第142話:亡霊騎士エレメンツィア(1)

 五年。


 想像もできないほど長くはなく、だが空白のままにするには短くない時間。


 エレメンツィアが死んで正気を失っていた五年の間、彼女が生まれ育ち、仕えてきた家は、変わっているところもあれば、変わっていないところもある。


 荘園の風景や屋敷の様相は、あまり大きく変わって様子はない。開墾された畑が増えていたかもしれないが、相変わらずブドウを育てているし、屋敷も使用人たちによってきれいに手入れされ続けている。


 夜も更け、もうほとんど明かりも落とされている屋敷の中を歩きながら、エレメンツィアは生きていた頃の記憶を辿った。


「ひっ」


 対面から歩いてきた使用人が、蝋燭の灯りに照らし出されたエレメンツィアに悲鳴を上げて、道を開ける。


 見覚えのない顔だった。自分が死んだ後に雇われたのだろうか。


 景色はそう大きく変わっていない。変わったのは、人の方だ。


 荘園の農夫も屋敷の使用人も、知った顔は順当に歳を重ねているし、知らない顔もいくつかあった。


 中でも一番変化していたのは、グラストン卿の家の内情だ。


 最期の記憶では生まれる寸前だった末の子は、もう五歳になっていたし、グラストン卿自身ももう半ば引退を決め込んでいる。


 そしてなにより。


「お嬢様、まだ起きてたんだ」


「あら、エル」


 ずっと探し求めていた主人の、かつてと変わらない部屋に入り、エレメンツィアは声をかける。ゆったりとしたネグリジェに身を包んだマルグリットは、鏡台の前で振り返り、微笑んだ。


「マイロ様のお相手は、もうよろしいの?」


「うん。寝ちゃったから」


 エレメンツィアが答えると、マルグリットはまた微笑んでから鏡に向き直り、櫛で髪を梳いていく。


「ねえ、エル。あなたとこうしてまた言葉を交わせるだなんて、わたくし夢にも思っていませんでしたわ」


 鏡の中のエレメンツィアに、マルグリットはそう語り掛ける。


「私は、ずっと探してた」


 その間の記憶は、大半が曖昧な夢の中にいたような感覚だ。


 けれど、ひとつだけ確かな記憶がある。マルグリットが連れ去られた瞬間の、底知れぬ闇のような絶望。その瞬間が無限に続き、エレメンツィアをこの世界に縛り付け、突き動かし続けていた。


「エルは変わりませんわね。過保護で、わたくしのことになるとすぐムキになって」


「いつもお嬢様が無茶するから」


「……そうだったかもしれませんわね」


 エレメンツィアは、変わっていない。五年の間止まり続けていた時は、つい数日前に動き始めたばかりだ。


 だがマルグリットは、変わった。


 根の快活さこそ変わらないが、ずっと落ち着いた雰囲気を湛えている。歳を重ねたからか、ダンジョンでの経験がそうさせたのか。冒険者を引退して以来、家督を継ぐために勉強を続けているという。あるいは、この家の次期当主であるという気負いが、そうさせているのだろうか。


 ただ、なにか。


 それだけではないような。


「もう離れない。今度は、絶対に守る」


 それでも、マルグリットはマルグリットだ。エレメンツィアが、すべてを投げ打ってでも守るべき、主なのだ。


 エレメンツィアの決意に、マルグリットは答えなかった。


「お嬢様?」


「エル。死者と生者がともにいるって、どんな感じかしら」


 代わりに返ってきたのは、なんの脈絡もない問いだ。


「……?」


「あなたはマイロ様や、彼のゾンビのみなと、しばらく過ごしていたのでしょう? どんな感じだったのかしら、と思ったの」


「別に……普通」


 ダンジョンの書庫の中で、間違いなく自分たちは死んでいて、マイロだけが生きていた。食事や睡眠が必要なのも、マイロだけだった。死者である自分たちと、生者であるマイロは、なにもかもが違っていた。食事も睡眠も、必要なのはマイロだけだ。


 けれど、それだけ。


 エレメンツィアはマイロのリビングデッドではなかったが、彼は他のゾンビたちと同じようにエレメンツィアを尊重していたし、エレメンツィアもまた、マイロと対等な立場で取引をした。


 ウリエラやマズルカたち、他のゾンビに至っては、時折マイロと睦みあってすらいた。生きた男と女と同じように。


 なぜそんなことを聞くのだろう。


「そうですわね。彼は死霊術師ですもの、それが普通なのかもしれませんわ」


「関係ないと思うけど」


 別に誰が相手でも同じだ。


 死者と生者は、種族が違う程度の差異しかない。それがエレメンツィアの、正直な感想だった。


「そうでしょうか。わたくしには、そうは思えませんわ」


 マルグリットは立ち上がり、エレメンツィアの隣を過ぎ、寝室の扉へ歩いていく。どこへ行くのだろうか。


 同時に、なにか。


 エレメンツィアの騎士としての勘が、なにか不穏な気配を伝えてくる。


「生者と死者がともに過ごすなんて、正しくないことなのよ。きっとどこかで歪みが生じる。やがて、身を亡ぼすことになりますわ」


「なにを言ってるの」


 それよりも。


「ごめんなさい、エル。わたくし、こうしてあなたともう一度話せて、本当に嬉しかった。でも、あなたはもう死んでいるの。それを覆すべきではありませんわ」


 マルグリットは変わった。


「わたくしは、この家と、荘園の皆を危険に晒すわけには参りませんの」


 マルグリットは、あんな風に悲しそうに笑う少女ではなかった。


「お嬢様!」


 寝室の扉が、外から乱暴に開かれる。マルグリットが脇に退くと、廊下から複数の人影がなだれ込んでくる。


 聖印の刻まれた騎士甲冑。聖騎士だ。どうして。マルグリットは、さも当然のように聖騎士たちの後ろに控えている。


「どうして、お嬢様」


 エレメンツィアは剣を抜く。すべるように走り、先頭の聖騎士に切りかかる。ゴーストになって、生きていた頃よりもずっと軽く動けるようになった。


 けれど、鉄の重みも空気の抵抗すらもなく降り抜かれた長剣は、聖騎士の盾に阻まれた。霊体が鎧をすり抜け、彼らの肉体に触れなければ、生命力を切り裂くことが出来ない。


 バルバラ商会で戦った時と同じだ。聖騎士の装備には銀が使われている、とマイロは言っていた。銀の装備は霊体に干渉できる。


 ならば逆も同じだ。聖騎士が剣を振りかざす。銀の剣。幾度も経験した戦いの記憶が、エレメンツィアに盾を掲げさせる。だが。


「ぎ……ッ!?」


 剣は盾で受け止めた。はずなのに。


「いっ……た……!?」


 腕を切り裂かれたような激痛に、反射的に後方に飛び退った。


 どうして。防いだのに。一瞬考えて、すぐに理解した。マイロは言っていた。盾も鎧も、霊体で構成されたゴーストの身体の一部だと。


 いまのエレメンツィアは、裸で敵の前に立っているも同然なのだ。


「お嬢様……」


 どうして。どうして彼らがここに。


 混乱するエレメンツィアを、騎士たちが取り囲んでいく。


 どうして。


「エル、どうか正しく、死んでください」


 答えは、ひとつしかない。マルグリットが、彼らを呼び込んだのだ。


 だとしたら。


 エレメンツィアは、咄嗟に身体を透過させる。もっと、もっと薄く。霊体を構築する魔力が薄くなり、物体をすり抜けさせる。エレメンツィアは床をすり抜け、真下の客間へと降り立つ。


 どうして。やっぱり。


 危惧した通り、マイロたちにもまた、暗殺者の魔の手が忍び寄っていた。

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