第152話:魂と『言葉』
僕が手にしたのは、イルムガルトの書庫の中でもひと際異彩を放っていた、人皮装丁の魔導書だ。
風貌こそ、僕ら死霊術師の使う死者の書に似ているものの、醸し出される狂気は、とてもではないがその比ではなかった。常であれば、手に取って見ることすら躊躇う代物だった。近くにあるだけで、自分が自分でなくなるような気さえした。
「いきなりイルムガルトの禁書に手をつけるなんて、なかなか思い切りましたね」
「遅すぎたくらいだよ。なりふり構ってなんていられないはずだったのに、いままで通り、ウリエラたちと一緒なら、一歩ずつ進んで行けると思ってた。ここでじっくり力をつけられればなんて、呑気なこと考えてるのが間違いだった」
知識は欲しいが、力が必要だったわけではない。自分の正気を賭してまで、深淵に踏み込む気はなかった。以前までは。
けれど、地上を追われた僕に、もうそんな遠回りをしている余裕なんてない。ポラッカを失うまで、そんなことにも気づいていなかった。
だから、読んだ。で、倒れたらしい。
「そうやって無頓着だからかもしれませんね。マイロ先輩の精神が、ギリギリで踏みとどまっていられたのは。おかげで私も、こうして繋ぎ止めておくことが出来ます」
どうやらいま、僕が僕でいられているのは、アンナのおかげらしい。
誰もいない書庫の中、あおむけで床に寝そべり、アンナの手に目を塞がれながら、自分の状況を少しずつ思い返していく。
「なんとなく、思い出してきた。ページをめくるごとに、自分が世界に押しつぶされていくような、底の見えない暗い穴に引きずり込まれていくような感じがした」
「無理もありません。あれは、ネクロノミコン。死霊術師の使う死者の書の、そのすべての原書。生と死の境を超えようとする、真っ当な人間には狂気の手引書です」
「どうりで」
死者の書に似ているわけだ。
でもおかげで、どこを読めばいいのかが分かりやすかった。僕が必要としている知識が、どこに記されているのか、本能的に理解できた。
アンナ曰く踏みとどまれたというのは、余計な情報を無視できたからかもしれない。それでもこの有様だが。
「倒れたって言ってたけど、僕はいま、どうなってるの?」
「いまのマイロ先輩は、一気に押し寄せた知識に、魂を翻弄されています。私がその記憶に制限をかけて、少しずつ、マイロ先輩自身が噛み砕いて行けるように誘導していた、と言えばわかりやすいですかね。身体は眠っていますよ」
なるほど。
薄々気付いてはいたが、ここはどうも、僕自身の内側のようなものらしい。アンナは、エレメンツィアにそうしていたように、催眠術で干渉してきているようだ。
「じゃあ僕が話したウリエラたちも、みんな幻みたいなものか」
「正確には、マイロ先輩自身でもあります」
「僕自身?」
「ええ。マイロ先輩の焦り、絶望、怒り。それらがウリエラさんたちの姿をとって現れたんです」
言われてみれば彼女たちはみな、僕が求めているものを、それぞれ別の形で求めているようだった。力や、拠り所や、取り戻したい大切なもの。
兄さんやエレメンツィアには、僕を誘導する役目もあったようだが。
「皆さん、怒ってましたよ」
「え、なんで?」
「さあ。それは、目が覚めてから聞いてみてください」
ええ……怖いな。
「それで、求めていた知識は見つかりましたか?」
「うん」
アンナの手が、顔の上から離れていく。まだ頭は痛むけれど、理解と飲み込みが進んだからか、我慢できる程度には落ち着いている。目を開くのはちょっと怖いけど。
そう。もう、理解できた。
魂がなんなのか。
人格を形成し、その生き物の本質を規定する情報。つまるところ、魂は。
「魂は、『言葉』だ」
あらゆる物質の根源要素である魔力。その形を定義し、世界の摂理を定義するのが『言葉』だ。魔術師はそれらを読み解き、術式として再編して魔術を行使する。
魂も同じだ。
生命の発生と同時に収集され、取捨選択され、人物を定義づけていく情報の集合体。個人を定める『言葉』。それが魂だ。
魂が『言葉』であるなら、同じ『言葉』を扱う魔術で改変ができる。
そして、その人物を定義するのが魂という『言葉』なのであれば、その強制力を強めれば、肉体の側を変質させることも可能だ。ライカンスロープのように。
「やっぱりそうでしたか。このダンジョンのモンスターを見ていて、おそらくそうなのだろうな、とアタリはつけていましたが」
そうだ。
ダンジョンの中のモンスターたちも同じだ。本来その生物が持ち合わせている性質を無視して、ダンジョン内を闊歩し、探索しているものを襲うことを優先して行動している。
ダンジョンを形成する術式に、魂を書き換えられているということなのだろう。アンナはそこから、魂の正体を類推していたわけだ。
「どうりで魔術学院でも、魂の本質に踏み込もうとしないわけだよ。魔術で人間の根幹を書き換えられる、なんてことになったら、危険すぎるもの」
それに、教会との対立も深まるだろう。
魂は不可侵の領域。そう教えることで、無用なパニックを防いでいたわけか。
「もっとも、重要なのはここからです、マイロ先輩。マイロ先輩は魂の本質を理解しました。ですが理解しただけでは、死者たちの王にはなれませんよ。その知識を、どう扱うつもりですか?」
わかってる。
僕は死者たちの王として、既に死体すら失っているものたちに接触するために、魂についての知識を求めていた。
ならば次は、彼らに接触する方法を考えなければいけない。
「もう目星は付けてるんだ。そのためにまず、僕自身の魂を読み解かないと」
目を開けて、僕を構成する『言葉』を理解しなければ。
「厳しい旅になりますよ?」
「覚悟の上だよ」
細い指が近づいてくる気配がして、今度は目ではなく、額に置かれた。撫でられているように、指が髪を梳いていく。
「もう、マイロ先輩を守っていた私の檻はありません。目を開けてください」
今度こそ、本当にアンナの手から放り出されて、自分で必要なものを求めないといけないわけだ。
余計なものを見るな。僕は、頭に流し込まれた知識で混乱している。それを理解して、必要なものだけを見ろ。
ここは僕の中だ。僕が見るべきなのは、僕だ。
繰り返し自分自身に言い聞かせ、ゆっくりと深く呼吸し、意を決して目を開いた。
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本年もどうぞよろしくお願いします。
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