狂気の宴

 見慣れた部屋だった。粗末な造りの木製のベッドが横に二つ、並べられていて、その上に大きな藁布団がかぶさっている。彼女が手にしていたたランタンは、寝台の横の木箱の上に置かれた。

 俺の目を一度、じっと覗き込むと、彼女は静かに背を向けて、髪の毛を束ねている紐に手を伸ばし、それを外した。長く豊かな、茶色の髪の毛が広がる。彼女の白いワンピースが、橙色の薄明かりの中、浮かび上がるようだった。

 衣擦れの音がしたかと思うと、そのワンピースが、床に落ちた。彼女の背中が露になる。彼女が身につけているものはといえば、まずは足元のサンダルと、胸の辺りに巻かれた白い布切れ、それに下着だけだった。スルスルと布を引っ張る音がしたかと思うと、胸の辺りの覆いがなくなった。

 その状態で、彼女はこちらに振り返る。その視線には、もう怯えはなかった。


 今まで、こうやっていろんな男と寝てきたのか。この女は。

 こいつは、この世界における俺の母親のはずだった。だが、どこの世界に、自分の母の情事を見たいと思う奴がいるだろう? しかし、俺は何度となく、彼女が男を連れ込むのを目の当たりにしてきた。もしかしたら、この肉体の男も、彼女と既に関係を持っていたかもしれない。俺が確認できずにいたのは、閉じられた扉の向こう側だけだった。それが今、ここで明らかにされようとしている。


 ギシッ、とベッドが軋んだ。彼女はそこに腰を下ろし、ついでそこに寝転がる。なおも俺がそれを見下ろしたまま、突っ立っていると、彼女は身を起こしてしゃがみこむ。その視線には、こちらを挑発する意志が見て取れた。

 彼女には、迷いも戸惑いもなかった。ベッドの上で俺に向き直ると、膝を立てて、そのまま素足を両側に広げた。片手で体を支え、もう片方の腕でむきだしの乳房を覆って。口角には、笑みさえ浮かんでいた。


 呆然として、その様子を眺めていた俺だったが、不意に心の中に、弾けるような熱がこみあげてきた。

 なんなんだ。なんなんだ、この女は。

 こいつの夫も、大概クズだった。酒ばかり飲んで、暴力を振るって。だが、妻が産んだ他所の男の子供に対して、冷酷な態度に出るのは、まだ理解できる。一方、こいつはといえば、その実の息子をババァのオモチャにと売り渡し、自分は自分で、いろんな男と寝まくった。挙句に、自分の夫が殺された直後、その当の加害者相手に、こうして股を開いている。

 いや、理由はわかる。殺されるよりは、体を差し出す。理性的に考えれば、当然の判断だ。だが、これがまともな人間の行動か? 怯えるでもなく、悲しむでもなく、こいつは自信たっぷりに脱ぎやがった。

 さっき死んだ夫のことなど、どうでもいいのだ。それだけじゃない。他所の家に差し出した自分の息子のことも。


 いいだろう。

 この男の中身が俺だとは、この女もわかっちゃいない。せっかくだ。こいつがどんなに汚い女か、この場で確かめてやる。こうなったら、後も先も、知ったことか。

 俺は黒い怒りのままに、ベッドの上に膝立ちになると、そのまま相手を押し倒した。


 ……興奮の波が収まってくると、途端に気だるさと、空腹感とが押し寄せてきた。

 あれから何度楽しんだことか。なるほど、この女は、ある意味、本物の売春婦だった。それが利益のためであれ、また安全のためであれ、いつでもどこでも、心から行為を楽しめる女だったのだ。もっとも、よくよく思い出してみれば、こいつは自分の夫をこれっぽっちも愛してはいなかった。村から押し付けられた乱暴な中年男など、死んでくれたほうがよかった。その意味で、さっきの情事は、彼女にとって、この上なく解放感あふれるものだったに違いない。

 今は俺の腕を枕に身を縮める彼女だったが、どうやら、こちらと同じことを感じたらしい。ベッドから起き上がると、服も着ないで、部屋を出ていった。家の外に出た気配もないので、何をしにいったのかと待っていると、手にお盆が乗っており、そこにコップが二つと、固くなったパンの欠片が載っていた。

 パン!? パンだ。今日までの二ヶ月間、一度も食べたことがないご馳走だ。まだこんなものを隠し持っていたのか。息子の俺には、一口も食わせようとしなかったのに。俺は今まで、ゴキブリを食らって生き延びてきたのに。だが、湧き上がる怒りより、空腹感が勝っていた。俺は黙って手を伸ばし、食べかけて……先にコップで口の中を湿らせた。そうして、少しずつかじっていく。

 満腹感とは程遠かったものの、一通り食べきると、あの空腹という名の苦痛が遠のいていく。残るのは、のしかかるような眠気だけだ。俺はそのまま、ベッドに横たわろうとした。

 だが、彼女は、そうはさせなかった。俺の手を引くと、何事か呟きながら、ついてくるように促した。相変わらず全裸のままだ。彼女はサンダルをつっかけると、今度こそ家の外に出て、坂を下りていった。

 彼女が指差したのは、さっきまで夫だった肉塊だった。これを運んで欲しい、とのことだった。もちろん、葬るためではあるまい。

 どこまでも恐ろしい女だ、と自分のことを棚に上げつつ、俺は背負った。なんだか、やけに重く感じた。


 彼女の先導で、俺は台所まで踏み込んでいった。さっき目にした地獄絵図が広がる。少年の惨殺死体だ。思わず目をそむけると、彼女が寄り添ってきて、そっと口付けしてきた。

 どこかから布を取り出してくると、彼女は早口で何か喋った。そうして、少年を続けて解体しようとはせず、どこかから大きな麻布を取り出すと、優しく少年の遺体を載せて、くるんだ。

 それが済むと彼女は、夫が持っていたナマクラの鉈のほうを持たせて、自分の夫の遺体を指差した。また何か言っている。たぶん、あの子の代わりに食べましょうとかなんとか言っているのだ。

 ってことは、こいつを俺が解体するのか……マジか? ってか、今から? ある意味、血抜きは済んでるんだし、今夜はもう、寝てから……


 休もう、と意思表示するつもりで振り返った。その瞬間、鋭い切っ先が鼻を掠めた。

 いつの間にか俺の鉈を横取りしていたこの女が、真後ろで必殺の不意打ちを浴びせてきていたのだ。俺が解体作業に取り掛かっていたら、避けるのは無理だったろう。尻餅をつきながら、俺は背中を一瞬で濡らす冷や汗を感じていた。

 なんて奴だ。俺と寝て、とっておきのパンまで食わせて油断させて、それで真後ろからバッサリ、か。それなら眠ったところを襲えばいいのだが、狸寝入りでもされたら、却って危険だと考えたのだろう。俺の言語能力が不十分だったのも、この場合は、有利に働いたのかもしれない。彼女があれこれまくしたてていたのが、雑音にしか聞こえなかったから、言い聞かされたであろういろいろな要求を、いちいち意識して考えずに済んだ。


「キエエエッ!」


 最初の一撃、絶好の機会を逃した彼女の顔色には、今度こそ絶望と恐怖が浮かんでいた。もう勝算は薄い。それでも、こうなっては後に引けない。俺が立ち上がる前に決めてしまおうと、更なる一撃を見舞ってきた。

 俺は尻をずらしながら後ろに下がろうとするが避けきれず、左腕で受けてしまう。今度はかなりの痛みが走った。肉の半ばにまで、刃が通ったのだ。


「わっ……ああっ……」


 俺が怯んだのに付け込んで、もう一撃。だが、俺はそのままの姿勢で後ろに飛びのいた。後ろには食器棚。背中を激しく打ちつけたので、頭上から皿がいくつも転がり落ちて、割れていく。だが、これで距離が開いた。

 立ち上がろうとする俺。そうはさせまいと駆け寄る彼女。だが、慌てたあまり、そこで血だまりのぬめりに足をとられた。尻餅をついたのは、今度は彼女のほうだった。

 一瞬の躊躇ならあった。だが、俺は……


「おおおおっ!」


 全力で刃毀れした鉈を振り下ろした。

 早くも膝立ちになっていた彼女だったが、そこまでだった。鉈の芯の部分が彼女の頭頂部を捉えていた。切れ味の悪い刃の根元から、鈍い感触が伝わってくる。髪の毛を多少まきこみながら、その切っ先は、頭蓋骨の内側にめり込んでいた。

 時間が止まったようだった。うつろな表情のまま、その姿勢を保っていた彼女だったが、鼻の穴から赤い筋が垂れてきた。口からよだれがこぼれる。目からは光が消えていた。そのまま、横ざまに倒れる。さっきの少年の、固まりかけた血の上に、水音を立てつつ転がった。


 安心感。危機は去った。左腕の痛みにも、かすかな快感すら伴っている。なのに、俺の耳には断続的なノイズが聞こえてきて、それがひどく不愉快だった。生ぬるい空気が辺りを漂っている。まといつくようなこの気持ち悪さは、いったいなんだろう。

 俺だった。俺自身の呼吸音。俺自身の吐息に、俺の目の前の血の海。空気はどこまでも淀んでいた。自らを包む布をまた赤く染め始めた少年。顔を土気色にしたまま、横たわる父。全裸のまま、頭を割られて転がる母。三つの死体に囲まれて、俺は静寂の中に、ただ一人、立っている。


「ワアァァゥォフオォォオォァアアッ!?」


 何かの衝動に、俺は叫び声をあげた。


「ヒッ……ヒィ……」


 この場から逃げ出したい。だが、足を上げて一歩歩くと、そこで水音がする。死体の流した血液。それで汚れる。それはだめだ。だめなんだ。


「フッ……フギャアァ!」


 それでも俺は、次の瞬間には、つんのめりながら、転びそうになりながら、外へと駆け出していた。

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