お粥と人肌の温もり

 家に帰り着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。

 父母はまた、それぞれの部屋に閉じこもっているのだろうか。最近、二人ともひどく殺気立っている。家の中の一室を占拠し、出入り口には物を積み上げて、簡単に出入りできないようにしてある。加えて、寝る時にも包丁や鉈を抱え込んでいる。無理やり食料を奪いにきたら、ただでは済まさないというわけだ。

 そんな状態だから、俺が泣き叫んでみせても、彼らは振り返りもしない。わかっている。だが、帰宅の目的はあくまで、乞食生活を続けています、というアピールでしかない。


 そこまでひどい状況なら、村を離れればいいじゃないか? それはもちろん、一度は考えた。ではなぜ、実行に移さないかというと、生存できる可能性が低いと考えたからだ。

 この村の周囲は、一応、人間が生活しているだけあって、危険な猛獣に遭遇することは、まずない。俺の秘密基地が機能するのも、村から遠く離れていないがゆえだ。ところが、いったん村を出てしまえば、どうなるか? あらゆる環境に、それぞれの生態系の頂点をなす猛獣が跋扈しているに違いない。これがまだ、五歳とか十歳になるまで育っていれば、それなりの体の大きさもあるので、ある程度の反撃も可能だろう。だが、今は二歳児でしかない。こんな体では、野良犬に追いかけられるだけで命にかかわる。

 もちろん、飢餓が進行するにつれて、村そのものが危険地帯になる可能性は否定できない。だが、少なくとも、両親がそれぞれの食料を大事に守っているうちは、まだ安全とはいえないか。それもなくなったなら……俺ならどうするだろう? 盗賊にでもなって、周辺の別の村を襲うかもしれない。その場合でも、資産や食料を持たない子供は、ただ見捨てられるだけで済むだろう。


 あれこれ考えているうちに、玄関前に辿り着く。


「ただいま」


 声を振り絞って、なんとか家の中全体に聞こえるように帰宅を告げる。あとは、両親のいない部屋に陣取って、朝まで寝るだけだ。

 そう考えて、何気なく一歩を踏み出したその時、家の中から、灯りが揺れるのが見えた。誰かが灯を点している? この時間に?


「ファルス!?」


 家に戻った俺を、母は驚きの表情で出迎えた。駆け寄ってきて、俺の顔をまじまじと見る。それから、何かを早口でまくしたてた。ちゃんとは聞き取れなかったが、だいたいこんな内容だった……どこに行っていたのか、父がお前を探しに歩き回っている、今夜はうちにいなさい……

 いきなりどうしたのだろう? 急に人並みの親みたいなことを言い出した。それこそ、何か変なものでも食ったのだろうか。脳にとりつく寄生虫とか? 俺が首を傾げていると、まもなく足音がして、父が戻ってきた。

 父は、見るからに小汚くなっていた。ろくに食べるものがなかったのと、その前から酒浸りで、ろくに働いていなかったのもあって、初めて見た時の筋肉は、見る影もなく衰えていた。もともと四十歳近く、年をとっていた印象だったが、ここ最近で一気に老け込んだようだ。

 この部屋に踏み込んできた時点では、灯火の関係もあって、やけに凄みのある顔つきに見えたが、すぐに頬が緩んだ。そして、聞いたこともないような優しい声色で、何事かを俺に語りかけてきたのだ。

 父が手を伸ばしてきた。抱きかかえられて、びくっと身を強張らせる。だが、母の目の前というのもあってか、普通ならこの後に続くであろう暴力はなかった。座っていた母が立ち上がり、台所に向かう。台所? 今まで、俺に食べ物を出してくれたことなんて、滅多になかったのに。

 父の腕は、がっちりと俺を抱え込んでいた。思えば、人肌の温もりなど、ずっと味わった覚えがない。今になって、何がどうなって、俺を我が子と認識するようになったのか。いぶかしくはあるが、心の奥底で、ずっと乾いていたどこかの部分が叫び声をあげているのがわかる。怪しむ気持ちより、この状況に浸りたい思いが、勝っていた。

 ほどなくして、台所から母が早足で戻ってきた。手にはスープ皿、その中には、なんと麦粥だ。もっとも、量は決して多くはないし、薄められていて、ほとんど水みたいなものだが。それでもこの状況では、ごちそうの中のごちそうと言えるだろう。いったい、何がどうなった?

 俺が目を見開いていると、彼女は匙を取って食べさせようとしてくる。俺の頭の中では、この状況を説明できる何かが見つからない。どうしよう? 食べずにおくべきか? でも、それは不自然だ。つまり、両親がこれだけ飢えていて、俺だけが食事を必要としていないはずがない。だから、ここは食べるしかない。

 逡巡しているうちに、既に匙が俺の口に捻じ込まれつつあった。どうする? どうする?

 だが、一口、含んでしまえば、もう抗えるものではなかった。暖かい、普通の食べ物。あの気持ち悪い昆虫じゃない。お粥だ。それがこんなにおいしく感じられたことはなかった。

 大丈夫、きっと大丈夫だ。だって俺には何もない。最初は、このお粥に毒でも入っていたら、と考えないでもなかったが、そうするメリットがどこにあるのか。二歳児を殺したいなら、大人の腕力でぶん殴れば済む。そんな俺を騙すために、貴重なお粥を毒まみれにするだろうか? だから、きっとこのお粥そのものは安全だ。

 だとしたら、どうして急に、俺に優しくするんだろうか? ……思い当たる理由は一つしかない。両親は村を出るつもりだ。でも、足手纏いの二歳児は連れていけない。だから、最後の夜くらい、子供に優しくしたくなったんだろう。

 そんなの偽善だし、自己欺瞞だ。わかってはいる。だが、この窮状だ。どうして彼らを責めることができるだろう? 自分が生きるだけで精一杯なのだ。それに、まったくの偽善と言い切れるものか? 自己満足のためとはいえ、貴重な食料を、実際に俺に分け与えたのだ。この一口だって、俺に分けさえしなければ、自分で食べられたはずだ。ほとんど俺に愛情を注いでこなかった二人だが、それがゼロではなかったことを、今は喜ぼう。

 ……なんだか、この世界にきて、初めて人の温かさを味わった気がする。二年とちょっとの間、ずっと張り詰めていた緊張が、急にほぐれていくようだ。なんだか眠気がのしかかってくるような感じがする。いつもあの秘密基地の中で、周囲の物音にビクビクしながら寝ていたから、疲れが……


 何かがこすれるような音で目が覚めた。石のような固いものが、水気の混じったところで、反復して……前世の記憶にある。そうだ、これは刃物を研ぐ音だ。

 目を開ける。辺りはまだ暗かった。木の床の上に寝かされている。照明のない建物の中だから、余計に暗いのだろう。何か鼻をつく臭いがある。これは家畜の……牛小屋だ。当然ながら、現時点では、牛など影も形もない。だが、うちには牛小屋なんてなかった。ということは、村の中の別の誰かの家に運ばれている?

 とりあえず起き上がってみることにする。両手を床について、上半身を……あ、あれ?

 手の感覚が鈍い。まったく動かせない、というわけではないのだが、どうにも痺れがひどい。あれだ、一晩中、腕枕した後みたいに、冷え切っていて、力が入らない。

 腕だけではなかった。足も同じ、いや、全身、そういう状態だ。意識だけは、割とはっきりしてきたが、体がそれについていかない。

 なんとか首だけを起こして、唯一、うっすらと夜の光の差し込む出入り口を見回す。誰の家かはわからない。だが、この建物のすぐ外、壁際の辺りで、誰かが刃物を研いでいる。

 何のために? ここにいたのは、鋤を引くための、農耕用の牛だった。ここには使われなくなった農機具が放り込まれたままだし、そもそも村の中には肉牛の飼育業者なんていなかっただろうから。どうあれ、その牛はもういない。とっくに食われた後だろう。ということは。

 まさか、という思いと、急激に胸の中で広がる危機感の間に揺れながら、俺は必死で手足をバタつかせた。無駄だった。どうしても力が入らない。物音がしたのに気付いたのか、出口から一瞬、男が首だけ出して、中の様子を見た。


 要するに、そういうことか。

 俺は、今、ここで殺されて、食べられる。


 最後に、両親が俺に麦粥を食わせたのには、偽善ですらなかった。合理的な意味があったわけだ。あの中には、ちょっとした痺れ薬が仕込まれていた。幸か不幸か、俺の意識は、ことの直前で覚醒したが、この通り、今も全身に力が入らない。とてもではないが、出口で刃物を研ぐ男から逃げ切るなど、できないだろう。

 さすがに、直接、自分の子供を殺すには抵抗がある。だが、面識のない他所の子供なら、殺せるし、食べられる。大昔の日本でも、そういう子供の交換と食人があったらしい。いや、世界中にあっただろう習慣だ。危機に際して真っ先に見捨てられるのは、老人と子供なのだ。

 甘かった。最悪の状況を想定していたつもりが、全然そうじゃなかった。俺は何も持っていない? いいや、この体があるじゃないか。どうしてそこまで考えられなかったのか。一瞬でも、両親の中に、愛情のようなものを見出そうとした自分が馬鹿だった。

 だが、なぜなのだ? 村長のプランはどうなったのか。村中の資産を食料と交換し、娘達を売り払えば、もう少しマシな状況になったのではないか。


 ふと、外で影がゆらめく。砂利を蹴散らす音がここまで聞こえる。一瞬、牛小屋の中は薄暗くなった。大柄な男が、出入り口に立ったのだ。

 もう、考える時間すら、あまり残されてはいなかった。

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