ギフト

 一歩。また一歩。大柄な男が歩み寄ってくる。彼が近寄るにつれ、入口から差し込む青白い月光が、小屋の中を静かに照らしていく。男の足元の影はくっきりとしていて、それが俺の足元にまで伸びてきている。砂利を踏む音が消えた。

 視界のほとんどは、黒い男のシルエットに埋め尽くされた。


 死ぬのか。

 人生に未練はない。生まれ変わるつもりだってなかった。

 だけど。

 あの時、少しは期待したんだ。


 前世はクソだった。

 子供時代。家に金がなかったわけじゃないのに、いつも腹を空かせていた。下の階から玄関のドアを開け閉めする音が聞こえるたび、俺は息を潜めた。

 学生時代。ろくに友達もいなかった。恋人なんて、夢のまた夢だった。クラスメイトも知り合いもたくさんいたが、彼らにとっての一番は、いつだって俺以外だった。

 社会に出てから……最初は我慢して、レストランで働いた。でも、厨房という場所は、俺にとって、少年時代の苦い記憶を呼び起こす場所だ。いろいろ不利になるのは承知で一般の会社に入って働いた。だが、そこはブラック企業だった。

 度重なる激務に耐えかねて、派遣社員になった。ますます立場が悪くなり、俺は追い詰められた。そんな中、両親が次々倒れ、借金魔と犯罪者という二人の兄の代わりに、一人で面倒をみた。

 俺は、ずっと夢をみていた。今はこんなに苦しくても、悲しくても、いつか、世界のどこかには、俺に手を差し伸べてくれる人がいるんじゃないかと。そのために、俺はずっとこの手を握り締めて我慢した。

 そうだ……この手の中には、きっと砂金があるんだ。それは文字通り、ほんの一握りで、まったくささやかなものかもしれないけど。だけど、もし俺に微笑んでくれる人に出会えたなら。俺は惜しげもなく、すべてを差し出す。本当に、宝物というにはあまりにみすぼらしいかもしれないけど、それでも。

 ボロ市で、古ぼけた懐中時計を見た時、俺は思い出した。そう、『賢者の贈り物』だ。俺のために大事なものを手放して欲しいんじゃない。むしろ俺から、大切なものを投げ出したくなる、そんな気持ちになれる繋がりに、いつか出会えるなら。

 願いはあっさりと消し飛んだ。俺の四十年近い人生は、無になった。


 もう、いい。何もかも、たくさんだ。すべてを終わりにしたい。繋がりがあるから苦しむんだ。だったら、俺は永遠に孤独なままがいい。

 それでも神を名乗る黒髪の男に出会った時、俺は心の奥底で「もしかしたら」と感じていた。前世では運が悪すぎた。でも、次がそうとは限らない。今度こそは頑張ろう、前世の記憶だってあるんだから、もうバカな失敗はしないようにしよう。

 何のことはない。やっぱり頑張るまでもなかった。運命は決まっていたんだ。俺は何のために、ゴキブリまで食って生き延びたんだ。こんな死に方をするためか。


 ……目の前の男が、静かに鉈を振り上げる。一瞬、目が見開かれる。

 その瞬間、俺は横に転がった。さっきまで俺の首のあったところに、勢いよく刃先が叩きつけられる。

 俺はバカだ。こうなってもまだ、死にたくないのか。手足も痺れて、立ち上がれさえしないのに。

 入口から少し離れて、俺は牛小屋の隅にまで這いずっていった。それだけで息切れがした。別に何か考えがあるわけじゃない。後頭部を木の壁に預けながら、前を見た。

 男の黒いシルエットが近付き、それが闇の中にぼやけていく。月の光の届かないこの牛小屋の一角。古くなった干草の匂い。そこに生ぬるい俺自身の吐息が混じる。冷え切った土の感覚。


 俺は何を願った? この世界に降り立つ時、どんな思いを抱いていた?

 愛情あふれた家族と、気のいい友人に囲まれて暮らしたい?

 違う。


 ……断ち切りたい。

 俺が断ち切りたいのは、荷車の車輪でもなければ、擦り切れたロープでもない。


『俺の自由を妨げる、絡まる何かを、全部、ぶった切ってやりたい』


 ビッチな俺の母親。酒飲みで怠惰な、乱暴者の義父。貧しいリンガ村。全部全部。目の前のこの男も。

 ズタズタに断ち切ってやりたい。

 ズタズタに。


「う……!?」


 一瞬、視界が真っ赤に染まる。

 激しい動悸が、息切れが止まらない。体中から汗が吹き出る。全身を乱暴に揺さぶられているかのようだ。


「な……に、が……」


 頭の中で轟音が鳴り響いたかのような錯覚の後、俺はおずおずと目を開ける。

 あと一歩の距離に、男は迫っていた。闇の中で、その両の目だけが光を放っていた。

 だが、俺に見えたのは、それだけではなかった。


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 プノス・クンドゥム (26)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、26歳)

・スキル フォレス語 5レベル

・スキル 農業    5レベル

・スキル 料理    1レベル

・スキル 裁縫    1レベル


 空き(22)

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 男に意識を集中すると、うっすらと文字のようなものが見えた気がした。

 今のはなんだ?

 こいつの個人情報か? だが、そんなものが見えたところで、何の意味がある?


 男は……いや、プノスというのか……彼は、再び、ゆっくりと鉈を振り上げた。今度こそ、逃げ場はない。

 迫りくる死を前に、俺は反射的に手を突き出した。何もないはずの空間に。男の前に浮かび上がった文字に向かって。


 一瞬、何かが凝縮していくような、激しく何かが回転するようなイメージが頭の中に広がる。

 続いて、プツン、と何かが切れたような感触がした。

 その瞬間、急に足場をなくして落下していくような、得体の知れない気持ち悪さと恐怖が、胸を締め付けた。


 時間が止まったようだった。さっきまで牛小屋の中に充満していた殺気は、消え去っていた。殺気だけでなく、男の姿も。

 コーン、とやや鈍い金属音が響く。やや遅れて、パサッと軽い音が続いた。目をやると、そこには研いだばかりの鉈が転がっていた。その横には、黒ずんだ服が散らばっている。


 なんだ?

 男が……消えた?

 そうじゃない。


 さっきまで男がいた空間には、人の形をした虹色の靄が浮いている。ちょうど水の中に浮かぶ油のような色合いのだ。その光が不安定に揺らめく。だが、そうしていたのはごく短い時間だけだった。

 やがて、ひときわ大きく揺れると、完全に人の形を失って、散り散りになった。


 なんだ? いきなり男が、消滅した? 肉体だけ?

 いや。

 まさか……まさか。


 俺は、震える手を眼前に持ち上げた。


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 (自分自身) (2)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、2歳・アクティブ)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、26歳)


 空き(0)

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 なんだ、これ。

 なんなんだ。


 こんなわけのわからない現象を起こしたのは、この「ピアシング・ハンド」というやつなんだろうか。

 ピアシング……刺す、貫く、という意味か? でも、ハンドときた。手は、何かを刺すような形状をしていない。あの、激しく回転する物体のイメージは、何だったのだろうか。

 それと、よくわからないが、この「空き」とはなんだろうか?


 ともあれ、さっきの男と、俺とでは、いろいろ大きな違いがある。何よりまず、なぜか、俺には二つ、マテリアルというのがある。

 一つはランク6で、もう一つは5、つまりさっきの男のと同じ……


 だとすると。

 このランク5のほうのマテリアルは。

 まさかとは思うが、俺はもう一度、自分の手に意識を集中する。文字が浮かび上がってきた。その文字に、そっと触れるように手を伸ばす。今度は、掴み取るような乱暴なことはしない。そっと一つ目のマテリアルと、二つ目のそれの位置を、入れ替えようとしてみたのだ。

 その瞬間、俺はバランスを失って土の上に突っ伏した。


「……ペッ」


 口の中に入った砂粒を吐き出しつつ、四つんばいになる。手足が動く。それも、これまでにない力強さで。視点が高い。そのまま立ち上がる。出入り口の高さと同じくらいのところに、俺の視線がある。

 周りを見回す。俺はもう、壁際に押し付けられてなどいなかった。さっきまで俺がいたはずの場所を見渡しても、誰もいなかった。だが、薄汚れた子供用の服が、落ちていた。そして足元では、さっきまで男が着ていた黒っぽい服を踏んづけている。

 俺は、外に飛び出していこうとして、肌寒さに気付いた。足元の服を急いで身につける。鉈も拾い上げて、腰の帯に差す。

 よろめく足取りで、牛小屋の外に出る。小屋の横には、さっきまで使われていた砥石と、水甕がある。幸い、月の光も明るい。俺はそっと水甕の上に屈み込む。


 水面に映っていたのは、さっきまで俺を殺そうとしていた男の顔だった。

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