第116話:城

 沼地の終わり。岸に上がって進めば、水辺から離れた広場が待ち構えている。


 ここまで本当に、ただ後ろをついて歩いているだけだった。なにか出てきたところで、アンナが片手間に撃退してしまうのだ。手の出しようがない。


 かつては灰色王の配下であったという、吸血鬼アンナターリエの規格外の能力に戦慄したり、クルトたちは無事らしいという、心底どうでもいい情報を聞かされたりしているうち、僕らは第30階層の階段へとたどり着いた。


 ここからはいよいよ、未知の領域だ。


 厳密にいえば第30階層も、僕らには未踏の地だったわけだが、上の階と景色が変わらない、というより、周りがほぼなにも見えないので、いまひとつ実感が湧かなかった。


「さ、降りますよ。まだ歩けますよね、マイロ先輩」


「もちろん、行けるよ」


 気合を入れなおし、アンナに続いて階段を下りていく。ウリエラたちも緊張しているのか、いつもより少し身を寄せ合って進んで行った。


「ちょっと面白い景色が見れますよ」


 階段が終わる直前、アンナがそんなことを言った。


 やがて階段が終わる。第31階層に辿り着く。途端に視界が開ける。


「なんだ、これ」


 以前、噂に聞いたことはあった。


 第31階層から下には城があるという、ダンジョン探索の最前線を駆け抜ける冒険者が流した噂だ。その話を聞いた僕の脳裏に浮かんだのは、城壁に囲まれ、尖塔がいくつも建っている、物語の挿絵に登場するようなお城だった。


 けれど、これは。


「確かに、つくりは城っぽいけど」


 夜の闇のような暗い空、らしきものの中に、いくつもの塔が見える。切妻屋根を被った、石造りの塔。まるで街並みのように、あちこちに塔が並び立って、背丈を競っている。


 だが僕らがいるのは、塔の足下ではない。塔のうちのひとつの、てっぺん近くにいる。階段を下って出てきた先は、塔と塔の間を繋ぐように設えられた、回廊だった。


 回廊の淵の手すりから下を覗き込むと、ずっと下に伸びる塔のほかにも、巨大な城館の屋根や、庭園のようなものが見える。


 問題は、それらがすべて、どこかでお互いに繋がっているということだ。


「待って、嘘でしょ。これ全部ひとつの城なの……!?」


「こ、こんな、街よりも大きなお城なんて……」


 ただただ、唖然とするばかりだ。ダンジョンの中が常識外れなことなんて、とっくにわかっていたつもりだった。でもここは、その中でも段違いの非常識さだ。


「下にも回廊が見えるな。ここを降りることは出来るのか?」


 マズルカの言う通り、尖塔沿いに別の回廊が走っているのが見える。縄や、僕らならサーリャの力を使えば、降りられてしまいそうだ。


「出来ますよ。普通に下の階に行けます」


「え、できるの?」


 いままでの階だったら、あり得ない話だ。道を外れてしまえば、死ぬか、行方不明になるかだったし、そもそも下の階が見えることもなかった。


「この階層は特殊でして。第31階層から第35階層まで、ひとつの迷宮として繋がっているんです。階層ごとにいくつも階段がありますし、中には階をひとつ飛ばして繋がっている階段もあります。上下にどう繋がっているかも把握し、最終的にこの城の最下層を目指さなければいけないわけです」


「うえー……めんどくさいやつだ……」


 サーリャが舌を出して嫌そうな顔をするが、僕も同意見だ。普通に攻略を進めてここまできていたら、ちょっと心が折れていたかもしれない。


「さ、こっちです。ついてきてください」


 そこからもアンナに続き、僕らは巨大な城の中を歩き回る。


 塔を下り、廊下を進み、階段を上り、ホールとテラスを通り抜け、また階段を下りる。正直言うと僕は、途中で道順もわからなくなっていた。ひとりで帰れ、と言われたら、いろんな意味で絶対に無理だ。


 ひとつだけ確かなのは、僕らはここまで足を踏み入れた、初めての人間になるということだけ。冒険者の踏破最深部は、第32階層のはずだ。ここに辿り着いた冒険者が、どういう基準で第32階層まで踏破した、と宣言したのかは不明だが。


「さて、着きました。ここです」


 豪奢な絨毯が敷かれ、斧槍を携えた甲冑が並ぶ廊下の先で、アンナは立ち止まる。行き止まりのようだが……廊下の奥の壁に、ダンジョンには不釣り合いな、巨大な肖像画が飾られている。どこかで見たことのある、老人の肖像画だ。


「えっ!?」


 ウリエラが目を瞠って声を上げた。


「ウリエラ、誰だかわかる? 見覚えはあるんだけど、思い出せなくて」


「私も、どっかで見た気がするんだけどなあ」


「な、なに言ってるんですか! 大賢者ロートレック師ですよ!」


 言われて、思い出した。そうだ、学院にも肖像画が飾られていた。五人の灰祓いのひとり、賢者ロートレック。魔術学院の創設者であり、この迷宮の作者でもある。


 そのダンジョンの地下深く、城を模した迷宮に、肖像画。いかにもわざとらしい。


「少し待っていてくださいね」


 アンナは肖像画に手を伸ばし、なにか術式を走らせ始める。なんとなく、次に起こることが予想できる。


「あ、絵が!」


 案の定、巨大な額の中の絵柄が変わり始めた。ロートレックの顔が歪んだかと思えば、ぼやけ、掻き消え、乾いていたはずの油絵具が形を変え、気付けば、ひとつの部屋の風景が現れている。


 無数の書物が収められた棚が並ぶ、書庫の絵だ。いや、絵、じゃない。


 アンナは風景画に変わった絵の額縁に近づくと、当然のように手をかけ、額縁を乗り越えてしまった。向こうに、本当に書庫があるんだ。


「なにしてるんですか、来てください」


 慌てて額縁を乗り越え、書庫に足を踏み入れる。


 途端に、背筋が震えた。反射的に身体が硬直する。全身が締め付けられるようだ。


「マ、マイロ様、ここって」


「うん……ここにある書物、どれも魔導書だ。それも、学院の図書館なんか目じゃないほどの、ヤバいやつが揃ってる」


「まさか、まさかと思いますけれど、この書庫は」


 アンナが振り返り、笑った。


「お察しの通り、ここに収められているのは、イルムガルトが所蔵していた魔導書たちです。さて、マイロ先輩。少しお話ししましょう。マイロ先輩が求めるべき、力について」

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