 脱走でもしろって言うの? でも、それでどうやって生きていくの? どうせどこかで野垂れ死ぬか、そうじゃなきゃ、やっぱり体を売るだけじゃない」
「知ってる。それでもなんだ。それでも、夢は叶うかもしれない」
まだ、彼女は怪訝そうな顔をしている。
彼女も知っているはずだ。有名な娼婦の中には、貴族に見初められて、玉の輿に乗ったのが、何人もいることを。
もっとも、彼女の夢というのは、そういう金目当てのお話ではないだろう。であれば、なおのこと。身分や財産でなく、気持ち一つで叶う夢なのであれば。
「タマリア、ここが分かれ道だ」
俺はしっかりした声で言い切る。だが、内心では不安だらけだった。
心の傷も、体の傷とそっくりだ。手当てをするには水で洗い流して、傷口を剥き出しにしなければ始まらない。けれども、それでますます彼女に痛い思いをさせるとすれば。
「デーテルはもう、いない。タマリアが何をしても、笑いもしない。悲しみもしない。だけど、タマリアは生きてるんだ。周りを見て。お花畑もあれば、海もある。森も、湖もある。こんなにおいしそうなケーキもある。なのにタマリアは、足元しか見てないんだ」
俺は、彼女の表情を見て、少しだけ安心した。しっかり目を見開いて、こちらを見ている。タマリアは強い。こんなに嫌な話を、受け入れようとしている。俺だったらできるかどうか……自信がない。
「何を見ても灰色、何を食べても味がしない、自分で全部同じにしてるんだから。それじゃ、こんなケーキ、食べても仕方がない。けどそれじゃあ、生きてることになんてならない」
「……うん」
「だけど、一歩踏み出せば、ちゃんと違う景色が見えてくるんだ。僕は元気になれ、なんて、そんな偉そうなことは言えない。だから、お願いだ。幸せを思い出して欲しい」
しばらくの沈黙。その後に、彼女は、弱々しく尋ねてきた。
「……頑張れば幸せになれる、って言いたいの?」
その問いは、彼女の内心の一番のブレーキを、オブラートに包んでいる。
「なれるかどうかじゃない。そんなこと、誰も約束できない。ただ、タマリアが、どうしたいかなんだ。だけど、そうしたい、と思ったことの中に、やっちゃいけないことなんて、ないんだ」
俺は、真剣に彼女の瞳を覗き込んで、言った。
「自分の心の中にある、小さな火を消してはいけない。ちゃんと気付いてあげて欲しい……その手元の黄色い花が、手がかりだ」
これで、言うことは言い切った。他のみんな、ごめん。説教が長すぎたかもしれない。そもそも、俺自身にもできそうにないことを、偉そうに言った。
タマリアは、しばらくじっと目を見開いたまま、表情を変えなかった。手にした黄色い花に視線を向け、それをそっと横に置く。だが、おもむろに紙箱の中の木のナイフを取り出すと……それを、チョコケーキの上に振り下ろした。
……俺のチョコケーキに。
「あっ」
止める間もなく、木のフォークが、切り分けられた左半分に襲い掛かる。それはそのまま、大きく開かれたタマリアの口に収まった。
「あああ」
みんな口を開けたまま、咀嚼するタマリアの顔を見つめている。
ゆっくり噛んで飲み込んだ後、彼女の目から、一滴の涙がこぼれた。だが、さっと手で拭うと、彼女は明るい声で言った。
「これ、すっごくうまいよ!」
みんなの顔に笑顔が戻った。ようやく暗い空気が消えてくれたか、というような、薄情なそれではない。いつもどこか悲しみに引きずられたタマリアが、少しでも明るくなってくれたのだ。これで立ち直ってくれるんじゃないか。今の彼女の表情は、そう思える笑顔だった。だから、心底嬉しいのだろう。
ふと、隣を見るとタマリアが、してやったりという顔でニタリと笑っていた。
……なんてことだ。
前世以来の、せっかくのチョコケーキを。
この世界来てから、リンガ村で俺が何食ってたか、お前、知ってるのか? 茶色は茶色でも、ゴキブリスープだぞ? 久しぶりのご馳走だったのに、それを。
それ見たことか。頑張って人の役にたっても、くたびれもうけの骨折り損なんだよ。
ともあれ、楽しい雰囲気の中、昼食を味わうことができた。
ちなみにケーキの残り半分は、やっぱり絶品だった。
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