蒼い満月の夢

 夜の洗いものは少ない。メニューは豆と多少の野菜の入った麦粥だけ。そのための器、飲料水のためのコップ、そして匙。これだけだ。もちろん、材質はすべて木でできている。

 ここの収容所では、朝食と夕食が軽めで、昼食にたくさん食べるようにしている。医療先進国のサハリア人にして、長年、奴隷を商ってきたミルークの考えだ。食事、睡眠、運動のどれ一つとして、軽く見てはいけない。夜に食べ過ぎれば睡眠の質が下がる。それに、夜更かししても、ろくにやれることなどない。だいたい、照明だって安くはないのだ。

 あとちょっと。夜は水が余計に冷たく感じるが、手抜きは禁物だ。辺りは既に真っ暗だが、頭上に月の光が差してきている。ここは暗いが、中庭には、青白い光が注がれている。

 離れたところから、足音が近付いてくる。


「おぅい。ノール」


 穏やかな老人の声。となれば、その主は一人しかいない。


「まだ終わらんのか?」


 ここにいる子供達から「先生」と呼ばれている男性だ。髪も、髭も、太目の眉毛も、みんな真っ白なのに、肌は少し日焼けしている。いつもガニ股で歩き、茶色い上着にズボンを身につけている。


「もう少しです、済みません」

「ほう、そうか。まあ、丁寧にやるんじゃな」

「はい」


 そう言いながら、彼は待つ。決して手伝ってはならない。奴隷には、奴隷としての自覚が必要だからだ。先生は、ミルークに雇われた人であり、自由民だ。この身分という境界線が、ある意味、奴隷とその使用者の間の安全弁にもなっている。

 なんといっても、一般人が、借金や刑罰を理由に、奴隷に落ちる世界だ。昨日までの俺と今日からと、どう違うのだ、と感じてもおかしくない。社会との関係が、それを命じているのだと、事あるごとに自覚させなければ。適切な距離感を維持させなければ、世の中はもっと乱れる。

 ……もちろん、勝手に売り飛ばされた俺に、そんな自覚など、これっぽっちもない。ここにいるのは、単に、一人で生きるより、養ってもらったほうが有利だからだ。


「終わりました」

「そうか」


 先生は、笑顔で頷いた。その表情に、奴隷への蔑みの感情など、まるで感じられない。むしろ、孫でも見るかのような目だ。

 彼は、俺を待っていた。というのも、俺を部屋へと帰さなければいけないからだ。夜間には中庭への立ち入りが禁止されている。だから作業が済んだら部屋に戻される。

 ちゃんと理由はある。中庭にも、そこから入り込める倉庫にも、様々な物品が置かれているからだ。ナイフ、手斧、干し草、火打石、ロープ……普段の作業や訓練に使うものばかりだが、一歩間違えば、脱走や反乱の際の武器になってしまう。

 なので、渡り廊下ならば通れるが、これも階段の通行は禁じられる。二階は男子、三階は女子の領域と定められているためだ。

 そして、それぞれの要所に、監視がつく。昼間は守衛が立つ北側の階段付近には、先生の宿直室がある。二階と三階を結ぶ階段が、北東と北西にあるが、その近くに、守衛二人の寝室がある。ジュサの部屋は南側、中庭に面したところにある。言うまでもなく、これは門の見張りだ。そして厳重に施錠された扉の向こう側、商談スペースと執務室の近くに、ミルークと、その護衛のジルの部屋がある。


「今夜もきれいな月じゃのう」


 空を仰ぎ見ながら、先生が話しかけてくる。俺は並んで歩きながら、ちらっと彼の顔を見て、すぐまた前を向く。


「そんなに慌てんでもいいじゃろうに。少しくらい、立ち止まって空を見ても、バチはあたらんて」


 彼は、俺が空も見上げず先を急ぐのを、収容所のルールを守ろうとするがゆえと解釈した。それは見当違いなのだが、あえて自分から理由を説明しようとは思わない。


「もうすぐ三歳か。こんなに小さいのに、ちょっとしっかりしすぎじゃないか?」


 わかっている。彼は気にかけてくれているのだ。

 先生はこれまで、無数の子供を送り出してきた。もちろん、奴隷としてだ。そして彼は立場上、どうしても不運な子供達と接する機会が多い。奴隷に落とされたというだけでもツイていないのだが、彼が主として受け持つのは、六歳になっても売れなかった少年だ。彼らに鍛冶や木工、裁縫の技術を教え込むわけだが、総じてそうした子供達は、どこか危うい。先がないのを知っているからだ。彼らの顔には、暗い翳が差す。

 俺は、形だけの模範解答で返事をする。


「六歳になったら、ちゃんと売れないと困ります。今、しっかりしないで、いつしっかりするんですか」


 俺はまだ三歳にも満たない。あと三年間も準備期間がある。しかも、今の俺は、当たり前だがたぶん、普通の六歳児と比較しても優秀だ。言葉はまだまだのところもあるとはいえ、なんといっても、この世界の基準ではだが、格段に計算能力が高い。前世の日本では、ごく平均的だったのだが。要するに、このままいけば、普通に売れることは確かだ。焦る必要などないのだ。


「三年も先のことじゃぞ? お前が生まれて、ここまでにまだ三年経っとらん。今の倍、年をとってからの話じゃ。慌てんでもよかろうに」


 ……それなのに、俺には、これまで見てきたどんな子供より、暗い翳が見えるのだろう。特に、こんな月夜には。


「十分、のんびり過ごしています」

「月を見上げる余裕もないのにか?」


 答える前に、北側の階段の前についてしまった。


「よし、気をつけて登るんじゃぞ。足元は暗いからな」


 体の小さい俺に合わせてゆっくり階段を登ってくれる。途中で、彼は鉄の鎖に手を伸ばす。階段の端から端まで。これでここは通行禁止になった。


「よし、部屋まで行けるか? 送ろうかの」

「いつも一人で行ってるじゃないですか」

「本当に子供らしくないのう」


 首を傾げ、苦笑いをしながら、彼は手を振ってくれた。


 二階に上がると、いくつもの窓から差し込む月の光が、そこの床だけを真っ白に照らしていた。冷え冷えする石の感触を踏みしめながら、俺はまっすぐ、前だけを見て歩く。

 右に曲がって二つ目の扉を、そっと押し開ける。


「……んー、遅ぇよ」


 眠たげな子供の声だ。後ろ手で扉を閉じる。うまく閉まらない。扉と、その石の枠がぴったり合っていないのだ。どこかで修繕しなくてはなるまい。無理やり力で押し込んで、扉を固定する。


「目ぇ、覚めちまうじゃねぇか……」


 相部屋の少年、ウィスト。彼は、もうすぐ四歳になる。

 前世の日本人の感覚で言うと、彼は年の割には、充分、大人びている。言動やら雰囲気やら、倍くらいの年齢に相当するのではないだろうか。頭の回転も悪くないし、度胸もある。いい商品になるのでは、と期待されているようだ。だからこそ、俺との二人部屋をあてがわれている。

 この収容所で、一番条件のいい部屋は、なんといっても東側だとされている。朝日が拝めるからだ。ただ、東側の部屋は大きく、どうしても大勢と一緒に詰め込まれる。さすがに境遇が境遇だけに、寝ないで騒ぐようなガキはいないが、牢名主のような年長者にペコペコするのは面倒だ。

 その点、この北側には、小さな部屋が多く、二人で一部屋を使わせてもらえる場合が多い。人数が少ない部屋を割り当てられる子供というのは、二通りに分かれる。協調性がないダメな奴。でなければ、誰にも見られなくてもちゃんと自分で自分の始末をつけられる、頭のいい子、だ。

 ただ、彼は悪い面でも大人に近い。つまり、既にサボりのコツを知ってしまっているのだ。無論、それが大人になって役立つスキルであるのは間違いないが、子供のうちは、愚直に努力するほうが、ずっと見返りも大きい。彼を指し示すのに一番しっくりくる言葉があるとすれば、たぶん、それは「早熟」だ。


「まったく……早く寝てくれよ……」


 彼はそう呟きながら、ごろんと背を向ける。粗末なベッドの上で、ボロ布のような毛布にくるまりながら。

 確かに、早く寝たほうがいい。だが、その前に少しだけ、贅沢な時間を過ごしたい。ウィストには悪いが、俺はそっと、北側の小窓を開けた。


「……おい……」


 物音と、風がないながらも微かに流れ込む、冬の冷たい空気に、彼は抗議の声をあげる。

 満天の星空だ。前世では一度も見たことのないほどの、美しい夜空。冷たい空気が何だというのだろう。それすらも、この荘厳な雰囲気を纏う景色の味わいを増すばかりだ。心を清めなければ、ここに立つことさえ許されないかのようではないか。たとえ自分がどのような境遇にあろうと、今、この時間、この場所だけならば、自由に違いない。

 ……とはいえ、あまり我儘を通すと、後が怖い。ウィストにも迷惑だし、彼が我慢の限界に達して、ミルークあたりに文句を言い出したら、面倒なことになる。残念だが、今夜はこの辺にしておこう。

 俺はそっと木の窓を閉じて、自分のベッドにもぐりこんだ。


 ……ふと、意識が戻る。周囲は冷え冷えしている。自分の手足も、氷のように冷たく、思うように動かせない。喉元に吐き気がこみあげてくる。

 周囲を見回す。ほぼ真っ暗だ。唯一、足を向けているほうに、微かな光が見える。首だけ持ち上げて、そちらに視線を向ける。

 砂利を蹴散らす音。出入り口を塞ぐほどの大男が、片手に鉈を持って、立ち塞がっている。俺は、助けを求めて悲鳴をあげようとした。だが、喉に何かが詰まって、声が出せない。男は俺に向かって鉈を振り下ろす。迫りくる死を覚悟して、俺は目を閉じる。だが、その瞬間はいつまでもやってこない。

 恐る恐る、俺は目を開ける。辺りは薄暗い。何か、纏わりつくような嫌な臭いが立ち込めている。手足に、ねとつく何かがべっとりついている。そっと掌をこちらに向ける。ねばねばした、赤黒い……血。

 ふと、目を上げると、首を切り裂かれた少年の死体が転がっている。そこに何度も鉈を振り下ろす、大柄な男。父だった。だが、その顔色には生気がない。それはそうだ。首筋に大きな切り傷があって、そこから体中の血液が抜けてしまった後だからだ。彼は俺に気付いて、静かに白く濁った目を向ける。

 後ずさろうとして、背中が、頭が、何か柔らかい、生暖かいものに触れる。恐る恐る振り返ると、そこには女の顔。頭から、目から、鼻から、一滴の血を垂らした母。最期の姿のまま、艶かしい肢体を隠そうともしない。どこか焦点の合っていない視線を絡ませてくると、ふと微笑んだ。そのまま、俺の口を、唇で塞ごうとする。

 限界だ。俺は、滅茶苦茶に暴れた。母を突き飛ばし、父を蹴倒した。そのまま、薄暗い台所から飛び出して、玄関を駆け抜けて……しまった。

 見た。見てしまった。頭上に輝く、青白い満月を。


「うわああああああ!」


 ふと気付く。二つの黒い人影が、俺を押さえつけている。誰だ。誰なんだ。


「おわあ、あああ!」


 離せ、離せ!

 俺に触るな!


「うるっせぇよ! いい加減にしろ、このクソガキ!」


 その一声で、俺の動きが止まる。聞き慣れた、この子供の声は。


 ここは、部屋の中だった。閉めたはずの扉が開いていて、そこから月の光が差し込んできている。俺はベッドの上に寝ていて、全身、ぐっしょりと汗をかいている。俺を見下ろしているのは……一人はウィストで、もう一人は……先生だ。


「……あ」


 また、夢を見たらしい。

 ここに来て、しばらくは大丈夫だった。俺は前向きだった。いや、今もそうだ。過ぎたことは過ぎたこと、奴隷として売られたのも、仕方ない。だが、養ってもらえて、教育も受けられて、うまくすれば上流階級の家で働かせてもらえる。いいこと尽くめじゃないか。リンガ村にいた頃より、俺はずっと出世した。

 だが、なんだかんだと忙しく、また何もかもが目新しかった最初の一ヶ月が過ぎ去った頃、俺は初めて、夢を見た。


「うなされとったぞ、ノール」


 また先生に迷惑をかけてしまった。俺と同室にされたウィストにも。


「済みません」


 俺の謝罪に、先生は静かに首を振った。


「ここに来る子供には、よくあることじゃ」

「けっ」


 吐き捨てたのは、ウィストだ。


「つらいのは、てめぇだけじゃねぇだろが。寝られねぇ俺の身にでもなってみろ」


 言い返せない。本当に悪いとは思っている。俺だって、見たくてこんな夢を見ているわけではない。


「……僕を、懲罰房に入れてください」


 そう言うのが、精一杯だった。


 ここに置かれている子供の総勢は、今の時点で三十人前後。半数が男で、もう半分が女。そして、北側の小部屋に二人ずつ、東側の大部屋にはもっと大勢。ということは、実は部屋は半分くらい、空室なのだ。

 しかし、その空室の一部は、ここなんかよりずっとしっかりした作りになっている。扉も金属製で、隙間もない。床には鉄の鎖が二本あって、それが手錠と足枷に繋がれる。窓には鉄格子が嵌められている。

 ただ、窓については、そこまで厳重にしなくても、どうせここから飛び降りて逃げるのは無理だ。南側以外の壁面に沿って、幅、深さともに二メートル程度の堀があり、その底面は石の床だ。しかもご丁寧に、ごくうっすらと、白い砂が敷き詰めてある。窓から落ちれば、まず大怪我は間違いないし、上手に降りたとしても、足跡は絶対に残る。

 とにかく、この施設で一番厳重なのが、西側に作られた鉄の扉の部屋なのだ。ここを、俺達奴隷は、「懲罰房」と呼んでいる。実際、いたずらをしたり、不手際があったりした子供は、ここに閉じ込められる決まりになっている。もっとも、実際にそうなった例を、まだ見たことはない。

 この部屋の、もう一つの利用法なら、一度だけ目にした。大人の犯罪奴隷を一人、預かったことがあるのだ。子供と違って、力も強いし、しかも前科者だ。こういう「商品」は、ミルークの好みではないのだが、たまに引き受けざるを得なくなる。

 つまり、こういうことだ。領地の中には、必ず一定の数の犯罪者がいる。すべてを死刑にするわけにもいかない。必然、その一部は犯罪奴隷として売り払われ、その利益は被害者への賠償金に充てられる。だが、犯罪者になるような人間を、積極的に購入したいという客はあまりいない。当然、奴隷商の側でも、扱おうという気にはなれない。だが、奴隷商は、その地域の支配者の庇護下にあればこそ、成立する生業だ。だからたまに、領主などから、半強制的に、こうした悪質な商品の後始末を頼まれる場合がある。

 無論、その見返りはある。そもそも、街から離れたこんな寂しい場所に、子供ばかりの収容所が、なぜ成立するのか。実は付近に領主の軍の詰所があって、いざという場合には、ここから救援を求めることもできるのだ。


 惨めさと申し訳なさに、項垂れる俺を、二人はじっと見下ろしている。先生は、ちらちらとウィストのほうを見ている。それを察してか、彼は踵を返すと、またベッドに戻り、毛布に包まった。


「やってらんねぇ、俺、もう寝るからよ」


 突き放すような言動に聞こえるが、俺にはわかっている。これは彼なりの優しさだ。

 別室にしてください、と訴える権利が、彼にはある。だが、それはしないでおいてくれた。たった二人での生活すらこなせない子供……そういうマイナス評価が、どういう意味を持つか、理解しているからだ。将来を期待できない子供に、ミルークは投資しない。さっさと奴隷商同士の取引で、他所に流してしまう。そして、ミルークのように、良質な子供の奴隷を供給しようと考える商人は、それほどいない。


「そうじゃな、もう遅い時間じゃ」


 俺の枕元から、身を起こしながら、先生も言った。


「ノールも、もう寝なさい。わしも、部屋に戻って寝るからの」


 俺は、か細い声を絞り出して、なんとか言った。


「おやすみなさい」


 木の扉がそっと閉じられた。部屋の中はまた暗闇に戻った。

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