第157話:肉体からの解放
消えていく。
足先から、手先から、髪の先から、自分というものが拡散していく。僕を形作っていたものが散り散りになり、薄れ、掠れ、消え去っていく。
世界の中に自分が存在していると確信させていた、音が、光が、匂いが、感触が、味が途絶えていく。世界と自分自身との境が曖昧になっていく。
ただ僕らしき意識だけが、拠り所もなく浮かんでいる。
まずい。
まずいまずいまずいまずい。
おかしくなる。
自分を保てない。僕が僕でいる根拠がどこにもない。境界が分からなくなる。そんなはずはない。僕の意識と感覚はまだ生きている。目を開いて、なにも見えない、音を聞け、沈黙している。
意識しろ、意識しろ意識しろ。
僕が僕であることを意識しろ。僕という存在が世界に在ることを認めろ。
溶け込むな。無理だ。ほどけそうだ。僕が僕で在る拠り所が、どこにも。
「マイロ様!」
あった。
繋がっている。死霊術師とリビングデッドたちは、独立しているが、術式は僕に接続されている。僕の形が少しだけはっきりする。
目を見開く。
形が、見える。『言葉』だ。世界を定義する『言葉』たち。ウリエラ、マズルカ、サーリャ、書家、蔵書たち、床、壁、それらを構築する木、鉄、石、肉、もっと細かく定義された物質たち。ダンジョンを形作る術式たち。
見え……やばい。
気持ち悪い。
情報量が多すぎる。見えているものの境目が分からない。見方が分からない。僕と繋がっているみんなのことは、辛うじてわかる。でもそれ以外の魂は。
吐きそうだ。でも吐き出せるものがなにもない。吐くための肉体もない。ないはずの頭がひどく痛む。狂いそうになる。
「マイロ!」
ダメだ。ここで止めるわけにはいかない。ポラッカを見つけなきゃ。
どこだ。どこにいる。きっといるはず。ポラッカの魂に紐づく肉体は、もうない。だったらきっと、大好きなマズルカのそばにいるはず。
「ぅ、ぉえ……」
世界と魂の境目を見つけようと、目を凝らそうとすると、頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわされているような感覚に陥る。逆だ、見過ぎちゃだめだ。薄目で見るように、視界を狭める。見るべきものと見ざるべきものの判断が、まだつかない。
出ないつばを飲み込み、吐く息もない口を押えながら、書庫らしき空間の中に視界を走らせる。そのたびに目が回りそうになる。まだだ、まだ堪えろ。
いた。
僕とは繋がっていない、けれど人の形に見えるもの。アンナ。それに、エレメンツィアの姿は、普通の人間と同じように見える。
でも。
いない。
ポラッカの姿は、どこにもない。そんなはずはない。いるはずだ。
見つけなきゃ、絶対に見つけなきゃいけない。
のに。
もう。
限界だ。
「ぅ、げ……ぇ!」
「マイロ様、大丈夫ですか!」
「しっかりして、マイロくん!」
術式を解いた瞬間。
忘れていた身体の重さで、地面に叩きつけられるように頽れる。そのまま口から、内臓がまるごと出てくるのかってくらい、胃の中身があふれ出てきた。
明滅する視界。床についた手足や、ウリエラがさすってくれる背中の感触。呼びかけてくれる声。据えた匂いと酸っぱい口の中。そして、猛烈に痛む頭。肉体がある。僕を世界の中に留めおく器が、戻ってきた。
あんなにも煩わしいと思っていた生きた肉体が、僕を担保してくれる。
安堵で力が抜けて、ギリギリで戻したものを避け、ウリエラの膝に転がり落ちる。
「マイロ様! サーリャさん、治癒魔術を!」
「う、うん!」
大きな手が胸に添えられ、暖かい光があふれるが、あんまり気分はよくならない。息が苦しい。ほんの数秒のはずなのに、呼吸の仕方を忘れてしまったように。
「見せてください」
横から入ってきたアンナが、指で瞼を押し開き、顔を覗き込んでくる。眩しい。頭痛が酷くなる。でも抵抗する力もない。
「これは身体ではなく、精神のほうが混乱しているみたいですね。代わってください、私がやります」
アンナはサーリャと入れ替わると、両手で頬を押さえ、もう一度僕の目を覗き込む。紫の目が、触れそうなほど近くで瞬いている。
「私の目を見てください、マイロ先輩。他のものは視界に入れないで。大丈夫です、身体はなにも異常ありませんよ。息を吸って、吐いて。ゆっくりでいいですからね」
すると、あれだけつっかえていた喉が、自然と通るようになり、肺が新鮮な空気で満たされていく。吐き出して、また吸って。大丈夫だ、僕はここにいる。
「落ち着きましたか?」
「だ、大丈夫ですか、マイロ様……?」
滲んでいた視界が元に戻ってきて、心配そうにのぞき込んでくるみんなの顔が、はっきりとわかるようになる。よかった。物質の世界だ。
「どうにか……僕、どうなってた……?」
ちょっと生きた人間には早すぎる世界を見てしまって、自分の状態がどうなっていたのか、冷静に観察する余裕もなかった。
「その、一瞬ですが、霊体になっていました。エレメンツィアさんと同じように。でもその途端に苦しみだして……」
「そっか。なら一応は、成功でいい、のかな」
傍目から見て霊体化出来ていたというのであれば、僕が狂って悶えていただけとかではなかったようなので、安心する。
「いったい、なにがあったんですか?」
「なんて言えばいいかな……自分がなくなっていったみたいだった。それは持ち直したんだけど、そうしたら今度は、視界のすべてが『言葉』に置き換わった。おかしくなりそうだったよ」
同じ霊体で活動しているエレメンツィアが、どうしてあれで平然としていられるのかわからない。あるいは、見えている世界が違うのだろうか? 感覚はあるのか?
単に慣れの問題だと言われてしまったらどうしよう。僕はこの力を使いこなす必要がある。霊体で活動できるように特訓を繰り返すというのは、あまり考えたくない。
「そ、それで、マイロ。どうだった」
縋るような視線のマズルカが、ウリエラの隣に膝を降ろす。
「マズルカさん、いまは」
止めようとしてくれたウリエラを、手で制する。大丈夫。最優先はポラッカなんだ。ただ、芳しい報告は、出来ないのだが。
「見つからなかった」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。少なくとも、僕らの近くには、ポラッカの魂はいなかった」
ギリ、と。噛み砕きそうなほど歯を食いしばる音。
「そんなはずない、ポラッカはいるはずだ! 書庫をすべて見たわけじゃないだろう! 頼むマイロ、探してくれ! ポラッカがいなかったら、アタシは!」
「お、落ち着いてマズルカちゃん!」
僕の頭の上で、怒号が飛び交う。ごめんマズルカ。僕だって、すぐにもう一度探しに行きたい。でも、まだ力が入らない。
「離せ! マイロ、あの子を取り戻してくれるんだろう! だったら、」
「マズルカさん!!」
珍しい、ウリエラの怒りの声。
「マイロ様は休む必要があります。ポラッカさんのことは、また日を改めてにしましょう」
「……~~~~~ッ!」
サーリャの手を振りほどき、マズルカが背を向けて、荒い足取りで去っていく。
自分が、情けない。
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