奴隷商人の真実

 薄暗い執務室の中、俺は震え上がっていた。

 ついさっきまで、むしろ熱を帯びていた俺の指先は、いまや汗に冷まされ、凍りついている。背中にじとじとと張り付くシャツの感触が、たまらなく気持ち悪い。そして、俺は斜め後ろに立つ男の姿に、怯えきってしまっていた。

 人というよりは、恐ろしげな造形をしたロウ人形のようなミルークが、ようやくこちらに歩み寄ってきた。最初は静かに、一歩ごとに大股に、乱暴な歩調で。そして、俺から手紙の束をもぎ取った。


「見たのか」


 声は静かだった。

 それだけに、彼の中の激しい怒りのようなものが感じ取れる。


「……はい」


 喉の奥から、やっとのことで、か細い声を絞り出す。

 見てはいけないと知っていて見たのだ。これは懲罰は免れない。俺の手にある執務室への鍵は、あくまで仕事のため、または読書のためにと彼が貸してくれたものだ。好奇心のために勝手にここに立ち入るなど、俺が奴隷でなくても、職権濫用にあたるだろう。

 だが、彼はぎりぎりのところで、なんとか荒れ狂う感情を抑えた。


「見てしまったのなら、もう仕方がない」


 節くれだった手が、しわだらけの手紙を、もう一度握り潰す。


「私も不注意だった。他の手紙と一緒に、この机の上に置いたままにしておいたのだ。お前に見せたくないのなら、あの棚、機密書類のところに置いておくべきだった」

「いえ」


 彼は、この状況でも、俺を責めようとはしなかった。いや、そういう気持ちがあったに違いないが、それを抑制してみせた。

 だが、それに甘えきるのは、さすがに無礼に過ぎる。


「これは、僕の身勝手のせいです」


 そう言いながら、俺は手中にある鍵を差し出した。


「立場を弁えない真似をして、申し訳ありませんでした」


 だが、ミルークは首を横に振った。


「いい。それはまだ、持っておけ……それより」


 腕組みをして、彼は部屋の中を歩き始める。


「いいか、このことは、タマリアには絶対に言うな。理由は、わかるな?」

「はい」

「本当にわかっているか? いいか、お前が親切心で、本当のことを教えてやったつもりでもだな」


 ミルークが不意に足を止め、いつになく真剣な顔で振り向く。


「こんな事実を知ったら、タマリアは死んでしまうぞ」


 すっと肝が冷える気がした。

 ミルークは、俯き、低い声で語った。


「もともと、私は両方とも引き取るつもりはなかった……特に、デーテルのほうは」


 既に、外は随分と薄暗くなってきている。

 ミルークは、どこか遠くを意識しているのか、窓の外に視線を向けた。光の加減で、彼の表情は窺い知れない。


「タマリアはまだ耐えられそうだったが、デーテルは……あんな内気で、か細い子供では、奴隷という身分を生き抜くには……だから、もし買い取るなら、姉だけだと言ったのだ。それなのに、あの両親は」


 かつて、二人を買い取った時のことを思い出したのだろう。終わりのほうは、搾り出すような声になっていた。


「本気で子供を捨てにかかったんだ! どうせなら、出来のいい姉を手元に残して、先行きの暗い末の息子は捨ててしまおうと。それで、姉が弟を庇って、自分が行くと言い張ると、今度はあっさり意見を変えた! もう面倒だから、二人とも売っぱらってしまえば楽だ、とな!」


 今まで聞いたこともないほど、ミルークの声には、激しい怒りがこもっていた。彼は早口にまくしたてた。


「そうしたら、案の定だ! タマリアは、デーテルのことが心配で離れられない。オークションでも、わざとドジを踏んでみせて、売れ残ろうとする。デーテルが無事、売れてくれれば、いいところに引き取ってもらえればと、そればかり考えて……だが、あんなおとなしい、内気過ぎる子供なんて、誰が欲しがる? 私だって、買いたくなかったんだ。思った通り、オークションでデーテルを引き取る奴なんかいなかった、だから」


 いつの間にか、彼は拳を握り締めていた。肩で息をしている。その声は、ほとんど絶叫に近かった。


「だから、頭を下げて、頼み込んでヨコーナーに引き取ってもらったんだ! まるっきりタダで! 多少臆病で内気だが、悪い子供じゃない、ちゃんと仕込めば忠実な召使になれると言ってな。それをあの野郎、こともあろうに、変態貴族なんかに売り飛ばしやがって! それでヌケヌケと、次を寄越せと抜かしやがった! バカにしやがって!」


 そんな?

 では、ミルークは利益を得ていない? それどころか、完全な赤字だと?

 彼は損得より、デーテルの将来を優先した? なぜ、デーテルだけ?

 ……いや。

 もしかすると、常に彼の中では、利益を後回しにしてきたのかもしれない。


「それでいったい、誰が幸せになった? タマリアはもう、貴族の屋敷には、引き取ってもらえない。売春宿送りだ。身寄りのない少女一人、他に生きていける場所なんかない。弟のために身を張って、その結果が……」


 その大きな手で顔を覆い、壁を背にして、ミルークは床へと崩れ落ちた。その声はか細くかすれていった。


「ミルーク……さん」


 俺は、内心にわいた疑問を、おずおずと口に出した。


「あなたは、なぜ、奴隷商人になったんですか?」


 返事はない。こちらを向きもしない。


「あなたなら、タマリアも、いや、それだけじゃなくて、たくさんの子供を引き取って育てることだって……」

「それではダメだ」


 暗い声が俺の言葉を遮る。


「なぜですか?」

「訊かなければわからんのか?」


 地の底から響いてくるような、低い呻き声。

 深い恨みと、憎しみがこもっていた。


「ノール。人には、自分の力で生き抜く責任がある。それは権利でもある。たとえ、子供であっても、奴隷であってもな。これは大事なことだ。手放したら、生きる意味さえ失ってしまう。だが、馬鹿者どもには、それがわからん。もしも私が、善意で子供を引き取って育てるなどと言い出したら。控えめにいっても、そこらじゅうの貧農どもがよってたかって、子供を押し付けていくだろう。どうだ?」

「それは……」

「嘘だと思うなら、旧トック男爵領にでも行ってみろ。そこに証拠がある」


 大いにあり得ることだ。俺がいたリンガ村の連中なら、まず間違いなく、そうするだろう。

 この世界の進歩の度合いは、前世の日本には遠く及ばない。民度も低い。そして、あまりに野蛮な人々が相手では、悲しむべきことに、慈善事業など成立しない。なんとなれば、お金や食料を配る人を見ても、また実際にその恩恵に与っても、それが何のためになされたのかを理解できない。取引でなければ何か? 感謝などしないか、してもすぐ忘れる。そうして、慈善事業の意味を深く考える前に、愚民どもはあっさり別のところに視点を向ける。つまり……もらえるだけもらえばいい、隙があるなら、盗んだって構わない。


「自分の力で立てない、ひ弱な雑草ばかり、花壇に植えてどうしようというのだ。私は、憎まれねばならん。子供を手放す親は、悲しまねばならん。私の手元で育つ子供は、苦しまねばならん。その姿を見て、ようやく彼らは自力で子供を守ろうと考え直す」

「でも、だからって……」


 ミルークは、よろよろと起き上がった。


「お前は、私の収入がどれだけあるかを知っているな? だが、使い道までは知るまい。それはあの、機密書類の戸棚に記録してある。案外、私の自由になる財産など、そう多くはないのだ」


 よくわからない。わからないけど、わかった。

 ミルークは、訳ありの人だ。儲かるからではなく、それが自分の仕事と考えて、あえて奴隷商人になった。


「もう、いいだろう。部屋に帰れ。いいか、このことは決して、タマリアには知らせるな。あれには、弟がどこかで、大商人の召使になって、幸せな暮らしをしていると思わせておけ。どうせ二度と会うこともない」


 考えがまとまらない。だが、とりあえずのところ、ミルークの考えに逆らう理由が見つからなかった。

 俺は一礼し、執務室を後にした。


「……あれ? どうしたんだ? おい、ノール」


 俺が部屋に戻ると、ウィストが声をかけてきた。

 しまった、顔に出ていたか。


「何があったんだ?」

「何もないよ」

「んなわけないだろ? 教えろよ」


 彼は既に興味深々に、ベッドの上から身を乗り出している。

 この小狡い少年が、相手の隙を見逃すはずもないか。なら開き直るしかない。


「わかった。何かはあった。でも、言えない」

「なんでだよ」

「なんででも、だ。お前が、もし教えてくれなければ窓から飛び降りる、といっても、教えない。お前だけじゃない、誰がなんと言おうとだ」


 俺が断固として言い切ると、ウィストは目を丸くした。だが、徐々に後ろに身を引いていく。


「……わかったよ」

「悪い」


 謝罪を口にしながらも、俺は絶対に口を割るつもりはなかった。タマリアがどれくらいショックを受けるかはわからない。死ぬ、というのは言い過ぎではないかと思う。だが、こんな事実、教えても悲惨な結果を招くだけだ。

 そして「ここだけの秘密」だとか言って、ウィストに打ち明けてしまうのも、酷な話だ。うっかり漏らしてしまってもおかしくないし、そうでなくても、屈託なくタマリアと話せなくなるのは、間違いない。


「よっぽどのことだったんだなぁ、ミルークがキレてるのって」

「ああ……」


 俺は、全身に疲労感をおぼえて、どっかりと自分のベッドに座った。


「なぁ、ノール」

「なに?」

「寝るのはいいけど、もうじきメシだぜ?」


 騒ぎが起きたのは、夕食を済ませて、部屋で休んでいた時だった。既にとっぷりと日が暮れている。

 中庭のほうから、少女の叫び声が聞こえた。


「誰か来て!」


 あれは……ドナの声だ。

 俺も、ウィストも、ベッドから身を起こし、ドアノブを引っ張って、外へと転がり出た。


 中庭は、修羅場だった。


「やめて! お願いだから! 捨ててよ!」

「放して! どいて、放してよ!」


 タマリアとドナが取っ組み合っている。物騒なことに、タマリアは逆手に包丁を持っている。そこにドナが縋りついているのだ。


「おい」

「うん」


 俺とウィストは頷きあい、左右からタマリアに掴みかかる。いきなり刃物に手を伸ばしたりはしなかった。迂闊に近づくと、こちらが怪我をするかもしれない。だから、左右から、彼女の両腕を引っ張った。いくら彼女でも、三人分の腕力が相手では、刃物を振り回すのは無理だった。俺とウィストが手を伸ばして、彼女の指を一本ずつ引っ張ると、包丁は金属音を響かせながら、床に転がった。


「邪魔しないで! ああああ!」


 いつもの彼女からは想像もつかない狂乱振りだ。いったい、何があったのか。

 もしや、デーテルの死を知ったのか? だが、それにしては早すぎる。俺は誰にも話していないし、ミルークが言うわけもない。


「お願い、死なせて! あああ、殺してやる! 殺してやる!」


 だが、彼女の言動からして、すべてが明るみになったとしか思えない。どういうことなんだ?


 騒ぎを聞きつけて、あちこちから大人が飛び出てくる。ジュサがタマリアの後ろに回りこみ、羽交い絞めにした。これで一安心だ。

 少し遅れて、あちこちの窓から、子供達も駆け寄ってくる。そして、最後にミルークが、重い足取りでやってきた。その姿を見て、タマリアはパッとジュサの拘束を振り払い、彼を睨みつける。


「デーテルをどうしたのよ!」


 彼女の金切り声に、ミルークは答えない。その目には、諦念のようなものが浮かんでいる。


「今、どこにいるのよ! 答えなさいよ!」

「知り合いの商人のところだ」

「うそ!」


 抑揚のない声で、返事はした。だが、タマリアは、まるで信じていなかった。


「……答えて。デーテルは……生きてるの? それとも……」


 ミルークは、あくまで無表情だった。だが、タマリアは、その沈黙の中に真実を読み取った。

 咄嗟に彼女は、近くの木工場に転がっていた木の棒を拾い上げた。


「うっ……うあああああ!」


 強烈な一撃が、ミルークの額を打った。帽子が吹き飛び、木の棒は折れた。ミルークは揺らぎもしなかったが、しかし、両目の間に傷ができた。そしてそこから、ゆっくりと血が滴る。


「人殺し! 人攫い! 嘘つき!」


 タマリアは、裏返った声で喚き続ける。行き場のない怒りに足踏みしながら。


「あんたが村に来なければ! あんたさえいなければ!」


 それは違う。多分、違う。

 タマリアは、恐らくだが、ミルークが金欲しさで、デーテルを変態貴族に引き渡したのだと思っている。だが、俺はさっき、彼が真実の一部を語るのを見たのだ。ミルークにどんな過去があるかは知らないが、今の彼は、決して金の亡者なんかではない。

 推測するに、ミルークが子供を買い取るのは、そうせざるを得ない場合だけだ。俺を引き取ったのもそうだろう。いくら黒髪が珍しいからといって、いつ死んでもおかしくないほどやせ細った、意識すらない子供に、金貨五枚も払うだろうか? もし、あのまま俺が衰弱死していたり、そうでなくても何か大きな障害を抱えていたとしたら、ミルークは丸損だったはずだ。他にも、例えばドナの場合だってそうだ。実家に居場所がない事情を理解した上で、引き取ったのだろう。

 それは、タマリアの場合だって同じだったはずなのだ。だが、今の彼女には、それを思い出すこともできない。


「あたしは……じゃあ、あたしは! 何のために……」


 タマリアの膝から力が抜け、その場に跪いてしまう。そのまま、彼女はうずくまり、号泣し始めた。

 周囲の人達は、それを呆然と見ている。それもそうだ。俺とミルーク以外で、この事実を知っているものはいない。ジュサだって知らされてはいないだろう。デーテルが死んだかもしれないだなんて、初耳だ。

 だが、そこで俺の思考は途切れた。


「ノール」


 やけに静かな声色だった。ミルークは、相変わらず無表情なままだった。


「私がついさっき、なんと言ったか、もう忘れたのか」


 何を言っているのかわからない。

 いや。

 これは、もしかして。

 でも、そんなわけない。俺は誰にも言ってない。


「絶対に誰にも話すな、と言わなかったか」


 彼は、俺を疑っている。

 そんなバカな、とは思うが、彼には他に、容疑者など思い当たらない。もちろん、俺にもだ。


「誰にも言っていません」

「なら、どうしてタマリアが、このことを知っている」

「わかりません」


 正直に言うしかない。

 だが、そこへジルが走りよってきた。その手には、くしゃくしゃになった紙が握られている。


「この手紙が、タマリアとドナの部屋にあったか。なるほどな、確かにお前は、誰にも話してはいない。だが、こっそりこの手紙を抜き取って、部屋に差し入れてやったわけか。親切だな、ノール」


 バカな!

 あれはミルークが自分で機密書類の棚に納めたはずだ。俺はそこに手を触れていない。他の書類と一緒に、手違いで持ち出した可能性すらない。

 だが、俺の逡巡を、彼は誤解した。事実を知られたがゆえの戸惑いと受け取ったのだ。大股に歩き、俺の前で急に止まった。


「この大馬鹿者が!」


 怒鳴り声と同時に、俺の視界は斜めに歪んだ。平衡感覚がなくなったかと思うと、中庭の石畳が目の前に見えた。ミルークの手加減なしの平手打ちを浴びたのだと、後から理解が追いついた。


「あれほど知らせるなと!」


 鳩尾に鋭い痛みが走る。息ができない。口から、唾液と胃液、血液、それに夕食に食べたものが吹き出てくる。思いっきり腹を蹴飛ばされたのだ。


「やめてぇ!」


 少女の声が耳に突き刺さる。ドナが俺の顔の上に覆いかぶさった。


「どけ! ドナ! 邪魔だ!」


 激昂したミルークの声が響き渡る。だが、ドナは、動こうとしなかった。俺の頭をきゅっと抱きかかえ、目を瞑ってその場でガタガタと震えていた。

 だが、そんな少女の姿すら、怒り狂った彼には、目に入らないらしい。ドナごと俺を蹴り飛ばそうとした時だった。


「旦那! やめてくれ! 死んじまう!」


 視界の隅で、ジュサとジルが、ミルークを押さえ込もうとしているのが見えた。

 苦しい。鼻も喉も詰まってしまった。指一本動かせない。朦朧としてきた。

 ふと、中庭に面した二階の廊下から、見下ろす影に気付いた。そいつは、泣き伏すタマリアを見て、苦痛に悶える俺を見て、うっすらと笑みを浮かべていた。

 それ以上、何も考えることはできなかった。それきり、俺は意識を手放した。

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