ここではありふれた物語

@ochikakeru

序章

懐中時計

 まだ夕方の六時過ぎだったが、周囲は既に暗くなっていた。ビルの狭間を縫う都心の道路を時折、自動車のヘッドライトが照らしていた。足元のアスファルトと安物の革靴がこすれて低い音をたてる。

 さっきまで冷や汗にまみれていた指先が、早くも冷えてきた。カバンを左手に持ち替えて、冷え切った右手に吐息を浴びせる。冬場の乾燥にやられた皮膚は、ひび割れだらけだった。

 俺は、ついさっき突きつけられた現実を再確認するかのように、後ろを振り返った。ビルの窓からはまだ光が漏れている。今時、定時に業務を終える会社など、どこにもない。それがどうして、こんなに早くオフィスを出ることになったのか?

 悩みは深まる一方だったが、気持ちは軽かった。いや、サバサバしている、と言ったほうがいい。まさか一ヶ月ともたず、クビになるとは。


 理由はそんなに複雑なものでもない。まず俺の身分だ。正社員と違って派遣の立場では、何の保証もないのが普通だ。以前にも一年契約で入った現場があった。官公庁のシステムメンテナンスが主業務だったが、問い合わせの集中する年度の初めの時期が過ぎ去ると、あっさり解雇された。そうなる可能性は見越していて、俺は彼らにつけこまれないよう、キッチリ仕事をこなしていたのだが。

 そして今回は、それに加えて少々マズいことをやらかした。現場のリーダーのミスを見つけて、指摘してしまったのだ。それ以降、目の敵にされてしまい、こうして職場から叩き出されてしまった、というわけだ。

 真面目にやっても報われない。もう、慣れた。理不尽な扱いに対する怒りと、今後の生活への不安からくる焦りゆえに、さっきまでは手汗が止まらなかったのだが、済んでしまえばこういうものだと割り切れる。

 これもサラリーマンの世界にはよくあること。だが、どうせ我慢して生きるなら、自分の得意分野を生かしたほうがよかったか。今からでも料理人として復帰できる現場があるならば、と思わないでもない。ブランクがありすぎるか。しかしこの季節、いくらでも人手が必要なはずなのだが。

 それにしても、嫌な時期にクビが飛んだものだ。年末年始は求人も止まる。これからあと一ヶ月は、収入が途絶えてしまうだろう。


 俺はポケットから銀色の懐中時計を取り出して、時刻を確認する。六時十一分。七時過ぎには帰宅できるだろう。

 ともあれ、ここにいても無駄だ。俺は歩き出した。


 白い息を吐きながら、夜の街を歩く。年末が近いというのもあって、辺りには華やかなイルミネーションが輝いている。日本人にとってのクリスマスは、年末年始のお休みの、いわば前夜祭のようなものかもしれない。金曜の夜の解放感をイメージすれば、わかりやすいだろう。実のところ、一番楽しいのは、その部分なのだ。

 だが、俺には何の意味もない。イブの夜も働くつもりだったが、こうして暇になってしまった。遊びに行こうにも、無駄遣いできる金などないし、一緒に騒げる仲間もいない。学生時代の友人とはとっくに疎遠になってしまったし、いまや職場を転々とする俺に、同僚なんてものも存在しない。恋人や妻、子供については、論外だ。


 別に天涯孤独の身とまでは言うまい。子供の頃には、一応だが、プレゼントをもらったこともある。確か七歳のクリスマスに、安っぽかったが、色鉛筆のセットをもらったっけ。それにケーキも食べた。同じ小学校に通う友達も、遊びに来てくれていた。俺の人生の中の、数少ない幸せな思い出だ。

 だが、その一週間後の正月はというと、これはもう、なんと言っていいやら。お年玉をもらうどころか、食べるものにさえ事欠いた。

 つまり、こういうことだ。俺の父親は、すぐ暴力を振るう男で博打好き、しかも浮気癖があった。大晦日の前日に父の火遊びがまた露見して、大喧嘩になった。最初はバツの悪そうな顔をしていた彼だったが、すぐに開き直って、母を滅多打ちにした。しまいには、家にあった現金の大半を掴んで、一人で温泉旅行に出かけてしまったのだ。

 では、残された母と俺、それに兄二人はどうしたか? まず母は、やり返せなかった恨みを、物にぶつけた。作り置きしておいたおせち料理を全部ひっくり返して床に叩きつけ、家中の皿を壁に向かって投げた。それでやっと若干の冷静さを取り戻すと、一人で家を出た。実家に逃げ帰る? いいや。実は母にも、いわゆる「恋人」がいた。十歳も年下の学生で、都内で一人暮らししている男だ。電話で連絡を取ると、慰めを求めて、そそくさと立ち去っていった。

 さて、次は上の兄だ。手早く椅子を持ち出して、棚の上にあるお菓子の袋を引っ張り出す。それに冷蔵庫の中のペットボトルもだ。それから友達の家に電話をかける。泊りがけで遊びに行きたい、と頼み込むためだ。巧みに相手を言いくるめると、それ以上時間を無駄にせず、さっさと出て行った。

 そこまで人付き合いも上手でなく、友達も少ない下の兄はというと、もっと堅実な戦略を選択した。上の兄がいなくなったのを確認してから、床に散らばったおせち料理を拾い始める。それを透明なビニール袋に入れる。だが、俺が手伝おうと身を起こすと、凄まじい形相で睨みつける。分け合うつもりはないというわけだ。

 とことん俺を……いや、家族を信じていない下の兄は、一通り集め終えた料理を手に、階段を登る。この時期、冷蔵庫などなくても、ベランダの日陰に置いておけば、それなりに日持ちはするだろう。こうしてまた、日常の暮らしに戻るまで、彼は自室で食料の番人になる。両親の繰り広げる夫婦喧嘩は、何もこれが初めてじゃない。これが夏場なら、冷蔵庫の前に寝床を設置すればいい。慣れたものだ。

 問題は俺だ。現金の大半は父が手にしていて、残りも母と一緒に出ていった。保存性に優れたお菓子は、上の兄が持ち出した。残りの食料も、下の兄が独占している。俺が自由にできるのは、水道の蛇口と、置き去りにされた調味料、それと床にこびりついた料理の欠片だけ。

 家の外に出て、大人の助けを求めては? 以前にもやったことはある。だがそれをすると、後が怖いのだ。世間体を何より大事に考える父が、どんな制裁を下すか、知れたものではない。そもそもつい一週間前に、わざわざ近所の子供まで招いて盛大にクリスマスを祝ったのも、父の見栄だったのかもしれない。

 母に救いを求めて、後を追ったこともある。だが、恋人との甘い時間を邪魔された彼女は、俺を徹底的に無視した。もちろん、情報漏洩を禁じる脅迫が後からついてきたのは、言うまでもない。

 だから、もはや対応策は残されていなかった。少なくとも、七歳の子供だった俺には、何も思いつかない。水を飲んでも体は冷えるし、空腹もひどくなる一方だった。それで俺は、必死に床を舐めた。


 ……道路に面したオープンバーから、橙色の光が漏れている。俺が一歩進むごとに、喧騒が近付いてくる。アルコールに顔を赤くした男女が、夢中になって話をしている。黒い前掛けを下げた従業員が、忙しそうに行き来する。真っ白な皿の上で、野菜炒め……パプリカとピーマンのおかげで、実にカラフルだ……が油のせいで、鈍く輝いていた。皿を一瞥するだけでわかるが、この店、見掛け倒しだ。野菜への火の通りは甘いし、油を使いすぎている。

 そんな中途半端にまずそうな料理も、酔っ払いにとってはたいした問題ではないようだ。いったい彼らはどんな話をしているのだろう。どこにそこまで楽しくなれるものがあるというのか。俺には想像もつかない。

 少しだけ、歩幅を広げた。


 ついに両親は離婚したが、払った犠牲の割に、状況はまるで好転しなかった。長男は父の元に留まり、下の兄と俺は、母に引き取られた。どちらを選んだとしても、苦痛に満ちた生活だったには違いないが、とにかく母には金がなかった。なのに彼女は喫煙をやめなかったし、パチンコ通いも続けた。そういうわけで、俺は育ち盛りの時期、ほとんど安価なインスタント食品ばかりを口にした。そんな中、俺は子供時代からの経験を生かして、日々アルバイトに精を出した……つまり、厨房で働き続けた。職場の賄い飯がなければ、きっと栄養失調で倒れていただろう。

 ほどなく、下の兄は不良仲間とつるむようになった。強くもないのに喧嘩に巻き込まれ、飲めもしないのに酒を飲み、噎せながら煙草を吸った。寝煙草のおかげでアパートを全焼させたために、僅かな家財道具も燃えてしまい、引越しする羽目にもなった。

 上の兄だけは、長男ということで大事にされた。父は変わらず、兄に対しても突発的には暴力を振るったようだったが、やはり一家の跡継ぎは大切だったようだ。大金を出して私立の大学に通わせ、卒業させた。だが、なんでも要領よくこなせる上の兄は、なるほど、人付き合いもうまかったし、就職先にも恵まれはしたのだが、大事な才能をひとつだけ欠いていた。忍耐力がなかったのだ。

 働き始めて三年もしないうちに、わざわざ大企業をやめて、ベンチャー企業を名乗る集団に飛び込んだ。だがそこはハッタリだけの組織で、ろくに収益基盤もなく、要するに、すぐプロジェクトは破綻した。その皺寄せは俺にまで及んだ。というのも、会社の取締役の一人だった兄は、出資する側の立場であり、さりとて手元に金もなく……とすれば、普通に働く弟から借りるしかなかったのだ。その金額、実に二百万円。まだ二十代の前半だった俺にとっては、貯金のすべてといってもよかった。

 いったんは諦めて普通に働き出した兄だったが、俺に借金を返す前に、また安易なチャンスに飛びついた。今度は俺が出資しなくてもよかった。兄は俺と違って、女から愛される体質の持ち主だった。半ばヒモのような暮らしをしながら、俺に借金を返すでもなく、年老いて働けなくなった両親の世話をみるでもなく、好き勝手に暮らした。

 ある日、行方の知れなかった下の兄が、俺を訪ねてきた。とりあえず寝る場所がないから、というので家に上げたら、数日後に部屋にあった金を持ち逃げされた。それだけならまだしも、クレジットカードまで持ち出して、勝手にキャッシングしまくってくれた。後に別の罪状で逮捕されて、今は刑務所の中だが、借金の支払いは俺の責任になってしまっている。総額四百万円。利息がつくので、まだ完済できていない。


 ……ふと、香水の匂いが鼻を打つ。コツ、コツと鋭い音を立てつつ、化粧の濃い茶髪の女が、俺とすれ違う。足取りだけはしっかりしているのに、上半身はというと、器用にも、隣を歩く大柄な男にもたれかかっている。

 男はというと、筋肉質で横に広い体型をしており、服装からして軽薄そうで、また粗暴さの滲み出た顔つきをしていた。ちなみに髪の毛は、短く刈り揃えられた金髪だ。そして、自分に甘える女のほうなど気にかけもせず、手元の携帯電話をいじくりながら、前も見ずに大股に歩いていた。

 男も男だが、女も女だ。この世の中には、こんなのばっかりしかいないのか?


 兄は、とびきり金払いのいい女と結婚した。そうなると、兄も父も、俺にあれこれ指図するようになった。早く結婚しろ、というわけだ。だが、どうも俺は、女性からすると、魅力的な男ではないらしい。年配の女性には受けがいいのだが、それはたぶん、俺が真面目で、腰が低く、モテそうにもないからだ。現金自動支払機とか家畜としては、評価され得るのだろう。一方、若い女性からはサッパリだった。

 一度紹介されて、デートしたこともある。だが、俺がどんなに頑張っても、結果はついてこなかった。俺は彼女に求められるままに、高価なバッグとかアクセサリーを買ってはプレゼントしたが、気がついたら電話にも出てもらえず、メールの返事もなくなっていた。

 そういえば、あの「彼女」は、俺のことを一度も「陽」とは呼んでくれなかった。ずっと「佐伯君」のままだったのだ。


 ……大通りに出た。ここを渡れば、地下鉄に降りる階段がある。路面の上を滑る音を引き連れて、自動車が通り過ぎていった。

 空気が乾いているせいだろうか。自動車の車輪がアスファルトの上を転がる際に聞こえるあの摩擦音が、やけに耳についた。日没からまだ間がないのもあって、ヘッドライトをつけずに走るトラックも、いくつか目に付く。

 危ない、とも思うのだが、ここで一歩、交差点の真ん中に向かっていけば、俺も楽になれるかもしれない、と想像してしまう。


 去年のことだ。別居中の母親は、喫煙に飲酒、夜更かしにパチンコと、自堕落な日々を繰り返していたが、ついに不摂生がたたって、病気になった。それもスキルス胃癌で、発見された時にはもう手遅れだった。

 悲惨なのは、むしろ父のほうだった。数年間、没交渉だったが、ある日、上の兄から連絡を受けて、俺が父を引き取りにいった。好き勝手に生きてきた彼だったが、人生ここに至って、ついに認知症に苦しむことになったのだ。

 認知症は、見た目以上に苦しい。きっと本人の中では、激しい不安が渦巻いていたことだろう。だが、その相手を務める俺も、散々苦労した。何か意思疎通がうまくいかないと、父は途端に癇癪を起こした。仕事から帰ってみたら、家の中がメチャクチャになっていたりとか……それが普通だった。

 自分だけでは手に負えず、兄にも助力を頼んだが、金も労力も分けてはもらえなかった。介護の人を呼ぶにも、やはり金がかかる。そんなこんなでこの一年、だましだましで頑張ってきた。だが、それも先月、終わってしまった。

 平日の昼間に、介護の人の目を盗んでの徘徊中、自動車に跳ね飛ばされたのだ。病院の霊安室で、俺は、事実上無職の兄に詰問された。どうして目を離したのかと。


 ……信号が青に変わった。俺は空想を打ち切る。自殺はなしだ。


 思えば三十代も半ばを過ぎ、もう人生に未練はない。だが、いいじゃないか。両親は世を去った。借金もあと少しで完済だ。なるほど、俺には恋人も家族もいないし、今となっては好きなものも、没頭できる趣味や生き甲斐もない。それでもこれ以上、あえて急いで死にたくなるような何かが残っているわけでもない。俺にとって重要なのは、この人生をいかに「やり過ごす」か。それだけだ。

 どうして俺は頑張ってしまったのか。無駄だとわかっていながら。もしかしたら、ちょっとだけカッコつけたかったのかもしれない。誰に評価されるでもない、自分の中の矜持。そんなもののために、もともとろくでもない人生を、更に情けないものにしてしまう。自分ではキレイにキメたつもりでも、傍から見れば、間抜けなだけ。珍しくもない。この世の中では、それもありふれた物語だ。


 交差点を渡ろうと、足を踏み出す。数歩進んだところで、小さな金属音が耳を撫でた。足元を見ると、小さな銀色の懐中時計が転がっている。さっき取り出して時間を確認したとき、スーツの内ポケットに入れたはずだったのだが……。

 これは先日、俺が世田谷区のボロ市で買ったものだ。たったの二千円で手にできる、ちょっとした贅沢というやつだ。携帯電話で時間を確認するなんて、少々味気ない。それにシステム開発や保守の仕事では、そもそも携帯端末の持込や閲覧が禁止される現場だってある。

 あの時、これに手を伸ばしたのは、ほんの気まぐれだった。


 俺は子供の頃、「賢者の贈り物」という物語が好きだった。まあ、ありがちなお話だ。

 あるところに貧しい夫婦がいたが、夫には宝物があって、それが懐中時計だった。一方、妻にも自慢の宝物があって、それは彼女自身の美しい髪の毛だった。クリスマスの夜、妻は夫にプレゼントをしたかったが、金がなかったので、髪の毛を売った。それで夫の懐中時計をぶらさげるためのプラチナの鎖を買ったのだが、これは無駄になった。あろうことか、夫はその大事な懐中時計を売って、妻のために高価な櫛を買ってしまっていたからだ。

 懐中時計のない鎖。髪の毛のない櫛。滑稽じゃないか。こんなに無駄なものが他にあるだろうか? 互いの宝物を、自分からフイにしてしまった。実に間抜けな二人だ。それこそ、カッコつけて頑張っちゃった俺と、大差ないくらいに。なのに、なぜだろう、こんなにも心惹かれるのは。


 この古ぼけた懐中時計を見た時、ふと、そんな昔の気持ちを思い出したのだ。それでつい、余計な贅沢とは知りつつも、欲しくなってしまった。

 とにかく、落としたのなら、拾うだけだ。俺は上半身を折り曲げて、冷たく乾燥したアスファルトに指を這わせた。その時、耳元に迫り来るエンジン音が聞こえた。

 はっとして顔を上げた。視界いっぱいを、大型トラックのバンパーの灰色が埋め尽くしていた。

 次の瞬間、衝撃を感じて、何もかもが黒一色に塗り潰された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る