村の外へ

 林を抜けると、遮るもののない大地が見えた。頭上にはまだ星が瞬いているが、目の前の地平線は、ほの暗い光の中に浮かび上がりつつある。それがどうしようもなく、俺の焦燥感を煽った。

 朝の光は、現実を照らす。この一夜で、何もかもが変わってしまった。夜が明けさえしなければ。出来事から目を背けたままでいられるのなら。

 それでは済まないのだという実感が、視界に広がる未知の世界から伝わってくる。俺はもう、村にはいられない。


 昨日の夕方まで、俺はただの幼児だった。飢餓の中、生き延びるためにゴキブリをかじってはいたが、それでも普通に両親がいた。村の一員だった。もし、この危機を乗り越えられたなら、その後はまた、実家で養われる生活を続けていたはずだ。

 だが俺は、痺れ薬を盛られて殺されかけた。謎の力に目覚めて、若者の肉体を奪い取った。家に帰って、父を殺し、ついで母を犯して、殺した。わけがわからない。滅茶苦茶だ。


 今の俺は、この男、プノスの姿を纏っている。そのプノスのやったことはといえば? 殺すために幼児を受け取った。その幼児は行方不明なまま。そして男は、幼児の両親の家を訪ねた。そこでもみ合いになり、家長を殺害。ついでその妻を犯し、後に殺害。

 食べるために子供を交換したのだから、子殺しについては、少なくとも村の中では、罪に問われはしまい。だが、そんな殺気だった夜に他の家を訪れ、そこの家人を皆殺しにした件については?

 いずれにせよ、俺はまだ、この世界の言葉を十分に習得できていない。この男としての記憶も知識もない。よって、この男の人生を乗っ取る形では、生きていけそうにない。


 では、元のファルスとしてならどうか? 同じことだ。

 殺され、食われるはずだったのに、なぜ生きている? 奇妙なことではないか。殺害したはずのプノスはいなくなり、プノスに息子を差し出した両親も殺されて、なぜか子供本人だけが生き残っている。村中の視線が俺に集まっても不思議ではない。

 だいたいからして、生きているとなったら、この男の家族から追い回されるだけだ。そうしたら、どうする? また肉体を強奪して逃げるのか?


 だから、俺は今、こうして走っている。言葉も知らない。村の外がどうなっているかもわからない。食べ物も、銅貨もない。血に汚れたボロを着て、同じく血まみれの鉈を手にしたまま。


 村から、追っ手がかかるだろうか? そんな余裕があるか? 人殺しなのは、俺もあいつらも同じなのに。

 意外とその辺は、問題ないかもしれない。むしろ、俺が残した三人分の死体を見て、バーベキューの準備でも始めているのかも。だとすれば、こうして逃げ出そうとするのは、見当違いな努力だ。

 いや、逃げ出すのなら、せめて金目のものでも持ち出せばよかった。服だって、これではまずい。返り血がベットリとついているのだ。どう見ても危険人物ではないか。だが、着替えを取りに戻れるか?


 そうじゃない。そうじゃないんだ。

 俺は怖くて仕方がない。たった一晩で、三人も殺した。その現実を認めるのが。

 この男の肉体を奪った時には、さほどの実感は、まだなかった。殺したといっても、直接暴力を振るったわけでもなく、気がついたらこうなっていたのだから。だが、その後は違う。襲い掛かってきたとはいえ、この手で二人を殺した。あの瞬間の感触は、まだ手に残っている。

 だから、どういう理由であれ、あの空間に引き返すのは、我慢ならなかった。


 夜明けの光が、目の前を照らし始める。そこでようやく、手足にこすれる感覚の正体がわかった。周辺は、広大な原野となっている。腰くらいまでの高さの野草が、周囲を埋め尽くしていた。冬が近くなって枯れかけた草は固く、俺の皮膚に、小さなかすり傷がたくさんついていた。

 そして、傷跡以外にも、赤黒い染みが。


 ああ。

 我に返って、俺は足を止めた。

 見てしまった。わかってはいたが、やっぱり昨夜のことは、現実だったのだ。

 俺はその現実に、追いつかれてしまった。背中から捕まえられたのだ。もう逃げられない。そんな諦めが胸を満たした。

 諦めは、安心に似ている。必要以上の力みから解放されて、不意に疲労感を覚えた。深い溜息が漏れる。


 それでも、何か状況が変わったわけでもない。やはり村に戻るのは危険だ。

 確かに俺には、必殺の能力がある。どういう理屈で、どんな風に機能するものかは、まだ把握しきれていない。だが、たぶん、どんなに強靭な肉体を持った相手でも、これ一撃で倒せてしまう。俺は念じただけだ。そして相手には、避けたり防いだりする手段などなかった。とはいえ、例えば一度に村中の人間すべてが襲いかかってきたとしたら? 一瞬で全員を「切断」できるものかどうかは、まだわからない。

 仮にこの能力の発動に、何の制限もなかったとしても、では、村人を皆殺しにすれば済むかといえば……先々のことを考えれば、むしろそれは下策だ。俺はまだ、この世界の言葉すらろくに話せない。生活習慣や常識なども把握できていない。どこかでそれを習得する機会をもたなければ。それなのに、邪魔だからと殺しまくっていれば、そのうち、危険な怪物として、命を狙われることになるだろう。

 だから、絶対的な能力を有していながらも、いまだにややこしい状況にあるのは間違いない。これから俺は、多少なりとも頑丈な、この男の肉体を使って、元のファルスが生きていける条件を整えてやらないといけない。なるべく裕福な家庭か何かに、この子を育ててやってください、とかなんとか頼み込むのだ。或いは教会みたいな、宗教施設なんかも狙い目かもしれない。

 問題は、そこまでどうやって辿り着くか。そもそも、俺自身を預けていい場所かどうか、その見極めも難しい。なにせ言葉も通じず、手持ちの財産はといえば、血まみれの鉈と、返り血で汚れた上着だけなのだから。果たして、目的を達成する前に、飢え死にせずに済むかどうか。リンガ村を襲った飢饉が、この辺り一帯で猛威を振るっているなら、この旅路は相当に困難なものとなる。


 そんなことを考えながら歩いていると、景色が変わってきた。東の空の明るさが増してくると同時に、遠くの地表に、きらめく何かが見えた。波打つあれは、水に違いない。ゆったりと流れる川だ。

 それと、川の向こう側に、黒い塊が見える。聳える壁のようなものは……。


 人影だった。

 それも、一人や二人ではない。何十人という数だ。その見た目は統一されている。

 そう、彼らは兵士だった。丸い金属製の兜に、金属の鋲のついた革の鎧を着込んで、手には木製の盾と槍を持っている。直立したまま、一列に並んで、身動ぎもしない。そんな集団が、川にかけられた橋の前に立っていた。

 その集団の後ろには、テントのようなものがいくつか見える。とすると、この兵士達は、ここで橋を見張っていたことになる。もともと検問が設けられていたとか、そういうわけではなくて、必要があって、わざわざここに野営して、待ち構えていたのだ。


 ……何のために?

 俺を捕まえにきた? 馬鹿な。この世界に、携帯電話のような通信機器があるとも思えない。俺が犯罪者であるのは否定しないが、いくらなんでも早すぎる。

 そもそも、一人、二人の犯罪者を捕らえるのに、この人数は異常だ。なるほど、治安のいい現代日本であれば、一人の逃亡犯相手に、数千人の捜査網が敷かれることもあろう。だが、ここの文明レベルからすると、小さな犯罪などあちこちで発生しているだろうし、その監視や警戒だって、広さに治安当局の能力が追いつくはずもない。現に、村には警察に相当する人間はいなかった。

 軍隊が出動するような事態が発生している、ということだろうか?


 どうしよう。

 俺の姿はもう、兵士達からも見えているはずだ。今から背を向けて逃げ出すなどしたら、却って怪しい。幸い、丈の高い草に囲まれているので、見えているのは俺の腰から上くらい、つまり、手に持った鉈は見えてはいまい。まだ距離がある。俺は、そっと凶器を手から滑り落とした。

 で、どういう態度で申し開きをしようか。まず、言葉が話せない件については、いくらでもごまかせる。もともと言葉が不自由だということにしてもいいし、恐ろしい事件に巻き込まれたせいで、精神的にショックを受けていることにしてもいい。よし、これでいこう。

 となれば、あとは態度と表情だ。俺は兵士を怖がらないことにする。むしろ、助けを求めに泣きつくのだ。だいたいからして、俺がファルスの両親を殺した件についても、別に目撃者がいるわけではない。現代日本じゃあるまいし、DNA鑑定だって存在しないだろう。かつまた、なんらか犯罪者を見分ける技術があるにせよ、俺の殺人はすべて、正当防衛だ。多少の罰で済むなら……二、三年くらいなら、懲役でも強制労働でも、付き合ってやればいい。


 考えがまとまった。

 俺は、両手を挙げて、抵抗の意志がないことを示しつつ、集団に近付いていく。


 橋の上に、指揮官らしき男の姿が見えた。一人だけ、兜をかぶっておらず、真っ赤なマントを羽織っている。細身だが、遠目に見ても、よく鍛えられたしなやかな体つきだった。槍はもっていなかったが、腰には幅広で長さもある剣が吊るされている。

 だが、何より特徴的だったのは、その顔だった。最初、光の加減かと思ったが、どうもそうではない。男は、黒髪だった。せいぜい5センチくらいの固そうな前髪が、真上に伸びている。そして、肌の色は浅黒かった。

 男は、鋭い視線を向けてきた。一目でわかる。年齢こそまだ二十代半ばくらいであろうが、この男は、きっと歴戦の勇士だ。素人の俺にも、そう感じさせるだけの風格が備わっている。

 思わず尻込みしたくなるが、ここは耐えるところだ。俺は改めて両手を挙げ、事件の被害者を装う。助けを求める態度を明確にしながら、橋へと近付いていく。


 石造りの頑丈な橋に、おずおずと足をかける。ふっと指揮官の表情が緩む。俺の心はそれで緊張から解放された。どうやら、話くらいは聞いてくれそうな雰囲気だ。この後、拘束されるかもしれないが、そこはそれ、何とか話し合う努力をしよう。何せ今、リンガ村は、狂気の最中にある。飢饉とはいえ、人が人を殺して食べる状況なのだ。この軍隊がどこから来たのかはわからないが、領主の部下であるならば、支配下の村が壊滅するのを防ぐ義務だってあるだろう。

 指揮官の男は、俺に手招きして、指図した。さっさと橋を渡れ、というように。尋問は避けられないだろうな、と内心、軽い溜息をつきつつも、俺は橋の反対側まで一気に通り過ぎた。

 そして、対岸の土に一歩、踏み込んだ。その瞬間。


「プフォ……?」


 何が起きたのか、理解するのに、一秒くらいかかった。体の二箇所、いや、三箇所に痛みを感じている。奥までズシンとくる、途方もない痛みだ。突然の圧力に、体中のあちこちが痺れてくる。それはそうだ。俺の胴体や左肩から、三本の木の棒が生えていた。

 よろけながら、後ろに下がろうとして、橋の石段に踵を引っ掛けて、尻餅をつく。ぬるっ、と嫌な感触がして、槍が抜けていく。こぽっ、と音を立てて、真っ赤な血が上着を濡らしていく。

 なぜだ……?

 いくらなんでも、まだ、あくまで「まだ」だが、俺が殺されなければいけない理由など、ないはずだ。指揮官は、この暴挙をどう考えているのか。そう思って、力を振り絞って後ろを振り返る。

 浅黒い肌をした男は、うっすらと笑みを浮かべていた。そういうことか。はじめから、俺が何者であれ、殺す気だったのだ。


 このまま、黙ってやられてたまるか。俺は、まともに力の入らなくなった左腕を、膝くらいの高さの橋の欄干に押し付けて、なんとか立ち上がる。そして、残る右手を、指揮官の男に突き出して、念じてみた。


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 アネロス・ククバン (27)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、27歳)

・マテリアル マナ・コア・火の魔力

 (ランク3)

・スキル フォレス語 5レベル

・スキル サハリア語 6レベル

・スキル 剣術    7レベル

・スキル 火魔術   6レベル

・スキル 格闘術   5レベル

・スキル 投擲術   6レベル

・スキル 隠密    6レベル


 空き(20)

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 なんだ、こいつは!?

 この体の男とは比べ物にならないほど、強そうだ。いったい何者なんだろうか?

 だが、考えている暇などない。狙うのは、今度もヒューマン・フォーム、つまり肉体だ。たぶん、その他のマテリアルやスキルも、奪い取ることはできるのだろうが……今はそんな余裕などない。俺の体はもう、穴だらけだ。理屈抜きに、代わりが必要なのだから。

 俺は意識を集中して、この男、アネロスのヒューマン・フォームを弾き飛ばそうと……あれ?


 俺は手を突き出したまま、何もできずに硬直していた。なぜだ? どうしてこいつは、肉体をなくしてしまわない?


 そんな俺を、アネロスは冷ややかな目で見ていた。だが、何も起こらないとわかると、興味をなくしたのか、ふっと俯いた。その次の瞬間、俺の右腕は宙を舞っていた。

 痛みは遅れてやってきた。今の太刀筋は、まるで見えなかった。まさしく一瞬のうちに、俺の右腕は、肩口からきれいに刎ね飛ばされてしまったのだ。


「ぐ……はっ……」


 相次ぐ衝撃に俺は脚をもつれさせた。そのままバランスを崩して、斜め下に倒れこむ。そこは橋の上ではなく、音なく流れ行く川の上だった。

 目前に灰色の水面が迫る。水面を叩く音がして、俺の全身に冷たさと、むしろ温かさのような感覚が染み込んでくる。

 力が入らない。右手で水を掻こうとして、それがないことに気付く。残った左腕だけで、なんとか仰向けになる。見えたのは、橋の上から俺を見下ろすアネロスと、元通り直立不動の姿勢を保つ兵士達の姿だった。それが遠ざかっていく。俺は今、川に流されつつある。

 どうしようもなかった。川の水は、実のところ、かなり冷たかった。冬も間近なのだから、当然だ。ただ、大量の血を失った俺の体は、更に冷え切っていた。ここまでくると、もはや傷が痛いとか、そういう次元ではなかった。ただただ、気が遠くなっていく。


 これは、ダメだ。この肉体はもう、死ぬ。なんてことだ。俺の得た、あの能力は、一度きりしか使えない代物だったのか? だとしたら、なんて役立たずなんだ。

 いや、そうじゃない。これがもし、俺がもっとまともな環境にいたなら。ちゃんと言葉を覚えて、一般常識も身につけた後であれば。例えば、王侯貴族の肉体を横取りでもすれば、それなりの人生を歩めたことだろう。

 運が悪かった。ただただ、そこに尽きる。生き延びるためには、このプノスという男の肉体を奪う以外にはなかった。なのに、今、まさにこの肉体が、俺の命を消し去ろうとしている。

 俺は、震える左手を持ち上げて、自分の目の前に持ってきた。


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 (自分自身) (2)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、2歳)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、26歳・アクティブ)


 空き(0)

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 切り捨ててしまいたい。この余計な、いらなくなった肉体を。そう念じて、指差した。


 ふっと意識が明瞭になる。痛みが消えた。

 何が起きたのか、よくわからない。急に川の水が冷たく感じられる。思わずあがくが、ふと、右腕があることに気付いて驚く。それに、素肌には傷一つない。素肌?

 俺は全裸だった。それに、元通りの幼児の肉体になっている。


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 (自分自身) (2)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、2歳)


 空き(1)

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 どういうことだ?

 とりあえず、溺れないように、バランスを保とうとする。ふと、上流のほうが気になった。突然、川の中に幼児が姿を見せたら、それにさっきの兵士達が気付いたら。

 振り返った俺の鼻の頭に、ぶつかってくるものがある。冷え切ったプノスの遺体だった。俺は咄嗟にプノスの肩につかまり、浮力を保ちながら、上流のほうを仰ぎ見た。

 思った以上に距離が開いていた。遠く小さくなった人影は、もはやこちらに注意を払っていない。


 だが、危機が過ぎ去ったわけではなかった。

 俺の肉体は、脆弱な二歳児のそれに戻ってしまった。しかも、最後に腹に入れたのは、痺れ薬入りの麦粥だ。冷え切った川の水の中で、急速に力が失われていく。

 このままではまずい。なんとか川の上に上がらないと。体を温めないと。そうは思うのだが、とてもではないが、川べりまで泳ぎきれる気がしない。

 なんとか浮いていたプノスの肉体に、水が入り込んだらしい。だんだんと水の中に沈み込んでいく。こうなっては、縋れるものもない。俺は溺れ始めた。


 ここで死ぬのか。

 やっぱりこんな死に方しかできないのか。


 絶望の中、どす黒い恨みのようなものが俺を満たしていく。だが、かすんでいく視界の中で、俺は見つけた。

 水面に浮く木の板だ。意外と大きい。大人なら、上半身を浮かせるくらいしかできないだろうが、二歳児なら。俺は最後の力を振り絞ってそれに取り付き、這い上がった。

 板の上に、力なく横たわる。水に濡れた体は、相変わらず冷たかった。それでも、頭上に広がる青空から、わずかばかりの温もりが感じられるような気がした。


 空は青かった。どこまでも澄み切って、青かった。

 それは、俺が初めてこの世界で見上げたのと、まったく同じ色をしていた。


 視界いっぱいの青。

 そこで俺の意識は途切れた。

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