推理の時間

「……んっ……あっ、かはっ……!」


 頭がぐわんぐわんと揺れる感じがする。口元がやけに熱い。違う。腫れあがっているのだ。何か、口の中にぬるぬるした感触がある。さっきの平手打ちで、口の中を切ってしまい、出血したのだろう。他にも、吐瀉物やらなにやらの臭いもあって、一気に気持ち悪くなる。


「あっ、おい、無理するな!」


 起き上がろうとすると、頭の上から、そう声をかけられた。

 この声は、ウィストか。周囲を見回す。辺りは真っ暗だが、北側から、微かな星の明かりが差し込んできている。ということは、いつもの自室か。但し、そこにいたのは、彼だけではなかった。


「まだ寝てろ!」


 コヴォルが、いつになく緊張した表情で、そう言う。


「大丈夫……なのです?」


 ディーも、心配そうに俺を見下ろす。

 そして、ウィストのベッドの上にしゃがみこみながら、ドナがずっとすすり泣いていた。


「あ……」


 首元にいつも吊り下げていた、執務室への鍵がない。


「ああ、鍵は……持っていったよ」


 ウィストが言いにくそうに、視線を逸らしながら教えてくれた。

 彼はわかっている。なくしたのは鍵ではなく、信用なのだと。それが俺を悲しませると思って、言いよどんだのだ。


 どうしてこうなってしまったのだろう。

 ミルークは深く傷ついたと思う。俺をただの奴隷以上の存在として、大事にしてくれていた。馬小屋で死に掛けた時には、本名で呼びかけてくれたし、今日まで執務室への出入りも自由にさせてくれていた。商売の上での重要な問題についても、いろいろと相談してくれた。そんな彼の信頼を、裏切ってしまったのだ。

 いや、俺が裏切ったわけではない。


「なぁ」


 コヴォルが顔を近づけてくる。


「本当なのか?」

「……なにが?」

「その……全部だよ!」


 全部。デーテルが死んだこと。それから、俺がタマリアに、その事実を知らせる手紙をこっそり届けたこと。無論、後者については、事実ではあり得ない。


「ノール君は、悪くない」


 ウィストのベッドにしゃがみこんだドナが、涙声で呟く。強い意志のこもった低い声に、コヴォルが一瞬、怯んだ。


「ノール君は、あんなことしない。もし、教えてくれるなら、ちゃんと話にくる。あんなふうに手紙だけ、こっそり差し入れたりなんてしない」

「わ、悪かった! そ、そうだよな」


 気圧されて、コヴォルは椅子の上で手をバタバタさせて弁解した。


「とりあえず」


 俺はふらつきながら、上半身を起こした。


「水を……口をゆすぎたい」


 月は中天にかかっている。今はもう、真夜中か。

 俺は一通りの説明をした。手紙の中身については一部を伏せたが……とにかく、デーテルを引き受けた先が、勝手に貴族に転売し、そのせいで彼が死んだこと。その事実を知った俺に、ミルークが口止めをしたこと。俺は誰にも話さなかったはずなのに、なぜか夕食後、タマリアがその事実を知っていたこと。


「本当なのか?」


 コヴォルが、そればかり繰り返す。うんざりしたのか、ウィストが割って入った。


「本当に決まってんだろ? 俺にも教えてくれなかったんだぜ?」


 さて。

 俺のほうの情報は伝えきった。だが、俺も教えて欲しいことが二つほどある。


「……タマリアは、どうなった?」


 俺に視線を向けられて、ディーは左右に目を向けたが、やがて話し始めた。


「今は、ジュサさんかジルさんが、ずっと付きっ切りで……医務室で寝てるのです。一人にすると危ないと、ミルークさんが言っていたのです」

「そうか」


 なら、ひとまずは大丈夫だろう。


 それにしても、あの明るく元気なタマリアが……ミルークの言った通りだった。彼女のそれは、いわば空元気だったのだ。

 前に二人きりになった時、売春婦になるのに抵抗はないのかと尋ねた。彼女は、貧しい村にいても悲惨なのは同じ、だからそういう人生もありだと答えた。だが、あくまでそれは頭の中の理解であり、理屈でしかない。彼女とて、普通の家庭で育ち、普通に結婚式を挙げたかったはずなのだ。たとえそれがどれほど貧しく、惨めな暮らしでしかなかったとしても。


 ましてや、彼女はルイン人だ。祖父母はアルディニア地方出身。ということは、セリパス教徒だった可能性が高い。

 一夫多妻が認められている他の地域と異なり、セリパシアでは厳格な一夫一婦制が常識だ。婚前交渉などもっての他、売春婦など最低の生き方だという価値観が行き渡っている。

 そういう道徳意識を目にして育ったタマリアが、娼婦になる自分とどう折り合いをつけるか。淫らな女になりきるしかなかったのかもしれない。


 だが、そうとわかったところで、今更何ができるのか。何も知らないまま、彼女の心に勲章を残しておいてやるのが、せめてもの情けだった。自分は売春婦になってしまったけど、弟は立派な商人になれたんだ、と。


 それにしても、だ。俺は苛立ち始めている。少々薄情かもしれないが、こんな人間関係なんて、もうたくさんだ。どうしてこうなった?

 ミルークが怒ったのも、俺を信頼していたからだし、ここにコヴォルやディー、ドナがいてくれるのも、俺をまだ信じているからだ。だが、正直、何もかもが面倒臭い。そもそも俺は何者だ? ここはどこだ?

 俺は奴隷で、ここはその収容所だ。ミルークが善意で活動しているにせよ、それは彼の中のこと。俺はやがて売り飛ばされ、その収益は彼の手元に入る。もちろん、その間は、彼の手によって子供達は丁寧に育てられる。ということは、ただのギブアンドテイクだ。

 周りの子供達も、まったく同じ条件下にあるのは変わらない。誰かは貴族の家の召使になり、また誰かは職人に、売春婦になる。だが、ここを出たら、普通はもう、互いの人生に接点などない。要するに、前世の小学校と同じだ。同窓会が成立しない分、もっと縁遠いといっても間違いないだろう。

 前世でも、縁というものは、ろくな結果を運んでこなかった。余計な荷物が増えるだけだ。俺にとっては、一番、強く結びついているはずの家族の絆こそが、何より重荷となった。

 そういう意味では、この世界では運がよかったのかもしれない。もう、俺に故郷なんかない。そしてここを出れば、また一つ、過去が消える。次のオークションで俺が売れれば、五年と経たないうちに、みんな俺を忘れる。そんな薄っぺらい縁なんかのために、今、俺は余計な気苦労を重ねている。


 どうやら少し馴れ合いすぎたようだ。ちょっと優秀だからとミルークに引き立ててもらったり、子供達の世話を任されたりしているうちに、余計な糸が体中に絡み付いてしまった。

 どうあれ、もうすぐ別れだ。その気になれば、今夜にでも、鳥になって飛んでいってもいい。わざわざ奴隷でいる必要性などない。俺がこの収容所に留まっていたのは、生きる手段がなく、言葉も不自由だったからだ。要するに、ここは単なる通過点。今となっては、とどまる意味も必要もなくなってきた。


 だが……


「それで……ドナ? 話せる?」


 俺に声をかけられて、彼女はビクッと震えた。だが、一瞬の硬直の後、すすり泣くのをパッとやめて、決然とした表情で、こちらに振り向いた。目には涙の雫が残ってはいるが。


「なあに?」

「タマリアが読んだ手紙のことだ。僕は喋ってない。手紙を投げ込んでもいない。だけど、どうしてタマリアに手紙が渡ったのか、それを知りたいんだ。彼女が自分で見つけてきたのか、それとも、誰かに貰ったのか」


 俺の質問を理解しようと、興奮の抜けない頭で考えながら、彼女は瞬きした。だが、すぐにしっかりした口調で説明してくれた。


「夕食の後、一緒に部屋に戻った時、足元に紙切れがあって。私が踏んで、いつもと違う音がしたから、気付いたの。何かの手紙みたいだったから、どうしてこんなところにあるんだろう、って言いながら、タマリアが拾って……やけにしわしわだね、とかラブレターだったらどうしよう、とか言いながら……」


 努めて冷静に話そうとはしているが、その後の出来事を思い出して、感情が高ぶってしまうのだろう。


「何も言わないで読んでいて。あとで内容を教えてもらおうって思っていたら、だんだん様子がおかしくなって。気付いたら、手紙を落としてた。フラフラになって、部屋を出て行こうとするから、私もついていったの。そしたら、急に走り出して、キッチンの包丁を取り出して、暴れだしたの。殺してやる、死んでやる、って。あとは、見たと思う」


 そう説明した彼女は、小さな白い手を固く握り締めていた。途中で泣き出したりせず、ドナはしっかりと自分の感情を抑制して、語りきった。


「よくわかった。ありがとう」


 とはいえ、これからどうしたものか。手紙を盗みだし、部屋に放り込んだ人物。最有力候補は、依然として俺だ。容疑を晴らそうにも、証拠なんかない。

 もう、いいか。こっそりここを去ってしまおう。


「みんなも、ありがとう。どうあれ、起きたことはもう、どうしようもない。みんな、部屋に帰って休んだほうがいい。もう遅いからね」

「待って」


 横槍を入れたのは、ドナだった。


「ノール君は、どうするの?」

「どうするって?」

「やってないんでしょ」

「それはそうだけど」


 明日から、ミルークに睨まれて暮らしにくくなる? 心配しなくていい。俺は鳥になれる。その気になれば、本当にミルークの私室に忍び込んで、金品を奪って逃げ出すことだってできる。それどころか、ミルークの人生自体、横取りできてしまうのだから。まぁ、それをしようとは思わないが。

 ……みんなが寝静まったら、こっそり抜け出そう。


「だったら、ちゃんとそう言わないと」

「聞いてくれないよ。さっきの、見たでしょ」

「じゃあ、そのまんまにしておくの?」

「仕方ないじゃないか」


 というか、どうでもいい。本当にいい薬になった。やっぱり、人と馴れ合うとろくなことがない。


「いや」

「いや、って」

「絶対にわかってもらわないと、いや」


 だが、ドナは黙っている気がないようだ。

 それにしても、前からそうなのだが、ドナはどうも俺の肩を持つ。普段は無口で、じっとこちらを見ているだけなのだが……さっきも、蹴飛ばされそうになった俺を庇おうとしたし、今も俺の無実を固く信じている。はてさて、俺がドナに、わかりやすい形で何かしてやった覚えは、そんなにはないのだが。


「俺もドナに賛成だな」


 ウィストが声をあげた。


「おかしいだろ? お前だって、やられっぱなしじゃ、気分悪いだろ?」

「私も、気持ち悪いのです! タマリアにもひどいことをしたのです。ほっとけないのです」


 俺をほったらかしにして、どんどん話が進んでいる。


「ちょっと待った。そんなの、どうすればいい? 証拠なんかないんだよ?」


 俺が抗議すると、ウィストは、何言ってんだ? という顔で、俺に言った。


「それはお前が考えるんだろ? 頭いいんだからさ」


 肝心なところは、結局、全部俺に丸投げか。


 さて。俺もやってない。ミルークは? やるわけがない。ジル? ジュサ? そんな真似をしでかす理由がないし、ジュサはデーテルの死も知らなかったはずだ。先生や、守衛の二人も同じ。

 となると、誰かが……誰だ?

 俺が首をひねっていると、コヴォルが口を開いた。


「お前はやってない。じゃあ、誰かがやったんだろ? 執務室に忍び込んで」


 その短絡的な考えに、ディーが突っ込む。


「コヴォルはお馬鹿なのです」

「なんでだよ!」

「執務室には鍵がかかっているのです。中に入れるのは、大人達と、ノールだけだったのです」


 その通りだ。鍵が壊されていた、とかいうなら別だが、あそこの錠前は、そんなにやわじゃない。


「鍵をかけ忘れたかもしれないだろ!?」

「いや、僕はちゃんと鍵をかけた。中に入る時にも、ちゃんと鍵を開けた覚えがある」


 ウィストが口を挟む。


「いや、わからないぞ? お前が実は、鍵をかけ忘れていて、執務室に入れるうちに忍び込んだ奴がいて、そいつが自分で鍵をかけておいたとか」

「それもないとは言えないけど……そんなはずはないんだ。それにいつも、僕が部屋を出た後、少し経ってから、ミルークは施錠の確認をする」


 当然といえば、当然だ。奴隷に鍵を預けること自体、普通ではない。ましてや、その奴隷は子供なのだ。うっかり鍵をかけ忘れる場合だってあるだろう。彼が再確認をするのは当たり前なのだ。


「つまり、僕も鍵をかけ忘れて、ミルークも確認をしなかった場合だけ、中に忍び込めるんだ……あとは、僕から鍵を盗んだ場合だけど、今回、それはない。だとすると」


 俺は考える。誰が何のために、執務室に入り込んだのか?


「そいつは何しに執務室なんかに入ったんだろう? みんな、あの部屋に入れるとして、わざわざ忍び込んでまで入りたいかな?」


 俺の質問に、みんな首を傾げている。


「つまり、さ。結果としてはこういうことになったけど、そいつが最初から、手紙の存在を知っていたはずはないんだ。僕だって読むまでは知らなかったし……もし、僕が鍵をかけ忘れていたとして、まぁ、そんなことはないと思うけど、先に部屋に入っていた誰かがいたとしたら、そいつは僕とミルークの会話を聞いていたはずなんだ。それでやっと、手紙の存在を知った……つまり、僕やタマリアのことが嫌いでも、はじめからタマリアを傷つけるために忍び込んだわけじゃない。わかる?」


 俺の長い説明に、ディーは首を傾げつつ、言った。


「ディーはぁ……あのお部屋に、入りたくなくもないのです……」

「え? なんで?」

「だって、甘いお菓子があるのです」


 そうだったか!

 確かに、普段から甘いものを食べる機会なんて、みんなには与えられていない。俺だけの特権だった。その俺だって、そういつもいつも食べていたわけじゃない。虫歯になったら、手遅れだ。なんといっても、この世界の歯磨き粉は、現代日本のそれとは比べ物にならないから。


「いや、だとしても」


 俺は頭をかきむしりながら、思考をまとめ直す。


「僕がたまたまあの時、鍵をかけ忘れたのに、どうやって気付ける? 僕が出入りするたび、そいつは執務室への入口を確認しにやってくるのか? 僕はそんなにいつも、忘れたりなんかしないぞ? ましてや、ミルークは」


 そうなのだ。執務室に入れば、甘いお菓子を手に入れることができる。これで、犯人が恒常的に執務室に立ち入る理由はできた。だが、その実現可能性が低すぎるのだ。どうやって、俺とミルークのチェックを潜り抜けてお菓子を入手し続けるのか……いや、待てよ?


『確かに、この部屋にある紅茶や菓子を食べながら仕事をしてもいいとは言ったが、少しペースが速すぎるぞ? 物惜しみするわけではないが、このままではお前が虫歯になる。歯抜けの奴隷なんか売れないから、気をつけろ』


「そうだ!」

「な、なんだよ?」


 コヴォルが俺の大声にびっくりしているが、俺はお構いなしだ。


「ミルークが言ってた。最近、お菓子の減りが早いって。でも、僕はほとんど食べてない。ミルークもだ。どうして今まで、気付かなかったんだろう?」

「それ、本当か? だとすると……」


 ウィストの視線が鋭くなる。彼は気付いたようだ。


「そういうこと。どういうやり方かはともかく……そいつは、執務室に忍び込む、独自のルートを持っているんだ」

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