第147話:深く暗く

 亡霊は、書棚の前に、ぼう、と立ち尽くしていた。


「エレメンツィア?」


 声をかけても、返事はない。視線が動くこともない。光のない目は下を向いているが、目線は床を見ているわけでも、つま先を見ているわけでもなかった。その目は、なにも映していない。


 一緒に来たウリエラも、そんなエレメンツィアに痛ましげな表情を見せている。


「隣、いい?」


 訊ねながら、返事を待たずにエレメンツィアの隣に腰を下ろす。案の定反応はなかったが、否定も、立ち去りもしなかったので、僕はそのまま一緒になって、ぼうっと書庫の中の景色に視線を投げだした。


 ウリエラもおずおずと近づいてきて、僕の反対の隣に腰を下ろす。


 そうするとようやく、エレメンツィアに動きがあった。


「マイロ」


「なに?」


「殺せる?」


 相変わらず言葉数が少なくて、もうひとつ真意が読み取りにくい。ただ、明るい質問ではないことだけは確かだ。


「ええと、誰を?」


「私を」


 ほら、やっぱり。


「君は死人だよ、エレメンツィア。死人を殺すことは出来ない」


「死霊術師なのに」


 そんな言われ方をしてしまうと、なにもできないと思われているようで癪だ。


 エレメンツィアの望む死というのが、いまある霊体からの解放だと言うのなら。


「二つ、方法はないではないよ。仮初の命を手放して、ただの死者に戻すだけなら、僕じゃなくてもできる。ウリエラに魔術を使ってもらって、霊体を破壊すればいい」


 あるいは聖典の祝福で、霊体を維持している『空白』を祓っても同じだが、この場には修道士がいるはずもないので、割愛。


 エレメンツィアの目が、ウリエラを無表情に見下ろし、ウリエラは気まずそうに見上げた。


「そう」


「ただ、それが君の望む安寧になるかはわからないよ。君が見た通り、死者の魂は、どうやら死の瞬間の苦痛に囚われるようだから」


 エレメンツィアは、また黙り込む。


 死者の魂が、死の瞬間の苦痛や絶望に囚われ続けるのだとしたら、いまのエレメンツィアが抱く苦しみは、魂になっても続くことになる。いつか、いつともわからないいつか、魂そのものが消滅するときまで。


「もうひとつは?」


「僕が呪霊で、君の魂を食い破る」


 呪霊は、呪詛を吹き込んだ魂そのものを、相手の魂にぶつける魔術だ。呪霊による攻撃を受けた魂は、消滅して二度と復活することがない。そう考えられている。


「なら、やって」


「いやだよ」


「なんで」


 決まってる。


「君の救いになるとは、到底思えないから」


 そもそも、魂が消滅しているというのも、単に死霊術によって呼び出すことが出来なくなるからだ。それが本当に消滅しているのか、あるいは単に、なにか呼び出しに応じられない状態に変わっているだけなのか、僕らは判断できない。


 なにより、呪霊は死者たちの恐怖を強く煽る。


 もしも呪霊の攻撃で、存在が消滅するのではないとしたら。


 永劫、その恐怖に囚われ続けることになる。


「いい」


「よくないよ」


「やって」


「嫌だって」


 冷気が、降りかかってきた。


 エレメンツィアの顔が、目の前にある。目と鼻の先。ほんの少し前のめりになっただけで、触れてしまいそうな距離。僕の頬に添えられた両の手は、感触こそないものの、触れたところから熱が奪われているように冷たかった。


「マイロ様!」


 慌てて杖を握るウリエラを、手で制する。まだ、大丈夫。


「私を、消して。もう意味がない。なにも。ゴーストでいる意味も、存在している意味も。私には、意味がない」


 透けて、向こう側がうっすらと見える、半透明の身体。なのにエレメンツィアの目には、なにもかもを吸い込んでしまいそうな、底知れぬ闇が口を開いているようだった。触れればきっと、もう二度と光を見ることのできない、闇だ。


「すべてだった。私には、お嬢様がすべてだった。あの人に仕えることが、私の意味だった。なのに」


 主人への忠義、敬愛、愛情。それらをすべて踏みにじられたあとに残る、虚無。


 たぶん僕は、この目を知っている。僕はきっと、兄さんに呼びかけられるまで、こんな目をしていたんだと思う。


 だからこそ、その闇に、エレメンツィアを連れて行かせたくなんてない。


「ごめんね」


「なんで、謝るの」


「僕にもっと力があれば、君を苦しみから解放できたかもしれないのに。せめて君が、僕のリビングデッドだったなら」


 本人の望みによって、死霊術の術式を解いてやれれば、なんの痛みも苦しみもなく、ただの死者に戻れる。そうしてやれれば、どれほどよかったか。


 頬に触れる手に、自分の手を添える。冷たい。触っている感触はないけれど、触れている存在は感じられる。


「せめて僕に、もう少し時間をくれないかな。魂について解き明かして、君を安らかに送り出す方法を探すよ。どうかいますぐに消えたいなんて、言わないで。その先に待っているのは、もっと永い苦しみかもしれない」


 闇が、少しだけ揺れた。


 冷気が離れていく。ほっぺた、しもやけになってないかな。


「……どっか行って」


 エレメンツィアはそう言うと、床に腰を下ろし、膝を抱えて顔をうずめた。塞ぎこんでしまった。そう簡単に立ち直るなんて、出来ないのはわかっていたけれど。


 ただまあ、虚空を見つめて立ち尽くしているよりは、いいかもしれない。


 僕は立ち上がって、ウリエラとともにその場を離れることにする。エレメンツィアのためにも、研究を進めなければ。魂について解き明かさなければ。


「……あなたは、いいね」


 去り際に、ぽつりとエレメンツィアの呟きが聞こえた。かすかに顔が持ち上がって、目が僕らを……いや、ウリエラを見つめている。


「主人のそばにいられて」


 羨望だったのか、嫉みだったのかは、わからない。


「……生者は、裏切ります。でもマイロ様は、決して死者を裏切りません」


 ウリエラの言葉に、エレメンツィアの顔がまた沈む。残念ながら、僕からかける言葉はもうなかったので、今度こそその場を離れる。


 さて、どうすれば魂について学べるだろう。やはり禁書に手を出すしかないのだろうか。果たしてあれを読んで、僕は正気でいられるのかどうか……。


「マイロくん!」


 書棚の間の、床に積みっぱなしの文献のところに戻ろうとすると、今度はばたばたと騒がしい足音が聞こえてくる。大きな影が、慌ただしく駆け寄ってくる。


「サーリャ、どうしたの? マズルカたちと一緒じゃなかったの?」


 木の皮で胸元と腰回りだけを隠した、大きなアルラウネの少女は、マズルカや兄さんと一緒に、白兵戦の特訓をしていたはずだ。


「来て! マズルカちゃんの腕が折れちゃったの!」


 どうやら、だいぶ白熱した訓練をしているようだった。

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