第113話:死を忘るるなかれ

 見誤った。完全に僕のミスだ。スワンプトードの打たれ強さを、まったく認識できていなかった。


 どうやってか、『空白』から力を得ているわけでもないのに、スワンプトードはウリエラの雷を耐えきった。そしていま、マズルカを丸呑みにした挙句、身体を反転させ沼の中に引き返そうとしている。


 冗談じゃない、沼の中に連れ込まれたら、もう取り返しがつかない……!


「サーリャ、止めて!」


「待て、こんの……!」


 無数の蔦状になったサーリャの腕が、スワンプトードに絡みつく。足元にも根を張り、渾身の力で踏ん張っている。


 だというのに。


「う、そ……力強……っ!」


 サーリャにかかれば、どんな力仕事も容易だと思っていたのに。スワンプトードの力はサーリャと拮抗するどころか、蔦が引き千切れんばかりに抵抗している。


「ウリエラ、止めを、あ、ポラッカ!」


「返して、おねえちゃんを返して! おねえちゃん!」


 ポラッカががむしゃらに駆け出し、スワンプトードの頭によじ登ると、拳で握った矢をその頭に繰り返し叩きつける。


 でもダメだ、あれじゃスワンプトードは止められない。それでも煩わしくはあるのだろう、スワンプトードは、その巨体をとりわけ大きく振り払った。


「きゃあっ!」


「いやぁっ!」


 ポラッカの身体が振り落とされ、サーリャの蔦が引き千切られる。ウリエラの魔術は、まだ発動しない。マズい、マズいマズいマズい。


 死者の手袋を嵌めながら、走り出す。こいつなら、防御や耐久力を無視して攻撃することが出来る。とどめを刺せなかったときどうなるかは、考えていられない。せめて足止めできれば。


「おねえちゃん!」


 スワンプトードの身体が、水に沈んでいく。間に合え、間に合え!


 ありったけの力で走り、沼に飛び込……もうとした。


「さすがに無茶ですよ、マイロ先輩」


 誰かに、肩を掴んで止められた。覚えのある声。見覚えのある少女が脇から歩み出ると、彼女は岸部に屈んで、水面に手を触れた。


「凍てつけ」


 泥が舞って濁りきった水面が、白く変色していく。違う。凍り付いていく。表面だけではない。沼の水が、軒並み凍結していく。


 瞬く間に広がっていく冷気は、いまにも水中に身を沈めんとしていたスワンプトードまでもを、容赦なく呑み込んでいく。今わの際に異変を察知し、水上へ逃れようとしたのか、巨大蛙は、頭だけを氷の上に出した、奇妙な氷像と化していた。


 そんなことが出来る人物を、僕はひとりしか知らない。


 少女が立ち上がって、振り返った。紫の髪、紫の目。


「アンナ、どうしてここに」


「いまは私のことより、マズルカさんを助けるのが先じゃないですか?」


 吸血鬼アンナターリエは、目を細め、口の端を釣り上げ、いたずらっぽく笑う。


 問い詰めたいことはあまりにも多かったけれど、僕たちはその言葉通り、マズルカを助けるのを優先せざるを得なかった。



 幸いにも凍結は、スワンプトードの体内までは及んでいなかった。マズルカも分厚い巨大蛙の肉に包まれていたおかげで、全身の骨折以外はたいした損傷もない。スワンプトードの血と体液にまみれていたのが、一番の被害なほどだ。


 消化され始める前に助けられて、本当に良かった。


「久しぶりに、本気で死ぬかと思った。いや、もう死んでるんだが」


 損傷の修復を終え、冗談めかして笑うマズルカの胸を、ポラッカの拳が叩いた。


「ばか、おねえちゃんのばか! 本当に怖かったんだから!」


「……すまん、心配をかけたな」


 胸に顔を埋めて泣きじゃくるポラッカの姿は、久しぶりに年相応なものに見えた。だけど僕に、それをなだめることはできなかった。


 怖かった。僕も本当に、怖かった。マズルカを失う、その寸前だったんだ。


「ごめん、マズルカ」


「マイロ? どうして謝る」


「油断してたんだ。君たちはゾンビで、少しくらい傷付いても壊れない。それにあぐらをかいて、敵を甘く見てた。沼に引きずり込まれたら、どう頑張っても助けられなかったのに」


 スワンプトードが、どういうつもりでマズルカを呑み込んで逃げようとしていたのかはわからない。けれどもし逃げられていたら、僕にできるのは、ただマズルカを死体に戻すことだけだった。


 後悔に歯を食い縛っていると、ウリエラも隣に来て、頭を下げる。


「私も、申し訳ありません。あいつは、身体に纏った泥で身を守っていたんです。水棲の敵には雷の魔術を使えばいい、なんて安易に考えていたせいで、姿を見失うはめになって……私が、違う魔術を使っていれば」


「ま、待て待て、油断していたのはアタシも同じだ。いや、みんなそうだろう。アタシはこうして無事だったんだ。同じ過ちを犯さないよう、肝に命じればいいだけだ」


 そうかもしれない。でもそれは、結果論だ。


 マズルカが無事だったのは。


「それより、どうしてお前がここにいる、アンナ」


 鋭く睨み付けるマズルカの視線の先で、アンナは悠然と岩の上に腰かけている。


「もちろん、マイロ先輩に会いに来たに決まってるじゃありませんか。そうしたら、なんだか大変なことになっていたので、力を貸してあげたんです。感謝の言葉くらい、いただいてもいいと思うんですけれど」


「貴様、ぬけぬけとよくも、」


 激昂しそうなマズルカを制し、一歩前に出る。


「おや」


「マイロ、お前」


 僕は深々と、アンナに頭を下げた。マズルカの愕然とした気配を感じるが、彼女がいなければ、本当にどうなっていたか。


「アンナ、マズルカを助けてくれて、本当にありがとう。お陰で大事な家族を失わなずにすんだ。そりゃ、言いたいことは色々あるけど、とにかく、ありがとう」


 しばらく頭を下げていたが、誰もなにも言わないので、そっと顔をあげる。


 見ると、ウリエラもマズルカも、みんなそれぞれにアンナに頭を下げていた。アンナは面白そうに笑っている。


「私、マイロ先輩のそういうところ、好きですよ。でも」


 アンナは笑いながら、僕らの姿を見回す。観察するように、舐め回すようにじっくりと。


「少しはマシになりましたけど、やっぱりまだ、中途半端なままですねえ」


 いつの間にか目の前にいたアンナが、僕の頬に手を添えた。

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