勝手に名前を決められて
「目が覚めたようだな」
見上げると、さっきの鋭い目をした商人、ミルークが立っていた。無表情だった。声色にも、何の感情もこもっていない。事実をただ、確認しようとしている。それだけだった。
はて? さっき、ジュサは、俺が馬車から飛び降りた時、怪我をしたかどうかを気にしていた。ならばミルークも、俺の安全に配慮していると見るべきであろう。現に彼は、俺が食べ終わるのを待っていたふしがある。相手がまだ二歳くらいの子供だとわかっているのだ。
だが、違和感をおぼえた。俺が今、ここにいるのは、誰かに助けられたからだ。助けてくれたのが、ジュサなのか、ミルークか、それともここにはいない誰かなのか、それはわからない。だが、そうでなければ、俺は川べりで冷たくなっていただろう。
だから、俺は彼に、助けてくれてありがとう、と言うべきなのだ。なのに、彼にはそうした言葉を受け入れてくれそうな雰囲気がまるでなかった。そこには、幼い子供を前にする人が見せるような柔らかさが、皆無だった。もちろん、敵意もない。感情がないのだ。これは、果たして人助けをする人の顔だろうか?
「どうした? 言葉はわかるか? まだ話せないのか」
ミルークは、俺に左手を差し出しながら、そう呼びかける。その手首、袖の奥に、大きな古傷の痕が見えた。
彼の言葉は流暢だ。確か、プノスが持っていた言語のスキルがフォレス語だったから、今、ミルークが口にしているのも、俺がかろうじて聞き取れているのも、同じフォレス語に違いない。スキルから判断すると、彼はネイティブではないのだろうに、まったく見事なものだ。
ともあれ、何か返事をしなければなるまい。まだうまく喋れるわけではないのだが。
「ありがと、ごはん、たすけて、くれた」
俺自身のフォレス語のスキルは、ゼロだ。スキルがついていない。ということは、技能といえるレベルになっていないという意味だろう。要するに、海外旅行に出かけた人が、現地で簡単な挨拶を覚えたからって、それがスキルとはいえないのと同じ。さぞかしたどたどしい口調に違いない。
「ほう……なに、問題ない……まだ話せるか?」
「はい」
相手の言葉を正確に聞き取れているか自信がないが、ここはなんとか会話を繋げたい。少しでも状況を把握したい気持ちもある。
「よし、お前の名前は」
「ファルス」
「それでは半分だ。お前の○○は? ああ、つまり……家族と一緒の名前だ」
一部聞き取れなかった。姓とか苗字とか、そういうことか。だが、俺はそれを知らない。俺の両親も、名前でしか呼ばれなかった。貧乏な村人だからといって、姓がないわけではなかろう。俺が最初に肉体を奪った男にも、クンドゥムという家名があったのだから。要するに、必要がなかったから、知る機会もなかった。
いや、機会だけならあった。俺がピアシング・ハンドの能力を手にした後だ。とんでもない状況とはいえ、両親の顔なら見ているのだから。あの時にプロフィールを確認しておけばよかったのだが。
「……しらない、です」
「そうか、いいだろう」
黒い顎鬚に手をあてて、ミルークは頷いた。
「お前は、いくつかな? つまり、年だ、年○のことだが」
「に、です」
「よし、いいぞ。できれば、誕生日はわかるか? 何月の何日か」
「わかり、ません……でも」
俺は、記憶を振り絞る。
俺自身はこの世界の暦を知らない。両親は俺に誕生日を教える前に死んだ。だが、今、記憶にある状況を伝えれば、ミルークが誕生日を教えてくれるかもしれない。
「むぎ、たかい、あおい……おまつりのひ、の、ごにちあと、おばさん、いえ、きた」
髪飾りって、こちらの世界の言葉で、なんて言うんだろう? わからない。あとは、箒と包丁も渡されたっけ。だから、身振りで示した。
「これと、これ、これもおいていった」
「ふむふむ、なるほどな……だが、それでわかった、十分だ」
通じたらしい。俺はこの世界の暦など知らないが、ミルークにならわかるだろう。あとで誕生日を教えてもらおう。
だが、続いての質問は、俺を硬直させた。
「お前は、どこから来た?」
場所なら知っている。名前だけなら。だが、それは口にしていいものかどうか?
いや、落ち着け。俺が両親を殺し、別の男の肉体を奪って逃げただなんて、この男にわかるものか。
しかし、それはそれとして、自分の村に起きた事件の数々を思うと、出身地を知られるのはまずいのではないか。気にかかるのは、あの兵士達だ。アネロス・ククバンという凄腕の剣士は、何のためにあそこにとどまっていたのだろう。もしかして、事情の如何にかかわらず、村人を皆殺しにするつもりだったのではないか?
そして、一見した限りでは、このミルークという男は、あのアネロスと同じ民族出身であるように思われる。もしかして、俺が知らないだけで、実はこの地域の支配者は、こういう色黒の連中で、そいつらは上で繋がっているんじゃないか?
「どうした?」
「……むら」
ここは二歳児である利点を生かそう。村。自分の村の名前なんか知らなくても、不思議ではない。
「ふむ、どういう名前の村だね?」
「……ん、あー」
ごまかしたつもりだったが、ミルークの追及は止まらなかった。
そこへ、割り込んでくる男がいた。黒づくめの醜男、ジュサだ。
「旦那ぁ、そいつは無理ってもんですぜ。こいつ、見たとこせいぜい、二歳かそこらのガキじゃねぇですか」
そうだ。もっと言ってやってくれ。こんな幼児に期待しすぎだろう、とか。
「そうだな、ジュサ。だが、たぶんだが、この子は、見かけ以上に賢いはずだ」
「へぇ? なんでわかるんです?」
そうだ。なんでそう思うんだ。
確かに中身は、四十年近く生きている計算になるのだが……
「この子は、私にまず、ありがとうと言った。ただの二歳の子供が、お礼など口にするか? 普通はそう言いなさいと親に教えられてやっとできることだ」
……しまった!
そうか。
さすがに、商人7レベルは伊達じゃない。ちゃんと俺のことを見ている。
「その後もそうだ。大人に話しかけられても、辛抱強く相手ができるし、こちらの質問にちゃんと答えている。誕生日を知らないのはともかく、それを○○するのに必要な○○を○○に○○してみせたのも、驚きだ」
これもか。
一部、知らない単語だらけで何を言っているのか、はっきりとはわからないが……知りたいことがあるからって、理路整然と話をしすぎた。
「それに、おそらく……」
おそらく、の続きは?
そこでミルークは、俺に視線を戻しつつ、言葉を切った。値踏みするような目線だ。
「もう一度、訊く。お前は、どこから来た?」
「むら、です」
「うむ。で、村の名前はなんという?」
直球だ。もしかしたら、こいつは俺が、村の名前をぼかそうとしているのに気付いている? どうしよう。知らない、とでも言おうか?
いや、それは危険だ。俺自身の記憶にはなくても、こいつらは、俺がどこで拾われたか、知っている可能性がある。リンガ村の近くの川べりに転がっていた、という情報があれば……
気になるのは、さっきの「おそらく」の続きだ。ミルークは、俺の理解力を察知しつつある。相手の知りたいことを、言葉から正しく察知できると認識しているのだ。つまり、彼の「おそらく」の続きは、「嘘をつくことさえできる」だ。
そもそも、俺の立場は、冬も近い時期に裸で川べりに転がっていた子供、という怪しい身の上なのだ。当然、わけありに違いない。今も、大人二人の視線が、鋭く俺に突き刺さっている。……さあ、どうする?
「リンガむら、です」
「……なるほどな、そうか」
「旦那、それって……」
やっぱり何かあるのか。ジュサはあからさまに顔色を変えている。だが、俺はまだ二歳の子供だぞ? 何があっても、俺の責任にはなり得ない。
だがもし、それで俺を殺すとか、何か敵対的な行動に出るのなら……使えるかどうかはわからないが、このピアシング・ハンドの能力で、肉体を奪ってやる。
「よくわかった」
ミルークは顔を上げて、スパッと言い切った。
「お前の名前は、今日からノールだ」
「は?」
「ノール、これまでの人生は忘れることだ。それと、これからお前には、多くのことを学んでもらう」
なぜだ? 名前を変える? リンガ村の出身であるのが、そんなにまずいのか?
「どうして」
質問を口にしかけた俺を、彼は目で制した。
「……まず、大事なことを一つ。余計な疑問は持たないことだ。そして、言われたことを言われた通りにする。わかったか」
「え、でも」
「わかったか」
有無を言わせない圧力だった。だが、俺は何も言わずにいた。だって、いきなりこんな高飛車な物言いをされて、はい、だなんて言ったら、なんだか負けたみたいな気がする。しかし、そうこうするうちにも、ミルークの視線は、どんどん険しさを増していった。
「ジュサ」
「へぇ」
「この子供に、自分の立場というものを教えてやれ。時間はかかってもいい。だが、傷はつけるな」
「へぇ」
それだけ言い切ると、彼は身を翻して歩き去っていった。
俺は、既に冷え切ったお碗を握り締めたまま、いつの間にか身を縮めていた。どうやら俺は、救われたわけではないらしい。
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