秘密基地

 粗く編まれた丸い籠の周囲を薄い布で埋める。長い木の棒を二本ほど用意して、それを籠の左右に取り付ける。棒は交差させる。ちょうどその部分が取っ手になる。もう一つ、蓋をするための薄い木の板と、それを支える棒も必要だ。

 目下のところ、これが今の俺の生命線だった。貧弱な二歳児の腕力で、なんとか籠を壁際に押し付ける。そして、壁に止まった昆虫の周囲を、もう一方の木の棒で、トンと突いてみる。

 刺激に対して、昆虫が取る行動は二通りだけだ。動くか、動かないか。当たり前に聞こえるかもしれないが、どちらも生存という目的に適した、合理性のある行動だ。危険が迫っているなら、移動して避ける必要がある。しかし、みだりに動き回れば、それだけ天敵の目に付きやすくなる。そして昆虫は、どちらの行動を選ぶにせよ、まるでスイッチが入ったかのように極端な対応を見せる。

 この虫は、少しものぐさだった。或いは、近頃、寒くなってきたから、そのせいかもしれないが。どうあれ、すぐ後ろから木の棒で突いているのに、数歩壁をよじ登っただけで、動きを止めてしまう。だが、それでは困るのだ。せめてあと十センチほど上に進んでくれないと。もう一度、突いてみる。頼むから、飛んで逃げ出さないで欲しい。

 億劫そうにだが、その虫は、カサカサと足を動かして、籠の中に入った。今だ。籠と板の隙間をなくして、床に叩きつける。籠を包む薄い布越しに、中にいる虫の状態を確認する。やはり動きはない。突然叩きつけられた衝撃に驚いていないはずはないのだが、こういう状況だからこそ、じっとしているのだ。だが、それが命取りになる。

 俺は、別の薄手の布を籠の上からかぶせて、そっと籠を持ち上げる。そして、中の虫を捕らえようと手を差し入れるが……この時点で、虫は一転して、全力での逃走を選択した。だが、それも想定済みだ。俺の手からなるべく遠い場所で、籠が持ち上げられている場所からすり抜けようとする。だが、虫の頭上には、ふんわりと布がかぶせられているから、その周囲を手で覆ってやれば、逃げ場はすぐになくなる。

 こうして、布越しにだが、直に虫を捕まえる。やった。だが、まだ喜ぶには早い。俺は左右を見回す。近くに人がいないことを改めて確認すると、俺は足元の四角い籠の蓋をそっと開ける。そして素早く、今捕まえた虫を放り込み、また閉じる。

 今日は久しぶりの大猟だ。なんだかちょっと嬉しい。


 家から離れた場所、川べりの木々の陰に、俺の「秘密基地」がある。といっても、たいした設備があるのでもない。自宅から持ち出した小さな鍋、石を積んで作ったコンロ。乾燥させた木片を、地面から離した場所に積み上げてある。それと、多少の雨風を防げるような覆いを、草や木の枝を使って、頭上に張り巡らせた。これは、この辺りに大人達がやってきた場合のカムフラージュでもある。

 やや薄暗い、この基地の中で、俺は小さな四角い籠から、捕まえた虫を、更にいくつかある別の大きな籠に移し変える。その際、特に肉食系の昆虫については、忘れずに肢をもぎ取っておく。なるべく共食いなどはして欲しくないのだ。別にコレクションとして集めているわけでもないし、どうせ殺すので、その辺はドライにいきたい。ついでに言えば、最終的な目的からしても、肢は邪魔にしかならない。

 こうした一連の作業を終えてから、俺は改めて周囲を警戒する。既に日は傾き、辺りは薄暗くなってきている。近くを通り過ぎる人はいないか。いない。よし。

 俺は、いくつかある籠のうち、一番古いものに手を伸ばす。中には、やはり数匹の虫が転がっている。餌も与えられずに、ただ閉じ込められているので、彼らは飢えており、元気がない。逃げ出そうにも、共食いをしようにも、肢がない。

 そいつらを、俺はいくつか拾い上げる。そして、次々鍋に投げ込む。だいたい、お茶碗一杯分になった、というところで、籠を閉じる。そうして、ざっと水の中をかき回して、虫達を溺れさせる。と同時に、汚れを取り除くという意味もある。そこでいったん水を捨てて、新鮮な川の水を注ぐ。

 そうしたら、薄っぺらい乾燥した木片を用意して、火打石をぶつけ合う。これだが、最初はただ、ぶつけて火花を飛ばせばいいとばかり思っていた。よくよく研究して、むしろこすり合わせるような、ちょうどマッチで火をつけるような要領でやらなければいけないのだとわかってきた。

 火がついたら、まずは枯葉、続いて小枝や小さな木片に火を移す。鍋をコンロの上に据え付け、下から火であぶる。塩は、ごく僅かだが、家から持ち出したのがあるので、ちょっとだけ入れる。

 あと少しだ。……と、焦る気持ちから、ふと我に返る。今、この場を見咎められたら。また出口に取って返して、外を見回す。大丈夫だった。

 しばらくすると、完全に虫達は煮えてしまった。俺は鈍い輝きを残すフォークを取り出して、中から一匹を掬い取る。そのゴキブリはフォークの上で、千切れた肢を強張らせて、仰向けになっている。瞬間的に、生理的嫌悪感がこみ上げてくるが、横を向き、目を閉じて、それをやり過ごす。そして、一気に口に運ぶ。

 何も考えない。ただ、噛む。噛む。噛む。ひたすら噛む。飲み込む。喉に何かつっかえる。水で洗い流す。よし。次。

 最初のうちは、これはエビだ、小エビなんだと言い聞かせながら食べていた。だが、食べる昆虫のエビらしさを無意識で探してしまうのか、どうしても相違点に行き着き、ゴキブリを食べているという現実を直視してしまう。そうして貴重な食料を吐き出したことも、一度や二度ではない。何も考えないのが一番だ。

 それでも、いったん食べ始めてしまえば、勝つのはいつも、激しい空腹感だった。とはいえ、食べ終わってからでも、油断は禁物だ。自分が何をしていたかを思い出すと、衝動的にすべてを吐き出しそうになる。

 ちなみに、肢をもいでおくのは、食べる際の安全性を高めるためでもある。大抵の昆虫の肢の先には、トゲがある。特に後肢には鋭いのが無数にあるのが普通だ。前世でも、東南アジアの国々では昆虫料理の屋台があったりするが、素人は後肢を取らずに食べるので、口の中を刺されまくって、大層痛い思いをするという。

 どうやら今日も、無事、最後まで食べきることができたようだ。改めて口元を水で洗い流す。何かを食べた形跡を残さないためだ。それから、残った水で鍋とフォークを洗う。消えかけた火の前に手をかざし、体を温める。これが消えたら、どうしようか。

 昨日は家に帰らなかった。であれば、今日は帰宅するべきか。大事なのは、バランスの取れた行動だ。


 事情は相変わらずわからない。ただ、あの日から、村には秩序がなくなった。

 驢馬を失って戻ってきた村長は、もう領主の城には出かけようとしなかった。大怪我をしていたのだから無理もないのだが、それなら代理を送ればいいのにと思う。

 村の娘達を売り飛ばす件も、どうなったのか、一向に動きがない。先日、別れを惜しんでいた母娘を見かけたが、二人ともうつろな表情をしていた。苦しい状況ながらも、一緒にいられることを喜ぶ……なんて雰囲気は、微塵もなかった。

 食料その他の財産の共同管理も、宙に浮いていた。それどころか、もはや誰も働こうとさえしなかった。もし動き出すとすれば、それは近くの林に、何か食べられそうなものを探しにいく場合だけだった。

 たまに、村の若い男達が騒いでいたりした。そんな彼らは決まって、夜中になると、村の外にそっと出て行く。だが、たいていの場合、そのまま戻ってくることはなかった。

 いったい何が起きているのか。それはわからない。わかっているのは、今、このリンガ村が飢饉に見舞われているという現実だけだ。


 俺は最近、二、三日に一度、帰宅するようにしている。なぜ毎日ではないのか? 親や周囲の大人の目をごまかすためだ。

 自宅にいても、両親は食べ物を与えてはくれない。泣きついてお願いしてみたりもしたのだが、完全に無視された。村人達の反応も、似たり寄ったりだった。それで、これはもう、自力で食料を獲得するしかないと悟った。

 だが、目に付くわかりやすい食べ物は、すべて大人達が抑えてしまっている。この村には、俺の味方はいない。となれば、他の誰かが食べようともしないものを漁るしかなかった。


 もちろん、最初はもっと別の物を食べようとした。だが、山菜や天然の果実などを集めるには、知識がなかった。野生動物をしとめるには、何よりまず、体力が足りなかった。

 一応、それでも、山の恵みを手にする努力は、今も続けている。大人達が山に分け入る時にはこっそり後をつけて、どんな種類のものを採取しているか、チェックするようにしている。だが、今の段階で既に、そうして得られる食料の大部分は、消費されつくしている。

 幸か不幸か、俺には料理の心得がある。だから、周囲に豊富にあって、しかも誰からも注目されていない食材を生かすことができた。要するに、虫だ。

 これが案外、馬鹿にならない。昆虫は高タンパク低脂肪の栄養食なのだ。しかも、意外に高カロリー。虫なんて食べ物じゃない、という思い込みに捉われている村人達の、なんと哀れなこと。だが、俺だってこうして見捨てられているのだし、いちいち教えてやる義理はない。さながら豊富な魚肉に囲まれながら餓死したグリーンランドのヴァイキング達のように、せいぜい苦しめばいい。


 どんな形であれ、食べ物を得られるのはよいことではあったが、問題もあった。親は食べ物を与えていない。なのに、俺は生きている。普通に考えると、これはおかしい。疑念を抱かれれば、俺の秘密基地も、そこに溜め込んだ食料も、根こそぎ奪われる危険があった。だからこそ、俺は時間を見つけては村に戻り、物乞いの真似事をする。それで食料を分けてもらえたことはないが、周囲の村人は、あれで俺が食い繋いでいると思い込む。

 家に毎日戻らないのも、そういう理由だ。他所の家に勝手に上がりこんでいるのではないか、と想像させるためだった。


 当面のところ、このやり方はうまくいっていた。だが、この先を思うと、不安が大きい。

 今は秋の終わり頃だ。そろそろ昆虫も見つからなくなってきた。今日はたまたま大猟だったが、きっとそれは、冬が近付いて、屋外より、多少なりとも暖かい納屋の中に虫が殺到したからだろう。

 こんな状態で冬に突入したら、今度は何を口に入れればいいのか。シカなどは、冬場に飢えると、木の皮を食べるとかいうが、人間もそれでしのげるものだろうか。

 自分の手足を見る。この年齢にして、なんとひどい姿だろう。痩せに痩せて、筋張っている。脂肪などほとんどないし、筋肉にしても、ほんの少ししかない。

 この世界に来てから、二年と数ヶ月。既に、夢も希望も抱いていない。感じるのは、怒りと絶望だけだ。生活は常に貧しく、苦しかった。周囲の人々はいつも冷たかった。おまけに、期待していた超能力には目覚める気配もない。神を名乗る男の話など、やっぱり無視しておけばよかった。

 今、気にしているのは、遠からず訪れるであろう、死後の身の振り方だ。あの時みたいに、ちゃんと記憶を保てるだろうか。さもなければ、黙って紫色の集団に飲み込まれて、また何かに生まれ変わってしまうのではないか。どうすれば、今度こそ、あの場所に永久に留まることができるだろうか。

 そんな風に死後のことばかり考えるのに、実際には、日々、生きるのに必死でもある。我ながら矛盾していた。そんなに苦しいのが嫌なら、さっさと死ねばいいのに。結局のところ、生きればいいのか、死ぬべきなのか、いや、そもそも生きられるのか、それすらわからなかった。


 石積みの奥で、小さな赤い火が、静かに消えた。

 そろそろ、家に戻らないと。

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