みんなでピクニック

 優しい風が頬を撫でる。湿り気と温もりのある空気だ。草原の向こうに視線を向けると、遠くのほうから順に、丈の低い草がこちらに向かって腰を折り曲げていくのが見える。それが足元に達すると同時に、乱暴な春風の一吹きを浴びた。

 空には、白い雲がポツポツと浮かんでいる。だが、抜けるような青空だ。遮るもののない場所で見上げると、空は本当に大きい。


 今日は緑玉の月の二十日。俺にとっては、初めての外出許可だ。思えば、二歳の頃に収容所に引き取られてから、四年間も閉じ込められていたのだ。もちろん、鳥に変身して外を飛び回ったりはしたが、地面に足をつけて、こうして自由に歩くのは、本当に久しぶりのことだ。

 前回が街の中での自由行動だったから、今回はピクニックとなった。収容所から少し離れたところに、きれいな場所がいくつもある。ここもその一つで、海の近くの高台になっている。丘の上は草原だ。野の花々が、小さく可憐に、しかし色とりどりに咲き乱れている。揺れる海面の照り返しも美しいが、海に背を向けると森があり、その向こうにはちょっとした湖もある。

 実はこの場所、前々から知ってはいる。鳥になって散歩していた時、何度か立ち寄っているからだ。そのせいもあって、ちょっとだけ感動が目減りしているかもしれない。


「よーし、お前ら! 昼までは自由行動だからな! 俺はここにいる! 何かあったら呼べよ!」


 今回の引率も、ジュサが務めている。顔だけ見れば恐ろしげな彼だが、実は意外に優しい人だというのは、子供達もみんなわかっていて、だからミルークも、こういう仕事を割り当てる。


「おっしゃあ! 行こうぜ! ほら!」


 どこに、と尋ねるまでもない。コヴォルは本当にわかりやすい。彼の手には、数本もの釣竿が握られている。


「まだ懲りてねぇのかよ?」


 ウィストが皮肉っぽい笑みを浮かべる。前々回のピクニックで、コヴォルはウィストと一緒に釣りをした。どっちがたくさん釣れるか勝負しよう、という話になったが、結果は無残だった。ウィストが十尾以上の大漁だったのに、コヴォルは最後の最後で、やっと一尾、それも小さなのを釣り上げるに留まったからだ。


「ノールはどうする?」


 ウィストがそう尋ねてくるので、俺は周囲を見回した。どうしよう。離れたところには、ドナやディー、それにタマリアがいる。

 そう、今回はタマリアも参加しているのだ。近々、売春宿送りになるというのもあるが、やはりミルークが気をまわしたのだろう。いまだにタマリアの表情には、翳りがある。なんとか子供達とのふれあいの中で立ち直ってくれれば、と考えているに違いない。

 だから、その辺で気を使う必要があるだろうかと思って、少し考えた。だが、その間に、彼女らは連れ立って、お花畑のほうへと走っていった。なら、問題ない。


「じゃあ、僕も参加するよ」

「よっしゃ! じゃ、勝負だ!」


 コヴォルが嬉しそうに叫ぶ。

 まあ、確かに……俺なら、コヴォルといい勝負かもしれない。前世でも、死ぬまでの三十六年間、幾度となく釣りに挑んできたのだが、実は生涯で一尾も釣り上げたことがない。川や海ではもちろんのこと、釣堀でさえも。当然、こちらの世界でも、まだ実績はゼロだ。


 ひんやりとした湖畔、丸い大きな岩の上に、俺達三人は座った。それぞれ、遠くに釣り糸を垂らす。釣り針が水面に波紋を作り、それがいつしか消えると、辺りは静けさに包まれた。時折、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。胸がすっとするほどきれいな空気、それに足元の湖面も、やたらと透明度が高い。多分、風向きのせいもあるのだろう。これは贅沢な時間だ。


「おっ、早速、アタリだ」


 さすがはウィストだ。見た限り、やってることは俺達と何ら違わないのに、やっぱり腕前というものがあるのだろうか。浮きがピクピク動いている。彼はこなれた動きでたくみに魚を引き寄せ、ついには釣り上げてしまった。


「もう、か。すごいな」

「ついてたよ」


 ニカッと笑いながら、彼はまた、釣り針を湖に投げ込む。離れた先の水音がここまで聞こえる。傷一つないガラス窓のようだった水面に、丸い波紋ができる。それもすぐに消えた。


「……なんか……なんだろな……」


 ウィストは、胸のうちにある感情を言葉にしようとして、戸惑っていた。


「なに?」

「あー……いや、だからさ、ここ、きれいな場所だよな」

「うん」

「この前行った街はさ、こんなにきれいじゃなかったけど、代わりに面白そうなところがいっぱいあってさ」

「うん」

「俺達って、幸せなのかな? 不幸なのかな? こんなにきれいな場所で生きてるはずなのに、どうしていつもはあんなに息苦しいんだろうな?」


 七歳の子供が考えるには、あまりに哲学的な問題だ。

 だが、前世の知識がある俺なら、その問いに答えを与えてやれる。もっとも、それは彼の望む解答ではないかもしれないが。しかし、ウィストは聡い。実は倍くらいの年齢じゃないかと思うほどに。


「空、見てみなよ」

「ん?」


 言われて、ウィストも、なぜかコヴォルも空を見上げた。


「こんなに明るくて、光がいっぱいだ。でも、ほら、今度はあの、森の木々を見て」


 二人は、言われるままに、立ち並ぶ木々を見た。ここの森には、それなりに長い歴史があるのだろう。立ち並ぶ樹木の種類はほぼ均一で、背の高さもほぼ同じだ。


「青々としてるな」


 森の美しさを愛でるように、ウィストが言う。だが、俺が見て欲しいのは、そこではない。


「僕らは森を見て、気持ちのいい場所があるって思う。でも、樹木の立場からすれば、なかなか大変なんだ。みんな背が高いよね。ああしないと、他の木が上に伸びるから、日の光を浴びられなくなる。そうしたら枯れちゃうから……だからみんな、ぎりぎりのところまで背を伸ばすんだ。人間の世界も同じ」


 コヴォルはもちろん、ウィストでさえ、なにやら不思議なものを見るような目を向けてきた。まあ、そうか。こんな話、すぐに理解できるものじゃない。


「つまり……森の木々の背丈がどれも同じなのは、それ以上伸びると、何らか不利益が出てくるからなんだ。幹の強度を維持できないとか、ものすごくたくさんの栄養を必要とするとか……でも、よく考えたら、それって無駄なんだよね。みんな同じくらい背が低ければ、頑張って背を伸ばす苦労なんかしなくても、同じだけの日差しを浴びられる。つまり、その分、頑張らなくていいし、遊んでたっていい」

「お、おう」


 コヴォルが頭をひねりながら、なんとか話についていけているぞ、とアピールする。だが、この顔は間違いない、確実に半分も理解できてない。


「人間もそう。僕らはたくさんのものを持って生まれてくるけど、そのほとんどを、生きていく上での競争に使わなきゃいけない。一日中働く農民、命がけで戦う戦士、資産の多くを次の商品の仕入れに使う商人。みんなそうだよね? エスタ=フォレスティア王国の国境線も、僕らの奴隷という身分も、みんなみんな、そういう釣りあいの上で成り立っているものなんだ。でも、そこにはたくさんの無駄な苦労がある」


 一つずつ、順番に具体例を挟みながら話してはいる。だから、ちゃんと考えれば、子供でも理解できるはずだ。

 前世、大人にこういう話をしたら、ほとんどの奴は理解できなかった。なぜか? 理解する気がなかったからだ。でも、まさに自分自身を含む世界の話をしているのに、そこに興味関心をもてないなんて……俺からすれば、そいつらは夢遊病者だ。しかも、自分では正気だと固く信じきっている。

 えてして、変な先入観もなく、しかも生きることに真剣な子供達のほうが、こういう話にはついていけるものだ。


「僕らは幸せになりたがる。でも、僕らが得意としているのは生きることであって、幸せになることじゃないんだ。ウィストの疑問についての僕の意見としては、これが結論だよ」


 ウィストはそう言われて、深い思考の海に沈んだ。だが、少しして顔をあげると、溜息とともに感嘆の声を漏らした。


「お前、本当に、たまに誰だかわかんなくなるな? どこからそんな考え方を見つけてくるんだ?」


 彼からすれば、俺は天才にでも見えるのかもしれない。だが、俺からすれば、ウィストのほうがずっと賢い。自分はといえば、前世で長年学んだ知識があるから、こういう話ができるだけなのだ。なのに、ウィストはそれに食らいついてくる。ぶっちゃけ前世では、いい大人のくせに、資本主義経済の仕組みも、進化論の基本すらも、ろくに理解できていなかったりしたものだ。


「おっ……おい、ノール」


 コヴォルが声をあげる。湖面に視線を向けると、まさに俺の竿が揺れていた。


「おおお、かかった!? よし、釣ろう!」


 これは嬉しい。前世からの通算で、人生初の釣果だ。意識を切り替え、釣竿を構え直す。

 その時、背後からパタパタと足音が迫ってきた。


「はい、これ!」

「かぶるのです!」


 一瞬、視界がふさがれた。ガサガサする何かが、俺の頭から目までを覆ってしまったのだ。なんだろうと手で触れてみると、若干の湿り気がある。左右を見回すと、ウィストにも、コヴォルにも、花で作った輪っかがかぶせられていた。

 なるほど、少女らしい遊びだ。タマリアと一緒に、お花を摘んでいたわけだ。


「……作ってたんだ?」

「うん、あたしが教えたのよ?」


 タマリアが胸を張る。その胸、ごく僅かにだが、膨らみ始めていた。はてさて、色づきだした蕾を祝福すべきかどうか。彼女は、これから否応なしに女になっていく。そして女であるがゆえに、娼館で生きることになる。

 一見すると、彼女は元気そうだ。確かに、ここにきて、少しはリフレッシュできたのかもしれない。だが、一時的なものではダメなのだ。どうしたら彼女が幸せになれるのか?

 それは、きっと彼女自身の問題だ。弟のために、という目的意識で頑張ってきたのは、それはそれで立派だが……容赦なく言えば、それでは自分がないというのと同じだ。もうデーテルは死んでしまったのだから、自分のためにどう生きるかを、しっかり考えなければならない。


「あー……」


 ウィストが気の抜けた声を出した。ハッとして、釣竿を引き上げた。


「……餌だけ取られた」


 残念。人生初の釣果は、お預けらしい。


 それから少しの間に、ウィストは何度も竿を上げ下げした。俺とコヴォルは難しい顔をしていた。だが、帰り際にコヴォルが二尾、一気に釣り上げた。そんな俺達を、女の子達はのんびりと眺めていた。


「へぇー、意外ー」


 タマリアが、呆れたように言う。でも、誰にだって苦手分野ってものはあるんだよ。


「ノールは釣りが下手なのですね」

「ま、まぁね」


 正直、どうしてこんなに釣りが下手なのか、自分でも理由がわからない。一応、いろいろ考えているのに。

 例えば、魚にとっては、大声で喋るより、地面をドンと踏みつけるほうが、音としてはずっとよく聞こえるらしい。だから俺は、地面に衝撃を加えないよう、細心の注意を払っていた。

 それから、影。陸上にある影が水面にかかると、魚は警戒するらしい。だから、日差しの角度もずっと意識していた。

 なのに、どう見てもそんな配慮をしていないウィストのほうが、何倍も結果を出している。不可解だ。


「そろそろ、お昼の時間だよ。お魚は、ジュサさんに預けようよ」


 ドナがそう促すと、俺達も立ち上がった。


 ディーが悲鳴にも似た叫び声をあげたのは、昼食を入れた紙箱を見た時だ。紙箱には、王城をデフォルメしたようなマークがついていた。


「こ、これ! ダングのお店の! 信じられないのです!」


 驚いたのは彼女だけではない。ジュサも、中身が何なのか、知らされていなかったらしく、目を白黒させている。

 それも無理はあるまい。ダングの店とは、エスタ=フォレスティア王国で一番のケーキ屋だ。たかがケーキ屋と言うなかれ。料理人の地位が低いこの世界にあって、国王から直々に表彰され、勲章を授けられた数少ない高級菓子屋なのだ。建国から五百年、この手の名誉を与えられた店の数は、両手の指で足りてしまう。

 そして、ダングの店のケーキを手にするのも、かなり難しい。金を出せばいい、というわけではないのだ。予約はびっしりと埋まっているし、そこに少しでも余裕があれば、無数の下級貴族や大商人が群がって、注文を取り付けようとする。さすがに王家とか上級貴族ともなれば、彼ら自身で一流の料理人を抱えているので、こういった店の世話になることは少ないが……しかし、ダングの店は、格式では、それらに匹敵する。

 だから、これらのパンやケーキが今、ここにあるというのは、かなり異常な事態といえる。王都はここから北西、山脈を越えた向こう、もう少し内陸のほうにある。ダングの店も、当然王都にある。だが、王都でケーキを作って、ここまで運ぶとなると、いくらなんでも時間がかかりすぎる。この世界、前世と違って、食品に添加できる保存料などない。鉄道や飛行場もない。代わりに魔法はあるが、使用できる人間はごく僅か。ということは、店の菓子職人を最寄の都市まで呼び寄せ、そこで作らせたことになる。そんな我儘を通すには、それなりの金額と……あとは、かなりのコネが必要だったはずだ。


「い、あ、いや、これ、マジか? 俺も食ったことなんかねぇんだぞ? 見たのすら初めてだってのに! おい、金貨何枚分になるんだよ? 間違えて載っけたとか、そういうことはないよな?」


 かわいそうに、ジュサは動揺しまくっている。今から慌てたって、どうせ手遅れなのに。最寄の街まで運んだって、賞味期限切れは避けられないだろう。

 事情がわかっている俺も、内心では少し驚き呆れている。確かに俺は、ミルークに言った。


『今回、僕の無実を明らかにできたのは、ここにいるみんなのおかげです。できたら今度、好きなだけ甘いものを食べさせてやってください』


 だが、だからといって。

 きっと今頃、王都の金持ち連中の間では、ちょっとした騒ぎになっていることだろう。いったいネッキャメルの御曹司は、誰の機嫌をとるために自分達のご馳走を横取りしたのか、と。まさか、所有する少年奴隷達との約束を果たすためとは、誰も思うまい。


「どうせ、今、食べなきゃ、生ゴミになるだけですよ」


 俺がそう言うと、子供達の目に灯が点った。


「そうなのです! 食べ物は粗末にしてはいけないのです!」

「これ、騎士になったら毎日食えるのかなぁ?」

「さすがに毎日は無理だろ。せいぜい一年に一回くらいじゃないか?」

「庶民じゃあ、普通、一生、食べる機会なんてないわね……」


 ミルークの考えを知らないジュサは、冷や汗を額に浮かべつつも、覚悟を決めた。


「よ、よし! 一人一箱、だよな? 慌てるなよ? 喧嘩するなよ? 慌てて落っことすなよ? 並べ!」


 たちまち列ができた。紙箱を手にした子供は、ある者は喜びのあまり、箱を高く掲げ、またある者は、落としたりしないようにしっかりと抱え……それぞれ、思いがけない贈り物にときめいていた。


「ねぇ、どこで食べよっか?」


 喜びを隠せないドナが、そう尋ねてくる。


「お花畑にいくのです!」


 ディーが言う。みんな頷きあうと、自然と早足になって、明るく開けた場所へと駆け出していった。

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