第125話:吸血鬼の誘惑
灯りになるようなものはないのに、不思議と明るい書庫の中。
捕まえたバンシーを囲んで観察していた僕らに、アンナは興味深そうな顔をして、紫の髪を揺らしながら近づいてくる。その後ろから、警戒した様子のマズルカたちも顔を見せている。
「嫌がる女の子を捕まえて取り囲んでいるなんて、なかなかすごい絵面ですね、マイロ先輩。相手がゴーストじゃなかったら、かなり邪悪な光景ですよ」
「うぐ……僕だってわかってるよそれくらい。でも話が通じないんだから、縛っておかないとこっちが危ないよ」
このバンシーは、騎士の彼女は、死体じゃない。生き物の本質である、魂が魔力を纏って姿を現しているようなものだ。僕だって、こんな扱いするのは本意じゃない。
「それにしても、マイロ先輩の気持ちが固まったのか聞きたかったのですが……どうして突然ゴーストを?」
「まさしく僕らの今後のためだよ。死者たちの王になるかどうか、についてはまだ決めかねてるけど、このままじゃ人間たちに擦りつぶされて終わるのも確かだ。せめてなにか、対抗できるようにって思ったんだけど」
「それで、ゴーストに目を付けたわけですか。良いですね、そういう研究にどん欲なところ、私は好きですよ。むしろ、そうやって力を求めていけば、行きつくところは同じです。もう心は決まってるんじゃないんですか?」
アンナは面白そうに口の端を釣り上げて笑いながら、僕に近づいて上目遣いに見上げてくる。やめてやめて。ほら、ウリエラたちがすごい怖い顔してるから。
「まだわからないって。僕にそんな、みんなを率いるような力なんてないし」
「そうですか……私は急ぎませんからいいですけどね。マイロ先輩は、そんなにのんびりしていて大丈夫なんですか?」
痛いところを突いてくる。
追われる身の僕らに、悠長にしていられる時間なんてない。だからと言って、アンナの口車に易々と乗るわけにもいかない。ここまで来ておいていまさらではあるが、アンナは危険な吸血鬼なのだ。
「ほらほら、決めてしまいませんか? 王になっていただければ、私もマイロ先輩の配下になります。好きなように使ってくださいな。戦場でも、ベッドの中でも」
「いまので一気になりたくなくなった」
「なんでですか、失礼な」
「信用ならなさすぎる! そっちにどんなメリットがあるのかさっぱりわからないし! だいたい君、アンデッドだけど死者じゃないでしょ!」
そう。吸血鬼であるアンナは、死んでいない。だから、僕が死者たちの王になったところで、彼女の上に立てるわけじゃない。
「やっぱり鋭いですね、マイロ先輩。でも気持ちは本当ですよ。私は、死者たちの王に恭順を示し、持てる力と知識を捧げます。先輩が王であってくれる限りは」
ダメだこれ、完全によくない誘惑だ。
「……~~~~~ッ保留! もう少し考えさせて!」
「えー……案外優柔不断ですね、先輩」
ええい、うるさいうるさい。
「もういっそはっきり断ったらどうなんだ、マイロ」
「わたしはおにいちゃんが王様っていうのも、アリだと思うけどなあ」
「わ、私はどちらでも、マイロ様のものですので!」
「どっちでもいいんだけどこのバンシー早くどうにかしてよー!」
断れない時点で半分くらい誘惑に負けている、という事実から目を背けながら、拘束しっぱなしのバンシーに向き直る。いまはこっちが優先だ。
「それよりさ、アンナはこのバンシーの感情を鎮めることとかできない?」
「私の提案は受け入れてくれないのに、私の力を当てにするなんて、なかなかのクズっぷりじゃないですか、先輩」
「やっぱり聞かなかったことにして。僕らでなんとかする」
頭を振って、力を借りられないか、なんて甘い考えを追い払う。
どうしてかこう、アンナは変に気安く接してくるせいで、親しい相手だと錯覚しそうになってしまうのだ。助けてもらった事実と同時に、僕らをこの地底深くまで追い込んだ原因でもあるというのに。
「ふふ、冗談ですよ。仕方ない先輩のために、ひと肌脱いであげるとしましょうか」
ああもう、迂闊なことは言うもんじゃない。こうしてますます、アンナは僕たちの中に入ってきてしまう。
「どれどれ……なるほど、見事に悲嘆の狂気に飲まれていますねえ。これはなかなか骨が折れそうですが、まだ自我が消えているわけではなさそうですから、引き戻せると思いますよ」
アンナは、いまだにもがいて抵抗を続けているバンシーの様子をざっと眺めると、顎に指を当てて、ひとつ頷いた。
「……狂気に飲まれてるのは、『空白』の影響?」
ここまで来たら同じだと、半ば開き直って、ずっと確かめなければと思っていたことをアンナに訊ねる。
「いいえ、順序が逆です。もう一度この世界に戻りたいという、魂を狂わせるほどの未練が、『空白』を呼び寄せたんです」
「なら、ウリエラは?」
赤い目が、ぱっと僕を見た。
「君はウリエラにも『空白』を宿させた。『空白』は、ウリエラを脅かしたりはしないの?」
「マイロ様……」
ひんやりとした手が、僕の手に触れた。僕はそれを握り返す。
僕がゴーストを知りたかったのも、それだ。もしもゴーストが『空白』によって魂を捻じ曲げられていたとしたら。ウリエラが同じようにならないとは限らない。
アンナは振り返ると、小さく微笑んだ。
「安心してください。多少魔力を引き出した程度では、たいした影響はありませんから。少なくとも、ウリエラさん個人には」
「それって、どういう」
「おっと、サービスはこのバンシーについてまでです。『空白』について知りたいなら、私のお願いを聞いてくださいね」
そう言うとアンナは、霊体を拘束している台の上によじ登り始める。どうするつもりかと見ていたら、バンシーの上に跨って、その顔を至近距離から覗き込み始めた。
「ほら、こっちを見てください。あなたの悲しみはあなたを支配するものじゃありませんよ。あなたが悲しみを支配するものなんです。よく見てください。私の目を。見つめてください、あなたの悲しみを」
まるで触れているかのように、バンシーの頬に手を添え、アンナは額がくっつきそうなほど顔を近づける。
すると、がたがたと拘束台を揺らしていたバンシーの四肢が、徐々に大人しくなっていく。
「わ、わ……縛られてる女の子の上に跨って、そんな……」
「変な言い方しないでよ、サーリャ……」
「マイロくんたちがいっつも私の中でするからでしょー! この間だって、マズルカちゃんとポラッカちゃんと……!」
「だからそれはごめんってば!」
「次は絶対私の番なんだからね!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐサーリャの台の上で、バンシーの身体から力が抜けていく。
「こんなところですかね」
やがてアンナが顔を離すと、その下で、理性の光を宿したバンシーの目から、涙が一筋零れ落ちていった。
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夜は近況ノートにてサポーター限定エピソード『120.5話:マズルカとポラッカに食べられる』を更新します。
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