情けは人のためならず

 ミルークが出発してから、三日目の昼下がり。さしたる仕事も割り当てられていない俺は、中庭の階段にしゃがみこんで、青い空を見上げていた。大きな白い雲が浮かんでいる。今日は碧玉の月の七日目だから、季節は既に初夏。日差しが眩しい。

 そろそろ能力が使用可能になる頃だ。しかし、正確な時間はわからない。この瞬間から使用可能になりましたよ、といった通知はこないのだ。だから、俺はだいたいの時刻を把握したいと考えている。どんな方法を用いればいいだろうか。やっぱり、太陽の位置を手がかりに判断すべきだろうか。

 まあ、一番確実なのは、使ってみることだ。発動させられなかったからって、何も副作用があるわけじゃない。ならば、今すぐ現場に向かってもいいはずだ。俺は立ち上がり、今は誰もいないはずの馬小屋に向かった。

 なぜ馬小屋にしたのかって? このところ二日連続でゴミ捨て場に行ったわけだし、昨日などはそこをウィカクスに狙われた。なんとなく場所を変えたくなっただけだ。


 一歩踏み込むと、やはり中は薄暗かった。馬達がいないので、今は出入り口も閉じられている。薄い木の板で隔ててあるだけだが、それでもここが閉じられた空間のように感じられる。直射日光が届かないので、空気は少し淀んでいて、ひんやりしている。それと、馬の臭いがした。涼しいのだが、なんとなく好きになれない雰囲気だ。

 こっちにも虫くらいはいるはずだ。さすがにゴキブリほどたくさんはいないだろうが……ほら、あの木の柱の陰に、飛び跳ねているのがいた。できれば、同じスキルを持ったのを二匹以上、確保したい。二日間かけて、それぞれから同じスキルを奪ってみる予定だからだ。

 できれば虫網が欲しいな……でも、自作する材料なんてもらえないだろうし、作るとなったら誰が……ああ、木工なら、ウィカクスあたりが可能なんだろうか。でも、頼んだからって、やってくれそうな気がしない。百歩譲って引き受けてもらったとしても、変な借りができそうだ。

 仕方がない。ここは自分の手で捕まえて……


「よう」


 後ろから声がかかって、俺は動きを止める。いや、慌てる必要なんてないはずだ。俺はただ、虫を捕まえようとしていただけなのだから。子供のやりそうなことじゃないか。


「あ、こんにちは」


 後ろにいたのは、そのウィカクスだった。しかも、木工作業用の道具も手にしている。よく切れそうな小刀もだ。準備がよすぎやしないか? まさか、相談する前から、俺に虫網を作ってくれるつもりになったとも思えない。その小刀で削るのは、木材か、それとも俺の肋骨か?

 ……いやいや、そういうところばっかり見てしまうのは、俺が意識しすぎているせいだ。去年、プノスに殺されかけたからって、何でも一緒に考えるのはよくない。


「きょ、今日はどうしたの?」


 それでも、俺には、ウィカクスが何か、凶悪な雰囲気を漂わせているように思えてならない。自然、声も上ずってしまう。


「どうかしてなきゃいけねぇのかよ」


 妙に低い声だった。

 彼は、出入口の扉の前に、重い荷物を下ろした。扉の前にあんな重いものを置かれたら、今の俺では、ちょっとやそっとでは押しのけることができない。

 さて、馬小屋の扉は、引いて開けるようにできている。でないと、ここの前を通り過ぎた人が、突然開くドアにぶち当たる危険があるからだ。ついでに言うと、馬小屋の上のほうには空気の通るスペースが広く取ってあるが、下のほうには、小さな隙間があるだけだ。

 ……閉じ込められた?


「お前こそ、なんでこんなところにいるんだよ」


 そう言いながら、ウィカクスはゆっくりと歩み寄ってくる。その手には、小刀が握られたままだ。

 いや、まさか。だって、ここは収容所の中だぞ? 確かに俺は出入りできないけど、叫び声くらい、外に漏れるんだぞ?


「別に」


 そう返事をするうちにも、足元の藁を踏みながら、大股に歩み寄ってくる。

 いや、いじめるならいじめるでいい。だけど、その刃物は困る。死んだらどうするんだ。


「ちょっと……止まって」


 俺がそう言っても、ウィカクスは止まらない。

 ダメだ。


「助け……わあっ!」


 俺が叫び声をあげようとした瞬間、ウィカクスは駆け足になり、そして飛び上がった。俺は咄嗟に横っ飛びに飛び跳ねて、それを避ける。まったく、どうして俺は、こうも家畜小屋と相性が悪いんだ?

 なんてことを考えている余裕もない。俺は三歳児。向こうは体のできてきた十歳児だ。パワーでもスピードでも、勝てる要素がない。まして相手は武器まで持っている。となれば、あとは頭しかない。


「なんで、こんなこと、するんですか」


 いい言葉が思いつかない。時間稼ぎでもいい。説得して、やめさせられれば、なおいい。


「うっせぇ! うっせぇうっせぇ!」


 ウィカクスは、完全に逆上していた。俺をこっそりいじめる、なんて冷静な考えはないらしい。大声で怒鳴ってしまっている。残念、説得も時間稼ぎも、難しそうだ。


「わかってんだよ! 俺だってなあ! 落ちこぼれなんだよ! 奴隷の中でもなあ!」


 彼の声に、俺は一瞬、硬直した。

 これは、俺もよく知っている感情だ。


「てめぇだって……見下してんだろ。お? 頭いいもんなぁ!」

「そんなことは」

「うるせぇってんだよ! ……畜生、ドロルの奴も、俺のことを馬鹿にしやがって……」


 彼は絶叫した。

 しばらく荒い呼吸をした後、低い、暗い感情のこもった声で呟きだした。


「昨日はな……ほっとしたんだよ。正直、ほっとしたんだよ! てめぇを蹴飛ばしたのが見つかったのに、懲罰房に入らないで済む、報告もされないで済む……! けど、あの後、どうなったと思う?」

「わ、わからないよ」

「ずーっと説教されてたんだよ……じじぃの説教ならすぐ済んだけどな……守衛の二人が」


 先生は、もののわかった大人だ。余計なことは言うまい。とすると。


「ぐっちゃぐっちゃ、ムカつくこと、言ってやがったよ。三歳のガキにも劣るクズだってな! ここじゃ、年を食うほど下なんだ、これからは、ノールにひざまずいて暮らしていけ、こんなことを言われるのは、お前が弁えてないからだ、ってよぉ!」


 ああ……

 あの二人の守衛、俺は関わりをあまり持ってない。ミルークも、大事な役目は割り振っていない。顔の怖いジュサは、あれで案外、気のいい奴だ。先生もそうだ。だが、あの守衛二人は、どこにでもいそうな用心棒だ。きっと、頭もあんまりよくない。

 たぶん、仕事の延長のつもりではあったのだろう。つまり、劣等感を刺激することで、きついお灸を据えてやったわけだ。こと、奴隷として売り飛ばされるという体験それ自体が、普通は子供の自尊心をズタズタにするものだ。であればこそ、そこに鞭打つ以上の罰ほど、効果的なものはない。だが、そこに弱者をいたぶる嗜虐の感情がなかったとは言えないはずだ。そう、普通の人間ならば、奴隷を見下すものだ。彼らが特別悪人というわけではない。ただ、賢明ではなかった。

 恥は、取り返しがつくと本人が思っている間だけ、ブレーキになる。逆に手遅れだと思わせてしまったら、それはもう、燃料にしかならない。ウィカクスは、一線を越えてしまった。


「一晩中、俺は頭を抱えてたんだ。俺は、てめぇみたいなガキにまで、頭下げなきゃ、ろくに生きてくこともできねぇのかよ?」


 彼は、自覚していた。お山の大将になって、ふんぞり返っているだけかと思っていた。甘かった。とっくに気付いていたのだ。同期がみんな売れていなくなって、取り残されて。ミルークの視線も冷たくなって。彼の尊大さは、卑屈さの裏返しでしかなかった。当たり前だ。当たり前なのに、俺はそれを深く考えていなかった。……光が当たれば当たるほど、影が濃くなることを。

 そもそも俺がここに入所して間もない時期から、いじめはあった。俺が気にしていなかっただけだ。二歳の子供に、冷たい水での食器洗いなんて、普通、させるだろうか? 思えば、あの頃から、俺はウィカクスに睨まれていたのだ。


「なあ、どう思うよ? 親からも余計なゴミ扱いされて、こんなところに売られてよ。ところが、ちょっと育ったら、顔中、すぐにそばかすだらけになっちまった。結局、収容所ん中でも、売れ残りだ。もう、どんなに頑張ったって、俺は一生、使い捨ての奴隷なんだよ。なんでこうなるんだ? どうすりゃよかったんだよ?」


 人生は理不尽だ。そして、不公平だ。しかも、たいてい一方的だ。

 だから、彼の問いに対する俺の答えは「どうしようもない」。だが、それを口にしたところで、何になるだろう? 俺はお前と変わらない、多少頭がよくても、同じ境遇なんだと言ったところで、慰めになるだろうか? 俺にはまだ、貴族の家に買われていく可能性がある。だいたい、そうでなくたって、今生の俺には、ずっと科学の進んだ前世の知識やイメージがあり、おまけに世界最強の能力までついてきている。彼への慰めは、嘘になる。

 だが……


「だからなぁ、どうなったっていいんだ……釣り合いが取れるだろ、一人殺して、俺も死ぬんだ……てめぇ、よけんなよ?」


 ウィカクスの腕が、俺を掴もうと伸ばされる。それを、一歩引いて避けた。


「よけんなっつってんだろが!」


 大声での怒鳴り声。その残響の中に、微かな足音を聞きとった。もしかしたら、あとちょっとで助けが来るのかもしれない。


「馬鹿にしやがって……っ! どいつもこいつも……!」


 彼はわかっていない。ここで俺を殺しても、何にもならない。正しく自覚できていないのだ、自分の感情を。それは嫉妬というより、甘えだ。

 だから甘えを捨てて、我慢して生きろ、などと言うつもりはない。死んでも構わない。その意味では、確かに、俺を殺したっていいだろう。ただ、彼が何をどこでどう訴えようと、世界は問いに答えを返さない。絶望するなら、くだらない八つ当たりでおしまいにするのではなく、もっとまっすぐ絶望するべきだ。あくまで俺の意見だが。

 ともあれ、そんな理屈など、今、この場では何の役にも立つまい。今はどう彼の手を逃れるか、それだけが問題だ。

 後ろに飛びのけば、少しは時間を稼げるが、もう後がない。左右に動いても、すぐ追いつかれる。今は睨みあっているが、それも時間の問題だ。いっそ、正面突破するか?

 俺は後ずさりながら、そっと腰を沈めた。膝に力を溜めつつ、両手には干し草の束を掴む。じりじりと距離を詰めてくるウィカクスをじっと見つめる。ある時点で、彼は一気に踏み出した。そこを狙って、俺は彼の顔めがけて、右手の干し草をぶつけた。

 てっきり、片手で払われるかと思っていたのだが、案に相違して、一瞬、彼の視界を奪うのに成功した。その隙に、俺は彼の横をすり抜ける……が、転倒した。左足首に、圧力を感じる。

 作戦に問題はなかったと思う。ただ単純に、肉体のスペックの差だ。三歳児の身体能力では、彼の横をすり抜けるにも、十分なスピードを稼げなかったのだ。それでこうして、彼の左手に、俺の左足首を掴まれてしまっている。

 どうする……?


「どうせ、どうせだ……俺が、やる側になれるんだ……ドロルの野郎、俺は腰抜けなんかじゃ……どうしてやろう……」


 完全に目がいっちゃっている。これが十歳児の顔だろうか?

 俺は反射的に、左手の干し草を投げつけようとして、止めた。無駄だ。

 ウィカクスはもう、しっかりと俺の上にまたがり、体重をかけてきている。今更、視界を奪った程度では、もう彼から逃れることはできない。

 となると……そろそろ使えるはずだが……切り札しかないか? だが、ここでウィカクスを消したらどうなるか。きっと大騒ぎになる。どの道、大問題になるのはもう、避けられないのだが、ここで俺が「加害者」になってしまうのはまずい。とはいえ、そうも言っていられない。


 その時、俺の視点はウィカクスの頭上に向けられた。天井に見える粒。いや、あれは……小さなカマドウマだろうか?

 どの道、俺が死ぬか、ウィカクスが死ぬかしかなかった。そこで、両方が生きられる可能性があるならば。だが、リスクが高すぎやしないか? いや、よし。俺は意識を集中し、胸の中を満たす恐怖と不快感を押し殺した。


 バタバタと足音が馬小屋近くに殺到する。入口の扉を押すが、荷物に阻まれて、なかなか開かない。とはいえ、中に大人が雪崩れ込んでくるのも、時間の問題だろう。そして、彼に思いとどまる気配はなかった。

 俺は、改めて左手の干し草を握り締めた。頭の中でルールを決める。『死にそうになったら、元に戻ること』……押し潰されたりして、それでおしまい、なんてのは避けたい。


「くそっ……! もっといたぶってやりたかったのに……しょうがねぇ、もう……」


 俺の上で、ウィカクスは両手で小刀を逆手に持って、振り上げた。


「死ね!」


 俺はその瞬間、残った干し草を叩きつけた。ひらひらと、乾いた茎が散らばる。

 そして俺は、全身で振動を感じた。石の床の上に、固いものが打ち付けられる感触。

 見上げると、ぶよぶよした大きな奴が、その固いものを持っていた。そいつは、何が起きたかわからない、といったような表情を浮かべて、その場に座り込んでいる。

 バン! と一際大きな音がした。俺は驚いて飛び跳ねる。妙に体が軽い。地面すれすれの視界が、次の瞬間には、小屋の木の壁に埋められる。

 振り返ると、たくさんの巨人達が押しかけてきていた。何事か喋っている。俺には関係ない。……いや、関係あるのか?


 あれ? 俺はいったい何をしていたんだったっけ?


 ……まあ、いいか。

 ここはほどよく涼しく、薄暗くて、俺には心地良い。

 のんびりしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る