第123話:死霊のくちづけ
視界が揺らぐ、足がどろどろに溶けた、あるいは足元がぐずぐずにぬかるんだようで、まともに立っていられない。バンシーの絶叫に、頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわされた。
倒れないように、咄嗟に近くの岩壁に手をついた。バンシーはどうしてる? まだ揺らされている頭をどうにか動かして、岩の向こうを覗こうとする。なのにどうしてか、身体が押し付けられているかのように、動かすことができない。
違う、これ、岩壁じゃない。地面だ。僕は倒れてたのか。
認識すると同時に、世界の上下が戻ってくる。吐きそうだ。起き上がらないと。
「……! てよ……の……!」
ずっと耳鳴りが続いている。目の焦点が合わない。誰かが腕を振り回している。あれは、サーリャ?
「……ないで! 近づかないで、この……ひ、やあぁ!」
サーリャだ。身体の透けたバンシーに向かって、サーリャが出鱈目に蔦状にした腕を叩きつけている。だがその攻撃は、すべてバンシーの身体をすり抜けている。
それじゃダメだ。魔力を伴った攻撃じゃないと。
バンシーが、消えた。
「ぁ……ッ!」
まばたきする間もなく、バンシーはサーリャの目の前に迫っている。大柄なサーリャの目の高さに浮かび上がり、両手を頭の後ろに回し、
そのまま、口づけをした。
「ん、んんんんん~~~~……ッ!?」
死の口付けだ。ゴーストはああやって、相手の生命力を吸い取ってしまう。ウリエラもやはり、あの口付けで生命力を奪われ、心臓が止まったのだ。
だが。
バンシーはサーリャから顔を離し、首を傾げている。落ち窪んだ眼孔に、青白い光が灯るばかりの目だが、不思議そうな表情に思えた。
「な、なにするの、離れてよ! もう、マイロくんにもしてもらってないのに!」
サーリャはまったく堪えた様子もなく、また腕を振り回す。
当然だ、リビングデッドに生命力なんてあるはずがない。チャンスだ。いまのうちに立て直さなければ。
「ウリエラ、マズルカ、ポラッカ! 大丈夫、動ける?」
「わ、私はどうにか……」
「ぐ……うぐ……」
「ぅぇぇ……」
ウリエラは動ける。でもマズルカとポラッカがまだダメだ。こうなったらもう、捕まえるとか言ってる場合じゃない。ウリエラの魔術で、
「あっ、ダメ、マイロくん!」
「え?」
目の前に、顔があった。
青白く、うっすらと向こう側が透けて見える、頬もこけ、目を光らせた、亡者の顔。およそ人間的な理性や思考なんて、毛ほども残っていなさそうな、死霊の顔。
「ひ、」
ヤバい、死ぬ。
まだ触れてもいないのに、身体の芯が凍てついていく。足先がしびれそうだ。手が伸びてくる。顔が、近づいてくる。
ほとんど無意識に、右手を振った。感触。死者の手袋をはめた右手が、バンシーの首を掴んでいた。触れられる。バンシーの表情が歪む。
「この……!」
-キ、ァ……!
ばたばたと手足が暴れる。僕の手を引きはがそうと、振り回される腕がすり抜けていく。そのたびに、腕がかじかんで震えたが、絶対に離してやらない。
バンシーが口を開く。マズい。
「マイロ様!」
右手のすぐそばを、なにかが通り過ぎる。同時に、バンシーの顔が目の前から消えた。吹き飛ばされたバンシーのあとには、ウリエラが杖を振りぬいた格好で、肩で息をしていた。
「ご、ご無事ですか!?」
「助かったよ、ありがとう! バンシーは……」
思いっきり頭を殴打されたからだろうか、バンシーは身悶え、喘いでいる。
「いまのは、魔術?」
「い、いえ、杖に魔力を通しただけで……」
それで殴っても通じるのだったら。
「サーリャ! バンシーを捕まえて!」
「えっ、でも、私触れなかったよ!?」
「魔力を通すんだ! 魔術を使うときみたいに、そうすれば触れられる!」
「や、やってみる!」
サーリャの腕が、木の根のような姿になって伸び、蔦のようにバンシーの身体に巻き付いて……縛り上げた。
突然触れられたからだろうか。慌てたように逃れようとするバンシーを、サーリャの根は手足と胴を拘束して動きを封じる。
さらに、悲鳴を上げようとした口を塞ぐと、もうバンシーに出来ることはなにもなかった。
「つ、捕まえた……えっ、私ゴースト捕まえちゃった!」
「すまない、まったく動けなかった。どうなったんだ……?」
「ぅぐぅぅぅ、気持ち悪いぃ……」
ようやく回復してきたマズルカたちも、のろのろと起き上がってくる。
彼女たちとバンシーは、相性が最悪だった。拘束されている姿を見た途端、嫌そうに顔を顰めている。
「一応聞くが、そいつは連れ帰るつもり、なんだよな?」
「うん、ひどい目に遭ったけど、またとない研究の機会だからね」
「うー……わたしはあんまり近づきたくないよう」
すっかり苦手意識を持ってしまったところ申し訳ないけれど、このバンシーは今回の狩りで一番の収穫だ。彼女の構成要素を解析できれば、死霊術でゴーストを操れるようになるかもしれないのだ。
「わ、私にもお手伝いさせてください! 魔力のことなら、お力になれるかもしれません……」
「もちろん! 二人で徹底的に調べ上げよう」
「はい!」
よし、早く書庫に帰って、このバンシーがどうやって成り立っているのか、解き明かさなければ。
おっと、それにもちろん、もともとの目当てだった獲物たちも、連れて帰るのを忘れないようにしなければ。
「え、ま、待ってマイロくん。もしかして私、これずっと捕まえてないのいけないの!?」
サーリャに呼び止められ、少し考えてみる。いまバンシーを拘束しているのは、サーリャの変幻自在で、魔力を通すことのできるアルラウネの身体だ。
いまこれに代わる、他の拘束手段は……。
「……ごめんサーリャ、しばらく我慢してくれる?」
「ええええええ! うそでしょ! なんかすごい冷たくて気持ち悪いんだけどー!」
「あ、あとで埋め合わせするから! お願い!」
駄々をこねるサーリャをどうにか宥め、僕らは当座の拠点である、イルムガルトの書庫へ帰るのだった。
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