死後の世界

 ……ここは、どこだろう?


 奇妙な光景が広がっていた。途轍もなく広い大広間。床は磨きぬかれてピカピカで、塵ひとつ、見当たらない。その床が映し出しているのは、全体として、紫色に彩られた世界だった。

 広間の向こう側一面には、無数の窓が並んでいる。目測だが、人一人くらいなら簡単に潜り抜けられそうな大きさに見える。ことによったら、もっと大きな動物だって大丈夫だろう。そんなのが、いくつもいくつも、数え切れないくらいある。広間の床に映っているのは、窓の向こうの空の色だ。気味が悪くなるくらいの紫色だった。

 その窓に向かって、無数の影が殺到していた。これまたどれも一様に紫色だったが、その輪郭は、人間に似たものもあれば、ネズミやイヌ、或いは昆虫や植物の種のようなものまで、さまざまだった。それらは続々とやってきては、どれかの窓から勢いよく身投げしていた。

 そんな紫色の集団がどこから現れたのか、出所を目で追っていくと、自分のすぐ後ろの壁に行き当たった。横一列に並ぶ窓と平行に、これも果てが見えない。壁は真っ黒、というか、真っ暗だった。見た目だけでいうと、自分がこれまで背にしていた壁は透明なガラスでできていて、壁の向こう側には真っ暗な世界が広がっている。床もちょうど壁のところで途切れていて、見下ろしても、あまりに暗いせいか、どれくらいの深さがあるのかも、まるで見当がつかない。

 この透明な壁だが、一方通行らしい。すぐ足元の暗がりから、紫色の影がフッと登ってくる。彼らは後戻りすることなく、うつろな表情のまま、黙って前に進む。そうして、いずれかの窓からまた、下へと落ちていくのだ。よく見ると、落ちていく時、彼らの輪郭は崩れ、砂場の砂のような粒子状になっていた。

 それにしても、これだけ大勢が押し寄せている場所なのに、不思議なほど静かだった。暑くもなく、寒くもない。痛みも快感もない。


 それで、これを見つめている俺は何者なんだろう?

 ……「俺」?

 ふと、自分の手を見つめてみる。紫色だった。陽炎のように、輪郭が時折ぶれる。服は着ているようだ。さっきまでの……「さっき」?


 この時になって、ようやく記憶が甦ってくる。そうだ、俺はトラックに跳ね飛ばされた。

 十二月下旬のある日、日本の東京で、歩いて家に帰ろうとしていた。大きな交差点を渡ろうとした時、先日、ボロ市で買った懐中時計を落とした。それを拾い上げようとしたせいか、接近するトラックに気付けなかった。

 あれ? あの時、確かに青信号だったはず。横断歩道を歩いていたんだよな? となると、あのトラックは、信号無視の居眠り運転か何かだったんだろうか。

 まあ、いい。それはそれとして、問題は今、俺のいる場所だ。これまでの人生で、こんな場所があるなんて、見聞きした覚えがない。だいたい、トラックに跳ね飛ばされたのに、どうして俺はこんなところにいるのか。普通は病院のベッドの上だったりはしないか?

 ということは……つまり、そういうことか。


 今までボーっとしていたせいなのか、どうしても頭に霞がかかったような状態だったが、ようやくはっきり認識できた。

 俺は誰だ? 佐伯陽、三十六歳、独身、男性。派遣社員として働くも、クビになったばかり。

 そして……その「俺」は死んだらしい。大型トラックがブレーキなしに高速で突っ込んでくるのを、顔面で受け止めたのだ。痛みを感じる暇さえなく、即死したに違いない。

 少し腹が立ってきた。無謀な運転をしやがって、どういうつもりだ?

 ところが、そんな怒りはすぐに雲散霧消してしまう。そもそも俺には、生きる理由がなかった。妻も子供もいないし、両親も先に他界した。残っているのは、借金まみれの上の兄と、刑務所暮らしの下の兄だけだ。付き合いのある友人だって残ってはいなかった。好きな仕事をやっているわけでもなく、打ち込んでいる趣味があるのでもない。

 ある意味、死ぬのが自然な身の上だった。死後の世界がこんなに静かで、痛みも悩みもないのなら、むしろ早く来られてよかったというものだ。何しろ俺は、体もそんなに丈夫ではなかった。仕事や人付き合いのストレスで、胃潰瘍に苦しんだのも、一度や二度ではない。だがここでなら、そんな気苦労とも無縁だ。しいて言えば、いいことがほとんどないままに人生が終わった、その点に軽い怒りを覚える程度だ。


 ただ、そうなると、別の部分でまた、腹が立ってきた。

 なんてことだ。死ねば終わりだと思って、だからこそ俺は、望みのない人生をやり過ごそうと日々を耐えてきた。ところがどうだ、この光景は。

 暗がりから這い上がってくる無数の影。それがまた、向こうの窓から飛び降りている。これはもしかして……「生まれ変わり」の現場ではないか? ということは、俺もこのまま前に進んで、どこかの窓から落ちたとすれば、またどこかに生まれ変わる羽目になるのか?

 冗談じゃない! やっと死ねた。生きているうちは、死ぬのが怖かった。それはたぶん、何回生まれ変わっても、そう感じることだろう。そして、死ぬのが怖いから、日々の苦痛にも耐えてきた。ところがどうだ。死んでもまた、復活させられる。それも、恐らくだが、過去の記憶は全部なくして、だ。

 同じ失敗、同じ苦しみを繰り返して、また死に、また生きる。やってられるか!


 俺はこの場に、ドスンと腰を下ろした。梃子でも動かない。そう決めた。

 もう一回、生きてみたい奴は、好きにすればいい。でも、俺はもうやめだ。二度と生まれてなんて、やるものか。どんな結果になったってかまわない。たとえどれほど退屈だろうと、朽ちるまで、俺はここに留まる。死んだ俺がもう一回死ぬなんてことはあるんだろうか? もしそうなっても、ここにいてやろう。


 とはいえ、ここはつまらない場所だ。

 なるほど、最初は無数のいろんな影が行き来するので、それを眺めていれば、退屈凌ぎにはなった。ただ、この集団は、どいつもこいつも無表情で、やることといえばとにかく先に進むだけ。音も立てずにただただ登ってきては落ちていく。単調すぎた。

 それで俺は、目の前を通り過ぎていこうとした、とある男に声をかけてみた。


「おい! ハロー? もしもし? ニーハオ!」


 だが、声をかけても足が止まる気配がない。聞こえていないのか。ならばと先回りして、手足をばたつかせてみる。だが、男は足を止めずに突っ込んでくる。

 咄嗟に、思わず両腕で自分の顔を庇う。顔面の前の腕に、何かズシッとした感覚が伝わってくる。なんというか……スカスカの砂袋に、勢いよく砂を突っ込むような感じだ。

 はっとして、周囲を見渡す。目の前に男はいなかった。振り返ると、顔の一部が欠けて、色も薄くなった男の残骸が、それでも変わらず、前進を続けていた。

 ……何か、悪いことをしてしまったのだろうか?

 時々ぼやける俺の体だが、さっきより何か、内側に充実感のようなものがある。どんなものかはわからないが、とにかく、あの男から「何かを奪ってしまった」ような予感がある。

 だが、その男はそのまま前に進んでいき、窓から落ちていった。その姿は、他と変わらず、砂粒に変わる。俺が行く手を邪魔しても、しなくても、最終的な結果は変わりそうになかった。


 うん、割り切ろう。

 ここには他に娯楽もない。それに、ここにいるのは自我のない死人ばかり。ならば好きなようにしたって構わないだろう。ふと見ると、向こうからオスのライオンのような獣の姿が近付いてきた。もちろん、俺に用があるのではなく、ただ単に、窓に向かって歩いているだけだ。

 よし。ここはパンチだ。

 勢いよく拳を叩き付ける。砂の城でも殴ったかのように、俺の腕はやすやすとライオンの顔面をくり貫いた。そしてまた、あの砂がズシッと詰まるような感触を覚えた。殴っても、蹴飛ばしても、ライオンは抵抗しなかったし、振り返りもしなかった。そのまま、窓の向こうで散り散りになった。

 見ると、米粒が宙に浮いている。ゆっくりと窓の向こうへと流されているようだ。手で掴んでみる。俺の手に触れると、軽い衝撃を残して、細かい塵になった。その塵が、またゆっくりと窓のほうへと流れていく。

 今度は、若い女性の姿だ。スーツにタイトスカート……就職活動中の女子学生だろうか? 気の毒に。だが、せっかくだ。俺は彼女の足元に寝転がった。やはり男なら、一度はこれをやらねば。だが、案の定、スカートの内側を覗いても、彼女はまったく意に介さなかった。

 ならばと、俺は慎重に手を伸ばす。薄皮一枚を引っ張るようにして手を重ねると、スカートの後ろの部分だけが、ボロボロと崩れて塵になった。そのまま追いかけつつ、少しずつ衣服を剥いでみた。手を突っ込みすぎると、体ごと崩れるのは、さっき確認済みだ。

 結果、目の保養になる魅惑的な姿になってくれたが、今の俺には何の意味もなかった。ここには苦痛もないが、快感もない。そして、欲望もほとんどない。なるほど、知識や記憶としては、性欲を理解してはいるが、ここにはそれを解消するための肉体などないのだから、当然ではある。

 それにしても、よくよく冷静になって考えてみると、俺も最低だな。不幸にも、若くしてなくなった女性の裸を勝手に見るとか……まあ、本人も気付いていないし、気にするまでもないか。

 そうこうするうち、彼女もまた、窓の向こうに消えた。


 少し怖い気もするが、窓の向こうはどうなっているのだろう?

 俺は窓際近くに立ち、まずは窓枠に触れてみた。うん、これは大丈夫だ。他の紫色の影に押されて、うっかり落ちるなんてことになるのはごめんだ。その点、この床も、壁も、しっかりとつかまることができそうだ。

 窓枠に後ろから手を突きながら、俺はそっと眼下に視線を移した。反対側の絶壁とは対照的に、遥か下のほうからは、まばゆい、どこか温かみを感じさせる光が見えた。

 ちょっと頭を伸ばして、もう少し、ちゃんと見てみたい……が、それは少し、危険な気がする。窓枠の向こう側にも、少しだけ足の踏み場があるのだが、どうやら落下しなくても、いったん窓の外に出ると、即座に体の形が崩れ始めるらしい。これでは、下界の様子も、迂闊に観察することなどできなさそうだ。


 さて、これでもう、できることは終わってしまった。残念ながら、眠気もこない。自分としてはこれ以上、望みも何もなく、ただ永久に、けだるい気分で寝そべっていられれば、何もいらないのに、なぜか無駄に意識がはっきりしてきてしまった。


 そうして座り込むこと……何時間、いや、何日か? 死の間際に拾い上げたはずの懐中時計は、どこへいった? もし手元にあっても、動いてなどいない可能性もあるのだが。あれからどれほど時間が経っただろうか? つまらない。いや、単に退屈という以上に、とにかく刺激が欲しい。

 だが、ここにある唯一の刺激はといえば、一直線に進む紫色の影だけだ。俺はそいつらの集団に向かって、勢いよくダイブした。拳を叩きつけ、蹴りをお見舞いした。子供が砂遊びするように、無数の影を散らしてみた。

 不毛だった。それどころか、ますます何か、こう、自分の体の密度が上がったというか、頭の中にみっちりと何かが詰まっているような感じというか……ここに来たばかりの、あのぼんやりした感じがなくなってきてしまった。


 やめた。

 とにかく、何もしないでいよう。

 そう考え、また腰を下ろした瞬間だった。


「……お前は……意識が……ある……のか……」

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