幕間

第103話:子犬のブラム(3)

 ブラムには二つの心があった。


 記憶を取り戻したブラムは、制御しきれないほどの怒りに駆られた。


 自分からすべてを奪った、偽りの家族への、強い怒り。彼らは、自分の家族のふりをして、大好きだったすべてを奪い取った。花の香りも、それを纏った大好きな人も、その人がくれるおいしいご飯も、遊んでくれる優しい手も。


 ずっと忘れていた記憶が蘇ると、湧き上がった怒りが、ブラムを突き動かした。特にあの恐ろしいウリエラは、殊更に憎かった。


 手足を引きちぎり、はらわたを引き裂き、頭を噛み砕きたかった。他に怒りを発散する方法も知らなかった。


 それは為らなかった。


 ウリエラが杖を振うと、光が女の姿を作った。ブラムはその姿を思い出していた。優しくて大好きだった、花の香りを纏った人の姿。


 その姿に気を取られている隙に、ウリエラ以上に恐ろしい気配を纏ったマイロが、ブラムを打ちのめした。マイロの腕が叩きつけられると、恐怖と、しばらく味わっていなかった苦痛が、ブラムを襲った。魂が削られ、自分を構成する情報が、散り散りに砕けていくような心地だった。


 しかし、『空白』から力を得ていたブラムの魂は、それをしのぎ切った。たくさん削られたが、魂そのものを砕くことは出来なかった。それはマイロの未熟であり、反動はマイロ自身が受けることとなったが、ブラムは知る由もない。


 ただ、ブラムの魂を覆いつくしていた憎悪は、粉々に砕け、心の隅にある感情のひとつへと戻った。


 すると、もうひとつの心が顔を覗かせた。


 楽しかった記憶、嬉しかった記憶、美味しかった記憶。彼らは偽りの家族だったが、間違いなく自分に愛情を注いでくれていた。ご飯もくれたし、遊んでくれたし、狩りの仕方も教えてくれた。


 特にマズルカやポラッカには、遠くか細くも深いつながりを感じていた。ずっと昔からのきょうだいだったと、疑いなく信じてしまうほどに。大好きだった人のことも、忘れてしまうほどに。


 彼らは確かに、家族だった。


 だからブラムには、二つの心があった。


 偽りの家族への怒りと、家族への愛おしさ。


 ブラムは混乱した。自分がどうすればいいのか、わからなかった。ただ少なくとも、もう彼らと家族でいられないことだけは、理解していた。


 だから、背を向けた。


「ばいばい、トオボエ! いままでありがとう!」


 ポラッカの声に見送られ、ブラムは駆けだした。中庭にいた冒険者や衛兵が、突如現れたバーゲストの姿に恐れ戦いたが、ブラムには関係なかった。


 ブラムは走った。中庭を突き抜け、塀を飛び越え、夜の街を駆ける。


 走っていると、散り散りになっていた心が、だんだんひとつにまとまってくるようだった。


 偽りの家族のことは大嫌いだ。でも大好きだった。だから大嫌いだ。


 だけど。


 自分は大好きだったものを思い出したんだ。だったら、大好きなもののところへ向かえばいいんじゃないいか。自分はもうトオボエじゃない。ブラムなんだ。ブラムと呼んでくれた、あの優しい人のところへ行こう。


 幼かったブラムは、自分が街のどこに住んでいるのか、街がどんな構造をしているのかなんて知らなかったが、彼にはダイアウルフの、いまやバーゲストとなった肉体の鋭敏な嗅覚が備わっている。


 なによりブラムは、大好きだった香りを思い出している。香りを辿って走ることなんて、マイロたちと戦うよりもずっとずっと簡単な話だった。


 ブラムは走る。夜の街を一心不乱に駆け抜ける。


 やがてブラムは、住宅街に辿り着く。大通りからはひとつ外れ、人通りも穏やかで、閑静な一角だ。素朴な花屋が店を開くには、うってつけの、平和な地区。


 見覚えのある景色に、ブラムはますます足を速める。ここだ、ここだ! ここが僕の家だ!


 幸運なことに、あるいは不運なことに。


 もう陽も落ちて時間も経つというのに、店主の女性は、起きて店先に立っていた。バルバラ商会襲撃の騒ぎで、街全体がざわめき、不安に駆られて外の様子を確かめようとしていた。


 ブラムは歓喜の声を上げた。彼女だ! ご主人だ! 僕の本当の家族だ!


 店主は、喉を引きつらせ、恐怖に悲鳴を上げることすらできなかった。突如として彼女の前に現れたのは、黒い影をほとばしらせ、赤い目を光らせた、恐ろしく不吉な魔犬だった。


 ご主人! 帰ってきたよ! 撫でてよ! 遊んでよ! おなかすいたよ!


 ブラムは飛びかかった。店主は訳もわからぬまま、逃げようと背を向け、結局一歩も踏みだせぬうちに、樹木をもへし折るバーゲストの顎に、胴を噛み砕かれた。


 ご主人! ご主人! 大好きなご主人! 帰ってきたよ!


 ブラムは大喜びで首を振った。マズルカもポラッカもサーリャも、みんなこうやっても平気で遊んでくれたから。きっと主人も、同じように遊んでくれると信じて。


 店主の悲鳴で周囲の人々も、惨劇に気付く。誰もが悲鳴を上げ、恐れと敵意をブラムに向ける。


 ブラムにはそれが、ひどく煩わしかった。せっかく大好きな主人と再会できたのに、どうして邪魔をするのだろう。そうだ、ここを離れよう。大好きなご主人と一緒なら、どこだっていい。


 ブラムは駆けだした。その口に店主を咥えたまま。街を飛び出し、夜の闇の中へと消えていった。


 後日、ガストニアの冒険者ギルドに、二枚の手配書が張り出されることになる。


 一枚はバルバラ商会を襲い、会長ロドムを殺害した、邪悪な死霊術師マイロの。


 もう一枚は、大事な家族を失った悲しみから、少しずつ立ち直ろうとしていた花屋を殺し、その死体を咥えて逃げた、バーゲストのものだった。

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