惨劇の夜

 信じられない。信じるしかない。

 俺は、月の光に自分の手を照らして、何度も確認した。そこにあるのは、やわらかく色白な子供の手ではない。幾年にもわたって厳しい農作業に従事してきた、男のひび割れた指だった。

 視点も高かった。生前の自分より、この男は大柄で、筋肉質だった。頑丈な体をしているらしく、身動きは実にスムーズだ。但し、激しい空腹を感じてはいるが。

 つまり、俺は今、この男の肉体を奪い取った? そうとしか考えられない。だが、一度に獲得できたのは、どうもその肉体だけらしい。この男が持っていた他のもの、例えば記憶とか、技術といったものは、ついてこなかった。

 ということは、だ。さっきの……あの一瞬、男がいた場所に浮いていた、虹色の靄は……魂?


 ガタッと木戸の開く音が聞こえる。ハッとして振り返った。

 扉に隙間を作って、そこから女がこちらを見ている。この男の妻だろうか? きっとそうだ。「肉」が届いたのだから、早く解体して欲しいのだ。それだけじゃない。たぶん、夫が独り占めする可能性を気にかけてもいる。

 どうしよう。

 二、三秒ほど考えて、俺はジェスチャーで、彼女に向かって、家の中に戻っているようにと手を振った。そして、腰の鉈を抜いて、牛小屋に入るそぶりを見せる。それで木戸が閉じられた。

 それを横目で確認すると、俺は足音を殺して、牛小屋から出て、この家の敷地からも抜け出した。思わず走り出す。


 冷や汗が止まらない。どうしよう。肉体は奪ったが、俺はまだ、言葉も話せない。この男の名前は、さっき見たからわかってる。だけど、この男になりすませるかといえば、そんなのもちろん無理だ。こんなの、どうしたらいいんだろう?

 いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。今、この男の肉体、といったが、じゃあ、魂はどこへいった?

 あの虹色の靄。そして、俺が願ったのは、断ち切り、接木する力。この男の魂は、肉体と切り離された。ということは、形を失った魂は、どこへ行く?


 ……つまり、俺は人を殺した。

 たぶん、やられた本人にも、自覚などないだろう。痛みすらなかったはずだ。この男の魂は、きっとあの暗い絶壁を登りつつあるのだろう。そして、紫色の大広間を通って……今度はどこでどんな風に生まれ変わるんだろう?

 さっきの家にいる妻は、子供達は、この事実を知ったらどう思うだろう? 俺を憎むだろうか? それとも、むしろありがたがるだろうか?

 怖い。殺した。殺した。俺が殺した。


「……!」


 胸に押し寄せる恐怖感。あとちょっとで、叫び声をあげそうになった。

 それを押し殺すことができたのは、周囲の家から聞こえる物音に気付いたからだ。


「……ウァ……ギャブッ……」


 木造の建物の隙間から漏れ出る、微かな悲鳴。直後に聞こえる、低い打撃音。それも、一つではなかった。

 俺は、この夜の犠牲者の一人でしかなかったのだ。あちこちの家族が、子供を交換して、互いに殺害する。そして、当面の食料とする。そう取り決めたのだから、当然、それぞれの家で同じことが行われる。

 馬鹿な。狂ってる。どうしてそこまでしなきゃいけないんだ。

 体の芯から震えがきた。思わず、俺は村の外に向かって走り出した。


 自分でも理由はわからないが、俺は、さっきまで自分のいた実家に駆け戻っていた。いちいち見なくてもわかるはずなのに、やはり確認せずにはいられなかった。

 いや、もしかすると、自分の家だけは違う、と考えたかったのかもしれない。そんなわけはないのに。


 玄関は、真っ暗だった。物音一つしない。それも不自然なほどに。

 見たい気持ちと、見たくない気持ちが、交じり合う。それでも俺は、忍び足での一歩を踏み出した。

 奥のほうに灯りが見える。あれは台所だ。固いものをぶつけるような音が、断続的に聞こえる。ゴツッ、ゴツッ……そして、近付くにつれ、それとわかる不快な臭気が鼻をつく。血だ。

 暗がりに転がる瓶に足を取られた。俺の足に突き倒されたそれが、床に叩きつけられて、派手な音を立てて割れる。その瞬間、台所にしゃがみこんでいた二人が、振り返る。


 そこは、生き地獄だった。

 首を明後日の方向に向けた全裸の少年が、真っ暗な天井を見上げていた。首から上は鬱血していて、舌をだらりと出している。対照的に、真っ白な胸には、二、三の赤い切り傷が入っているが、これは致命傷ではないだろう。そこからは大量の出血がなかったから、死後につけられた傷に違いない。床一面に広がる血の絨毯は、首がほとんど両断されていたのと、手足が根元から切り落とされていたためのものだった。

 そして俺の父親は、赤い鮮血にまみれた鉈を片手に、しゃがんだままの姿勢で、こちらを見ていた。火鉢の中で、大量の木片を燃やしていた母親も、鬼の形相でこちらを睨んでいた。


「ワ……ワアァァ!」

「ヒィ、ヒヤァァ!」


 父の雄叫びに、俺は思わず悲鳴をあげてしまった。

 俺を見た父は、立ち上がり、鉈を構えて向き直った。俺は怯えて後ずさったが、彼はなおも迫ってきた。


 ヤバい、ヤバい、どういうことかわからないが、彼は俺を追ってくる。「食料」を横取りしに来たわけじゃない。そんなつもりはない。腰に下げた鉈を抜いてもいない。それどころか、俺はもう、玄関まで下がっている。なのに、息を荒くしたこいつは、さっきの血だまりに戻っていこうとはしない。


「ハッ……ハヒャッ」


 俺は裏返った声で、意味をなさない呻き声を漏らしつつ、月の光の下に転がり出た。そう、文字通り、転がったのだ。なんのことはない、後ろ向きに歩いたのと、気持ちに余裕がなかったのとで、足元をとられて転倒したのだ。


「ガァァァ!」


 大きな隙を目の当たりにして、父は声をあげた。そのまま、俺を殺そうと飛びかかってくる。大振りの鉈が勢いよく振り下ろされる。

 気付けば、俺は目を閉じていた。そして、左腕の小指側に、軽い痛みを感じた。どうやら俺は、メチャクチャに腕を振り回したらしい。鉈は、俺の左腕に当たって切っ先を逸らされた。その代わり、腕には打撲と、多少の切り傷ができていたが、意外と痛みは感じなかった。どうやら、日頃ろくに手入れもされず、加えて今、少年を細切れにする作業で刃先がぬめっていたのもあって、さほどの殺傷力はなかったようだ。

 だが、危機はまだ続いている。中腰になって、転倒したままの俺の頭上に鉈を振り上げていた彼は、そのままではトドメをさせないと悟ったのか、俺の上に馬乗りになろうとしてきた。そうなったら、おしまいだ。とりあえず、俺は全力で、なるべく鋭い蹴りを繰り出す。

 踵に弾力を感じ、俺は後ろに弾かれる。だが、彼もまた、後ろに下がった。蹴りが鳩尾に入ったのだ。その隙に俺は立ち上がって、手を突き出してみた。戦うつもりはない、というジェスチャーだ。胸を押さえてうずくまる相手に追撃を加えない。平和的態度の表明として、これ以上のものはないだろう。

 なのに、そんな俺の態度を無視して、起き上がると同時に切りかかってくる。なんなんだ!?

 これ以上、こんな攻撃を腕で受けるわけにはいかない。俺は腰に差した鉈を抜いて、後ずさる。こちらの鉈は、よく研がれた状態だ。月の光に、鈍く輝いた。

 そんな俺に向かって、それでも父親は、少しずつ距離を詰めてくる。まるで、どうしても俺を殺さなきゃいけないみたいだ。一歩前進して、家の影から姿を見せたその顔は、憎悪よりむしろ、興奮と恐怖の入り混じったものだった。


「フアァァァ!」


 もう一声、叫び声をあげると、彼は前も見ないで突っ込んできた。冗談じゃない!

 俺は背を向けると、逃げ出した。この家に至る道筋の、下り坂。そちらを駆け下りていく。砂利を跳ね飛ばしながら、俺は走る。だが、後ろから気配が追ってくる。


「わっ!?」


 急に浮遊感を味わう。暗がりの中、慣れない体で突っ走った。その当然の帰結として、足元を失って頭から転がったのだ。砂利の散らばる道の上に顔を叩きつけ、無数の擦り傷を作る。全身を打った痛みに耐えながら、なんとか後ろを振り返った。

 そこには、両腕で鉈を振りかぶった父親の姿があった。


「ギャアァァ!」


 俺は目を閉じて、断末魔の叫びをあげた。


 恐怖のあまり、俺は硬直していた。どれほどの時間が経っただろうか? 案外、すぐのことだったのかもしれない。

 自分が全力で歯を食いしばり、目を閉じていると知って、おずおずと顔の筋肉を緩めてみた。薄暗いながらも、月明かりに照らされた世界が、視界に広がる。


「カ、カフッ……ヒュー……」


 足元に、重みを感じた。

 そこには、うずくまった父親の姿があった。両手で自分の首を絞めている。いや、押さえているのだ。それでも、ポタ、ポタと雫が落ちる。その生ぬるい感触が、靴ごしに俺の足先に伝わる。

 既に、彼には戦意はなかった。その能力もまた、失われていた。ズシンと、肩から地面に倒れる。首にかけた指が緩む。苦しそうな息遣いが、俺の耳の中をかき回すかのように感じた。

 その、耳障りな音が、消えた。


 沈黙の中に、風が一吹きする。枯れかけた草がこすれあって、サラサラと音をたて、また静かになる。

 生温かさこそ残っているものの、彼はもう、身動き一つしなかった。


 周囲は静かでも、俺の頭の中は、暴風雨も同然だった。それでも、何とか理解できるところから、整理していく。

 理由は定かでないものの、とにかく、父親は俺を殺そうとした。ここでいう俺とは、この体の男だ。もしかしたら、解体中の少年と、なんらか関係があったのかもしれない。まだ父が死んでいなかったとしても、ろくに言葉が通じない以上、そのあたりについての説明を求めるのは、いずれにせよ不可能だった。

 結果、返り討ちにあった父が、足元に転がっている。最後の一瞬、俺は恐怖に駆られて、また腕を振り回したのだろう。だが、さっきと違い、手にはよく切れる鉈があった。父は鉈を振り下ろしたが、その一撃は、その俺の腕によって、僅かに曲げられた。俺の鉈もまた、父の肩辺りに遮られて、届かないはずだったが……その瞬間、すっぽ抜けた。

 ある程度の勢いがついた俺の鉈は、その重さもあって、父の首筋に薄く傷をつけた。そう、血管のどこかを両断する程度に。

 事故といえば、事故だが……あまりにあっけない。恐らく、父の日頃の不摂生が、この結果を招いたのだろう。いつも仕事もせず、酒ばかり飲んで、だらだら過ごしていた。年齢も重ねていたから、体格の割に、力が弱かった。それに、殺人という行為についても、明らかに慣れていなかった。抵抗できない少年を殺害し、解体した直後だったから、なおさら、精神的にも脆い状態だったのだろう。


 ……これは、俺が殺した、のか?

 そういうことになる。殺意はなかった、といっても、俺は鉈を腰から抜いていたし、そもそも、こんな夜に他所の家に行くほうが悪い。どうして俺は、一度家に戻ろう、などと考えてしまったんだろう。

 一晩で、二人も人を……いいや、よそう。こいつは、父といっても、父らしいことなんか、何一つしなかった。子供の俺を一方的に虐待した。今夜だって、俺を騙して、毒入りの粥を食わせた。まして、これは正当防衛でもある。

 そう考えると、この、今の俺の肉体についてだって、何の問題があるというのか。俺は、こいつに殺されるところだった。そして、眠り薬入りの粥を食わせた両親も、その共犯者だ。恐怖が静かに引いていき、次第に自分でも制御のできない怒りが、取って代わった。


 それでも気持ちを整理しようとしていると、ふと、家のほうを見上げたところに、人影が見えた。誰かなどと、考えるまでもない。手に何か持っているようだが、俺の視線を感じると、すぐに引き返していこうとする。俺も、弾かれるように後を追った。そう、彼女は、俺から逃げようとしている。

 逃げられるだけならいいが、この状況は、放置していいのだろうか? 俺は人を殺した。彼女はそれを目撃した。俺から逃げて、それを誰か、他の村民に報告する……なんてことはあり得るのだろうか? いや、あれこれ考える必要はない。彼女もまた、俺を殺そうとしていたのだ。我が子であるはずのファルスについても、それから恐らく、この肉体の持ち主であったプノスについても。

 彼女は自宅に逃げ戻った。玄関から、さっきの調理場の前まで行って、そこで照明を取ると、そのまま家から出て行こうとした。そこで俺と鉢合わせる。その顔には、もはや恐怖しかない。そして、そんな怯えきった顔が、今まで俺が一度も見たことのないその顔が、余計に俺の中の嗜虐心を燃え立たせた。

 何かを早口で呟いている。よく聞こえないが、命乞いしているようだ。それと、よくわからないが、後についてこいとも言っているように聞こえた。返事をしたくても、自由自在に話せるわけでなし、彼女が何をしでかすかわからないのもあって、俺はおとなしくついていった。


 彼女が俺を招きいれたのは、寝室だった。

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