第106話:下へ下へ

 あらかた荷物も纏め終わり、今度こそ僕らは、新天地へ出発する準備を終えた。


 いつ以来か、使わずにしまっていたかばんに、毛布や着替えをまとめ、厳選した数冊の書物を詰め込んだ。個人の荷物は僕が一番多く、次いでウリエラ。マズルカやポラッカは、ほとんど手ぶらに近い。


 かさばる鍋や食材は、ひとつに纏めて布でくるみ、サーリャに担いでもらっている。相当な重量があるはずだが、大柄で力持ちのサーリャは、簡単に立ち上がって走り回ってみせた。さすがトレントの集合体。


「それで、ここからはどうするんだ?」


 各々荷物の中身と、背負って動けるか、戦闘になったらすぐに手放せるかを確認し終えると、マズルカが鎧の革帯を締めなおしながら訊ねてくる。


「本当なら、順繰りに階を下りていって下層を目指す、って言いたいんだけどね」


 残念ながら、僕らは逃亡犯だ。ダンジョンの階層をひとつひとつ進んで行く、なんて悠長なことはしていられない。


 この辺りの階層は、まだ活動している冒険者も多く、時間をかければかけるだけ、彼らと遭遇してしまうリスクも増えていく。さすがに昨日の今日で、僕らを狙っている人間がそこかしこにいる、とは思わないが、可能な限り誰にも会いたくはない。


「極端な話、深い階層に行けば行くだけ、他人に遭遇する確率は減る。だから一気に、いま行ける最深部に飛ぶよ」


「いま行ける最深部、というと」


「僕とウリエラが行ったことのある限界、第29階層。行けるよね、ウリエラ?」


「あ、えっと、はい、転移は可能だと思います……けど……」


 ウリエラの表情は不安げだ。無理もない。第29階層と言えば、このダンジョン探索のほぼ最前線だ。その深さまで潜れる冒険者は、ほんの一握りしかいない。


 かつて僕らがその階層まで下りた時、ウリエラの魔術はほとんど敵に通じなかった。当たり前だ。成長できなかった彼女の魔力は、駆け出し冒険者に毛が生えた程度のものだった。


 どうしていたのかと言えば、ケインたち前衛と、僕の操っていた傀儡ゾンビで、ごり押しで進んでいた。改めて思うと、やっぱり戦闘能力は高かったんだよなあ、ケインたち。


「うぇぇ、一気に十四階も下りるの? 大丈夫かなあ」


 サーリャが加入してからは、そこまで下りたことはない。マズルカやポラッカの表情にも、不安が浮かんでいるようだった。


 あんまり安心させてあげられないかもしれないが、はっきり言わなければ。


「心配になるのもわかるし、実際、モンスターたちも相当強力になってる。純粋な戦力という意味だと、マズルカやポラッカは、少し力不足だと思う」


 だからこそ、潜ってこられる人間も少ない。加えて、地下に進むほど広さを増す迷宮は、第29階層まで行けば、もはやガストニアの街よりも広大になるのだ。


「む……そうだな、わかっている」


「うー、もっと強くなれればなあ」


 致し方ない。


 マズルカは生来の戦士としての能力と、ゾンビとしての打たれ強さで戦ってきたが、結局は現状で頭打ちなのだ。敵を圧倒できるのもこの辺りまでだろう。ポラッカにしても同じく。


 ここから先は、より高い技量や、魔力密度の高い身体から放たれる強力な攻撃が必要になる。


 もしも彼女たちだけで降りてしまえば、すぐに全滅の憂き目にあう。


 しかしパーティとして見れば、話は別だ。


「僕たちには、サーリャがいるからね」


「えっ、私? で、でも昨日だって、がむしゃらに暴れてただけだし……」


「それだけでも充分脅威だけど、君はいま、僕たちの中でいちばん多彩な能力を持ってるんだよ。連携次第で、マズルカもポラッカも、実力以上の力を発揮できる」


 彼女は盾にも矛にもなれる、オールマイティな能力を備えている。上手く活用できれば、戦闘は格段に有利に進むはずだ。


「で、出来るかなあ」


「僕も指示を出すから、一緒にがんばろう」


 肩を叩こうと思ったけれど、サーリャは僕よりずっと背が高い。仕方なく、手の届く腰の辺りをぽんぽんと叩いた。


「ひゃんっ! も、もう、マイロくん!」


「え、なに、ごめん?」


「もう……ほんとに無頓着なんだから……でもわかった、やってみるね」


 そしてもちろん、忘れちゃいけない、僕らの最大火力。


「ウリエラ」


「は、はい!」


「君が主砲だよ」


「……~~~ッ! はい!」


 さあ、向かうとしよう。ダンジョンのより深みへ。



 真っ白。


 僕らの視界は、その一色で覆いつくされている。右を見ても、左を見ても、辺りは白い霧に包み込まれ、十歩も離れてしまうと、仲間たちの姿すら見えなくなる。


 あまつさえ。


「気を付けろ、この先で右に曲がってる」


「了解、踏み外さないようにね」


 感覚が鋭く、先頭を勤めるマズルカが、片手を上げて注意を促す。


 僕らの歩く足元は、湿った土に覆われ、わずかに下草が顔を出している。マズルカの言葉通り、行く手でその道が突如として途切れ、右手に折れ曲がっている。


 途切れた先に待ち構えているのは、濁った水面だ。覗き込むと、多少は澄んだ上澄みのすぐ下に、黒々とした泥が堆積しているのが見て取れる。一度足を踏み入れてしまえば、抜け出すのは困難だ。


 ちゃぷ。ちゃぷ。前方だけではない。右からも左からも、水音が聞こえてくる。


 イルムガルトの大監獄、第29階層。このエリアを構成するのは、深く濃い霧が支配する、ひとたび飲み込まれれば決して出られぬ、底なしの沼地。その中を複雑に走る、細い土手道である。


「ひいぃいん……踏み外しそうでこわいよう」


 大柄なサーリャは、僕の後ろでか細い悲鳴を上げながら、恐る恐る歩を進めている。


「うるさいぞ、サーリャ。敵に気取られたらどうする」


「わ、わかってるけどお」


「でも不思議だね。森の中もそうだったけど、ここもまるで外みたいに、ずっと明るいんだ」


 ポラッカが周囲を見回しながら、ほう、と息を漏らす。


「でも間違いなく、ここもダンジョンの中なんだ。さっきも話したけれど、この辺はもう敵だけじゃなくて、罠も仕掛けてあったりするから、気を付けてね」


「うん。でもなんで、こんなよくわからない作りになってるんだろうね」


 ポラッカの素朴な疑問は、僕ら魔術師にとっての最大の疑問でもあった。


「それを知りたくて、学院はダンジョンに人を送ってるんです。大賢者ロートレックは、この迷宮に関する詳しい記録は、残していなかったそうですし」


 そもそもいまのダンジョンは、かつての様相とは全く異なるものになっている。果たしてそれが、当初から設計されていたのか、不測の異常事態なのさえ、僕たちはわかっていないのだ。


「ここは、わからないことがあんまりに多すぎる。いまの僕たちにとっては、それが好都合でもあるんだけどね」


 わからないからこそ、身を隠す余地が多分にあるのだ。


「しッ! 黙れ!」


「あ、ごめん、うるさかったよね」


 みんな知らず知らず、饒舌になっていた。無意識に緊張を紛らわそうとしていたのかもしれない。


「違う……来るぞ!」


 ばしゃんっ!


 ひと際大きな水音が弾けたのは、マズルカの警告の直後だった。

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