あまり悩みのない暮らし
昼間の温かさが嘘のようだ。冷たく乾いた風が吹き抜けていく。地面近くはよくない。特に、明るいほうは。気をつけていないと、あっという間に干乾びてしまう。
もっとも大量の水分も必要ない。食べるものにも不自由しない。頭の上で、長い触角が揺れる。あちらだ。おいしそうな匂い……あちらだ。後ろ足に力を込め、跳び上がる。
降り立った先で、周囲に触れて回る。そもそも光もほとんど差さないこの場所、この時間だ。もともと目もよく見えていないし、気にならない。二つの敏感な先端が、何かに触れる。これは……俺と同じ種類の生き物……だったものらしい。おいしそうだ。
だいたいの位置を確認して、顔を近づける。体の大きさは俺とあまり変わらない。かなり食いでのあるやつだ。なのに、その割にはきれいに死体が残っている。まあ、いいか。
左右から顎で挟みこむ。体節の合間に顎を差し入れ、割る。パキッとひび割れた。ぞくぞくする。中にはおいしそうな柔らかい肉が詰まっていた。頭を突っ込んで貪る。
あれ? どれだけ顔を深く突っ込んでも、息苦しくならない?
息はしている。鼻はない……鼻ってなんだろう? 匂い? 感じている。鋭く敏感な先で、おいしそうな……おかしいな? 何かを思い出しかけたような……
……おいしい。
でも、全部食べきるのは無理だ。それに、どこからかアリがやってきた。これ以上は危ない。
さて、一息ついたし、今度はどこへ行こう?
また遠くから眩しい光が差し込んでくる。あれは嫌いだ。元気が出なくなる。
なんだか、眠くなってきた。あそこ、湿ってて、涼しいあの場所で、じっとしていよう。
少し過ごしやすくなってきた。
お腹がすいたけど、近くにおいしそうなものがない。
目の前の草は、水分があまりなくて、パサパサしている。でも、食べられなくはない。これはこれで悪くない。
後ろ肢で跳び上がってみる。一瞬で、信じられないほどの高さに舞い上がる。それから落ちていく。あっという間のような、それでいて、随分長い間浮いているような……そして、落ちる。こんな高さから落ちて、よく怪我をしないものだ。
あれ?
まあ、いいか。
飛び跳ねるのは楽しい。
おいしい餌があれば、もっと楽しい。
お腹が重い。みっちりと何かが詰まっている感じがする。
腹をくの字に曲げてみる。目の前に、細長い管が見える。後ろ肢の、もっと後ろにあるのを、体をねじって、引き寄せる。口で触れ、触覚で触れる。舐めまわしたくなってきた。ここから出てくるもののため、よく手入れしておかないと。
いつまで経っても、明るくならない。薄暗くはなったが、それ以上、明るくならない。
二つの先端から、断続的な衝撃を感じる。明るいほうを見ると、大きな水滴が時折、地面に降り注いできている。
小さな羽虫が、嬉しそうに飛び回っている。気持ちいいのだろう。それはわかる。だが、頭が足りないのだろうか? 近くを走り抜ける大きな体の何かが、泥水を跳ね飛ばす。たったそれだけだ。それで全身に水を浴びると、もう動けなくなる。
……昆虫の呼吸は、横っ腹についている気道によっているから、ずぶぬれになったら、息ができなくなるんだったっけ……
あれ?
それより、あの小バエは、おいしそうだ。
少し小さいが、苦労せずに食べられそうだ。
明るいところは好きじゃないが、今なら周りに誰もいない。
お腹が苦しい。
何かが迫ってきている。
あまり動きたくない。
木と枯れ葉に囲まれた場所。ここがいい。
体の先端から、何かが出てくる。それがいとおしくてならない。
ずっとじっとしたまま、暗い時間を過ごした。
もう、何度明るい時間と、暗くて気持ちいい時間を過ごしたか、覚えていない。
今は、大好きな暗い時間だ。
敏感な先端が、何かを探す。動くものがあった。食べ物だろうか。
違う。
あれは。
後ろ肢に力を込める。跳び上がる。
ダメだ。
何かに引っかかった。
長い……肢?
体の大きさはそれほどでもないけど、とにかく肢が長い。それも、いくつもある。一、二、三……ダメだ、数えられない。
その、たくさんの肢が、めまぐるしく動きながら、俺を横倒しにする。なんなんだ? ゾワゾワする。なんなんだ!
……!
鋭い痛みを感じる。
力が入らない。
ああ、これは……『死ぬ』のか?
叫びだしたい。
でも、声が出ない。
というより、声を出す部分がない。
あれ?
声ってなんだろう?
背中の甲殻が割られるのを感じる。体液がそこから漏れる。
もうおしまいだ。
あれ?
何か、気になっていたような……
ものすごく大切な、何かが……
『死にそうになったら、元に戻ること』
元?
元って?
戻る?
死にそうなのはわかる。
戻る?
戻らないと!
「あっ……!?」
眩暈がする。
なんなんだ?
肢を動かす……違和感がある。あるべきところに、あるべきものがない。
肌がひんやりとして、背中に何かが押し付けられているような。
「あああああああああ!」
それでも、さっきまで胸に満ちていた恐怖が、そのまま声になって出た。
声?
ガタン、と遠くで物音が聞こえる。
どうしよう、なんだろう、どうなるんだろう。
逃げ出したい、でも、逃げようにも、体がうまく動かない。
ようやく、転がるようにして、仰向けからうつ伏せになる。そこで見てしまった。
「ひゃああああああああ!」
そこには、俺の恐れるものが……長い足だらけの化け物が……?
あれ?
小さなアシタカグモが、潰れていた。
でも、それがやけに恐ろしく見える。悲鳴が止まらない。
背後で、木の扉が乱暴に押し開けられる。壁にぶつかって、跳ね返る。近くにいる、大きな黒い影が、落ち着きなく足踏みする。
「……! ……!」
何か、奇妙な形をした生き物が、こちらを見て、何か鳴いている。近寄ってくる。咄嗟に身を庇うが、何もできない。
肩を掴まれた。思わず叫ぶ。
『やめろ! 離してくれ!』
「……! ……!」
『触るな! 俺を殺さないでくれ! やめろ! 食べるな!』
なんだ?
俺を食べるんじゃないのか?
……食べる?
俺を?
どうして?
「ノール! どうした、返事をしろ! ノール!」
誰だろう、この人は。
人?
雪崩れ込んできたのは、一人だけではなかった。よく見れば、なんとなく見たことがあるような……随分、昔に出会ったきりのような気がする。
俺を抱きかかえる、カエルみたいな顔をした男の後ろから、威厳のある中年男がやってきた。代わって俺を抱き上げる。
「ノール……ノール! しっかり気を持て! どうした? 何があった?」
ノールって、誰だろう?
誰?
誰ってなんだ?
「ノール」
男は、あふれる感情を押し殺したような、低くこもった声を出して、俺を呼んだ。
……俺?
「ノール……!」
なんでこんなに大騒ぎしているんだろう?
おかしいな、俺は今まで、何をしていたんだったっけ?
「目を覚ませ……ファルス!」
はっとした。
そうだ、俺は……
「……み、るーく?」
「そうだ、ミルークだ」
そうだった。
俺は、ミルークの奴隷のノール……
そう思考をまとめようとした瞬間、一気に記憶が頭の中をかき乱した。
暗い馬小屋の奥で頬張った、カマドウマの死体。あれは、今思えば、同じ小屋に住んでいたアシタカグモがしとめたものだったのだろう。食べる前に、別の獲物を見つけてしまったので、捨てていったのだ。
干し草も食べた。香ばしくておいしい……おいしい?
水に濡れた小バエがもがいている。近付いて、これも頬張った。
暗い馬小屋の干し草の中で、俺は、産卵した? そうだ、あれは……
最後に見たのは、俺を食い殺そうとする、アシタカグモの……
「うっ……あ……」
気持ち悪さがこみ上げてくる。
急に世界を遠くに感じた。
「お、おい、しっかりしろ! しっかり……」
周囲の大人達の怒号も、遠ざかっていった。
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