嫌いと言いたい

シファニクス

嫌いと言いたい

 嫌い。

 それが正直に言える世界だったら楽なのに。


 私は悟っている、とよく言われる。

 現在高校生。成績は国立大学に頑張れば入れるくらいで、運動神経も悪いということはない。極端に球技ができなかったりする以外は大抵熟せる。

 日常生活に何ら不便はない。両親揃ってそれなりの給料を貰っているし、変に高い賃貸を持っているわけでもなく、毎月問題なく払えるローンで買った一軒家に住んでいる。祖父母の介護が始まっていたりもしないし、幼い妹や弟もいない私を縛る人はあまりいない。

 両親は私にあまり興味はないらしい。信頼してもらえている、と言う自覚はある。実際、私は自分は何でも難なく熟せる人間だと思っている。別にすべてを完璧に熟せる超人を自称しているわけではない。金に困らない程度には働かせて、生活習慣病を予防できるくらいの私生活を送れる。


 要するに、高望みさえしなければ平凡な人生を送れるくらいには優秀な一人娘、程度にしか思っていない。正直に言えば私も両親に対していだいているのは同じ屋根の下で暮らす他人、くらいの感情だ。特に嫌いなわけでもなく、好きなわけでもない。

 話題があれば話はするし、困っていたら手を貸すこともある。一緒に出掛けたりもするけど、別に互いを縛るほどの何かを強制することはないはずだ。シェアハウスをしている友人、と思ったほうが良いかもしれない。


 そんな私は、あまり器用な人間ではない。

 そう自覚し始めたのは、特段理由もなく彼氏を作ってしまってから数日が経過した後だった。


「なあ、明比あけびは休日暇なとき何するんだ?」


 隣を歩きながら語らい掛けてくるそいつの顔には、たぶん何かがこびり付いていた。そうでないと、滅多なことで他人に興味を抱かない私が出会って数日の人の顔をこうも眺めることはないはずだから。


「どうだろうね。気分次第。やりたいと思ったことやるし、やりたいことなかったら、寝てるか座ってるか。何もしてないかも」

「なんだよそれ、変わってるな」


 何が面白いのか分からないが、そいつは隣で笑ってた。表情筋が握った豆腐くらいほぐれ切っているか、ツボが路上の水溜り並みに浅いのか。何が面白いのか分からないけど、そいつは隣で笑ってた。

 人が何で笑うかなんて勝手なのに、隣で笑ってるそいつのことをなんでか面白がっている自分が、何を面白がっているのか分からなかった。


「じゃあさ、このゲーム一緒にやらないか? 面白いぞ」

「へー、気が向いたらやるよ」

「そうか。絶対ハマると思う」


 力強く言って見せたそいつの自信の根源は一体どこにあるんだろう。私の性格や趣味を知らないだけなのか、全人類は自分と同じ感性を持っていると思い込んでいるのか。はたまた保険会社の下っ端営業とか宗教勧誘の類みたいに、自分は本当にいいものだと思っていて他人に勧めたいのか。

 何でもいいけど興味はない。


 ブルーライトを色とりどりに輝かせるが手のひらサイズの画面を視界から外しながら、たどり着いた自販機に向き直る。特に意識することなく取り出した財布から小銭を取り出して投入し、ブラインドタッチでいつものお茶を購入する。

 エンターキーを下げれば出てくるおつりと一緒に商品を拾い上げて、教室までの道のりを戻る。そいつはまだ隣にいた。


「いつもそれ買ってるよな。好きなのか?」

「別に」


 聞かれても分からない。何て鬱憤も込めて素っ気なく返してみる。と言うより、愛嬌を籠める体力がない。


「そうか。俺はどっちかって言うとな――」


 典型的な『肯定』→『自分の意見』の流れにうんざりしながら傾けた耳からそいつの言葉は零れていく。受けて止めてやりたい、なんて少しでも思っていれば拾い上げられるのだろうか。それともやっぱり、そう思っていても体力が残っていないのか。

 拾ってやりたいんだけどな、なんて思いながら聞き流す言葉の中に、私を表す言葉はなかったと思う。


 別に肯定して貰いたいわけでも、他人について知りたい訳でもない。誰かと一緒にいることは疲れるし、好きな物なんて定まらない。いつもどっちつかずで、分からなくなる。

 私は、本当は何をしたいんだろう。


 どこか悟っている、なんて言われる私は論理的な思考と言うか、常識が備わっている。今の私は思春期で、それ特有の悩みに悩まされているんだってことを知っている。思春期時代に自分が分からなくなるなんて若者の宿命で、迷って迷って迷った先に、たぶん答えを見つけられたら大人になれるんだって分かる。

 好きな物なんてなくてもいいし、やりたいことが無くてもいい。歩き続けてさえいればゴールにたどり着ける。だって、絡まっているように見える道は一本道だから。でも不安定な私は幻覚が見えてくるのだ。

 幾数にも増え続ける別れ道が。


「へぇ、なんか明比の部屋って感じがするな」

「どんな感じなの、それ」


 訳の分からなことを言っているそいつに適当に返しながら、私は後ろ手に部屋の扉を閉めた。

 いつの間にか約束してしまっていたらしいお家デートとやらのために、私はそいつを部屋に招き入れた。けど、正直もう帰ってもらいたいし、そいつが勝手に腰かけたベットに顔を埋めて眠ってしまいたい。

 そしてそのまま一生目覚めたくない、なんて考えたところでそいつはスマホを取り出して画面をこちらに向けて来る。


「なあ、この前見つけたんだけどさ、この動画のダンスめっちゃ面白くないか」


 疑問形じゃないだろ。肯定を強要する語調だろ。イントネーションに悪意しか感じない、私は頷きたくない。


「分かんない。ダンスとか興味ないし」


 知って貰おうとは思わない。それでも口を滑らせる。

 ああ、言わなくてよかったと後悔する。余計な一言で、私はまた私をそいつに教えてしまった。


 賢くないって自覚はしてる。考えてから喋んないから、私は口を開く度に後悔する。朝起きて、朝日を見る度に後悔する。


「それでさぁ、って聞いてる?」


 覗き込んでくるそいつの顔に、やはり何かが付いていた。それに意識が奪われて見つめ合った数秒は、私の頬を焼いた。その映し鏡になる様に、そいつは柄にもなく赤くなる。

 まあ、私よりは似合いかな。


「な、なぁ。お前の両親、今日は遅いんだろ?」

「そもそも帰ってこないよ。母さんは出張、父さんは泊まり込み」

「……いいか?」


 何が、なんて聞く気にはなれなかった。

 私は賢い。予想はしてたし、後処理についても考えてある。そいつは大雑把だから心配で諸々の準備もしたし、心持ちは、問題ない。

 不覚にも、初めての体験に胸躍らせる私がいた。もしかしたら、何かが変わるかもしれないって思えて。


 した経験のある人とない人とでは人として格差がある、なんてジンクスを信じ切っていたわけではないけれど。縋る物も思いつかない私は、それだけの物にも手を伸ばしそうになっていた。

 

 伸ばして、触れていた。触れあって、熱くなって。満たされて行くような感覚と裏腹に、全身の穴と言う穴から何かが零れだしていくように思えた。まるで、残っていた最後の一滴まで虚空に満たされて失ってしまったかのように、登り詰めた先で、私は足元を狂わせた。


「じゃ、じゃあな」

「……ん」


 どこか気不味そうに、恥ずかしそうに目を逸らしながら去って行った彼を玄関から見送る。小さく手を振って、見えなくなるまで背中を眺めた。やはり彼の顔には何か付いていた。だから私は、去り際の彼の横顔を見て鼓動が跳ねた。

 驚いたから、そのはずだ。


 でも、でも。

 なんて否定と肯定を繰り返す。

 

 でも、私は皆がやっていることをやっただけ。

 でも、それは私が望んだことではない。

 でも、私は普通の人に近づけた。

 でも、私は私から遠ざかった。


 でも、なんて言葉は幾らでも出て来るのに、他の言葉はは出てこない。したい、も、好き、も出てこない。全身を満たす虚無は、満足感なんて与えてくれやしないんだ。


 だから……何だって言うんだろう。だからどうした。私じゃなくなって、私が無くなってどうするって言うんだ。誰も困ることはない。むしろ、社会不適合者が少しずつ王道に戻って行くのならいいことのはずじゃないか。


 でも、私は私が私じゃなくなることを、酷く恐怖した。私はそんな私が嫌いになった。


 その夜、カバーを剝がされた枕を私は一人びしょびしょにした。翌朝、酷い脱力感と倦怠感に襲われた。何も寝起きだから、と言うだけではない。体を満たす虚無は、下腹部に溜まるように重くなっていった。

 彼との日々を過ごすうち、私は一つだけ自分を好きになれた。


 やっと、そいつが別れを告げてきた。その言葉に、迷わず首を縦に振れた。そんな私が、私は好きになれた。そしてますます嫌いになった。


 嫌いと言えない私が、私は嫌いになった。


 でも、嫌いと言わないことはいいことだ。

 でも、言い出せないと苦しいまま。

 でも、そんなことを言ったら迷惑になる。

 でも、そんなことも言えないなら私はダメになる。


 だから、私は嫌いと言いたい。嫌いと言えないから好きだと思われて、好きだと思われてるから嫌いになれない。


 探してみれば、私はもう一つ私のことを好きになれていた。

 身籠ったことを打ち明けて、独り立ちした私は私以上に大切なもののために頑張れている。初めて何かのために頑張れた私を、私は少しだけ好きになれた。だから大変でも苦しいなんて言えないし、寂しいなんて表に出せない。


私は、嫌いと言いたい。

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