第100話:僕の居場所

 滲む視界に、見覚えのある石造りの天井が見え、はじめに浮かんだのは、どうやら死ななかったんだな、という当たり障りのない感想だった。


 呪霊に魂を食い破られていたなら、死霊術を使っても呼び出せはしないのだから、リビングデッドにされたという線もない。身体の感覚もある。まだ、気だるさはいくらか残っているが、死んでしまいそうなほどではない。


 死は、乗り越えたらしい。


 目やにでごわつき、まだ焦点をうまく合わせられない視界の中で、誰かが僕の顔を覗き込んでいるのが分かった。


「マイロ様」


 ウリエラ。


 黒銀に輝く髪の向こうから、よく見知った赤い瞳が覗いている。その顔が見られただけで、僕は安堵して、気を抜いたらもう一度眠ってしまいそうだった。


「おはよう、ウリエラ。おはようでいいのかな」


「はい、朝です。おはようございます、マイロ様。みなさんも、別室にいます」


 なんでもない日のような挨拶。ただこれだけで、僕はよかったんだ。


「……」


「……」


 なにから口に出せばいいのかわからなくて、僕らはしばらくの間、黙ってお互いの顔を見つめていた。


 白い肌。赤い目。しなやかに線を引く眉。薄い唇。丸い頬。


 きれいだな。


「マイロ様」


 見惚れていると、ウリエラがぽつりと口を開いた。


「うん」


「私は、マイロ様のそばに、いたいです」


「うん。僕も、居てほしい。でも別に、僕のご機嫌なんか窺わないでいいんだ。望みや不満、思ったことは、なんだって言ってほしい。それで僕が君を見放したりなんて、絶対にしない。ただ、」


 それでも、僕がなにかを望むとしたら、ひとつだけ。


「僕の居場所になってほしい」


 仲間とか、家族とか、煩わしい言葉を使っていたから見えなくなっていたんだ。


 結局僕の望みは、サーリャと同じだ。


「ここに居ていいよって、言ってほしいんだ」


「……わた、私も、言ってほしい、です」


「うん。ここに居て、僕のそばにいて、ウリエラ」


「はい。私のそばにいてください、マイロ様」


「たくさんお話しよう。ウリエラのやりたいこと、たくさん聞かせてほしいな」


 ウリエラは、少し目線を宙に泳がせ、思案する。


「私の、したいこと……」


「うん。なにかやりたいことがあるなら、僕の許可なんて取らなくていいよ。まあ、今回みたいにいきなり出て行かれちゃったりすると、心配になるけど」


 冗談めかして笑っていると、ウリエラは真剣な表情で、少し肩を震わせながら、ベッドに横たわったままの僕の上に、身を乗り出してくる。


 赤い目が、近づいてくる。


「え、と、ウリエラ……んむ」


 唇を塞がれた。柔らかく、ひやりと冷たく、恐る恐る、少し震えながら。


 息のし方なんて、一瞬で忘れてしまった。まばたきだってできやしない。指先を少しでも動かしたら、なにもかもが掻き消えてしまいそうで。身体中の血が顔面に上ってきたようで、口元や、鼻先に触れる冷たさを、いっそう鮮烈に際立たせる。


 僕はいま、ウリエラと、口づけをしている。


 死者との口づけは、壊れてしまいそうなほど熱く、おかしくなりそうなほど冷たかった。


 陽が上って沈みそうな、一呼吸にも満たない時間は、不意に終わりを告げる。


 熱のない唇が、熱い吐息と共に離れ、胸の上にウリエラの頭が下りてくる。


「ウ、ウリエラ?」


「わ、私の、したいこと、です」


「う、うん」


 両の手が僕の胸元を掴んで、額がぐりぐりと押し付けられる。


「マイロ様、私を求めてください。手放さないように、マイロ様を私に、刻みつけてください。私だけに、なんて言いません。きっと他のみんなも、同じだと思いますから。だ、だから私にも、求めさせてください」


「い、いいけど……いいの……?」


 ウリエラは少しだけ顔を上げると、僕の胸元から上目遣いで見上げてくる。潤んだ赤い瞳が、僕の目を惹きつけて離さなかった。


「私の生前は、弄ばれるうちに終わってしまいました。いつか本当の死が訪れるとしても、そんな記憶のまま終わるのは、いやです」


 あるいはそれこそが、ウリエラが僕と共にいてくれる、最大の理由だったのかもしれない。


 ベッドに手をついて身体を起こし、離れかけたウリエラを抱きしめる。耳元に口を寄せて、囁く。


「なら、約束する。僕のはじめては、ウリエラのものだから」


 ひゅっ。


 息を呑む音が聞こえ、またウリエラの額が、僕の胸に強く強く押し付けられた。


「マイロ、入るぞ。いいか?」


 ノックの音とマズルカの声が聞こえ、弾かれたようにウリエラの身体が離れる。そんなに慌てなくてもいいのに。


「うん、大丈夫だよ」


 寝室の扉が開き、マズルカとポラッカ、それにサーリャが入ってくる。


「どうやら無事なようだな」


「もう、心配したんだからね、おにいちゃん」


「うー……よかったよお、マイロくん……」


 マズルカは普段と変わらず。ポラッカは腰に手を当て、頬を膨らませている。一番ぐずぐずになっているのは、サーリャだった。


「ごめんねみんな、心配かけて。それに、ありがとう」


「礼ならポラッカに言え」


「ここでよかったんだよね、マイロおにいちゃん」


「うん、こうして助かったわけだしね」


 改めて室内を見渡せば、ここはよく知っている家の中だ。


 トオボエ……ブラムが去ったあとの記憶はあいまいなのだが、みんなは僕を運ぶのに、正しい場所を選んでくれたらしい。


 ここは、僕が育った家。ガストニアの外れの墓守の家。


 ということは、彼もいるはずだ。


「あ、起きたんだね! まったく、久しぶりに戻ってきたと思ったら、死にかけてるなんて、びっくりしたんだからね、マイロ!」


 見た目十歳程度の小柄な少年が、ぱたぱたと元気よく駆け込んでくる。相変わらず、変わっていない。ゾンビだから変わりっこないのだけれど。


「ごめんね、それに助けてくれてありがとう。マイロ兄さん」


「どういたしまして! 僕も恩返しができてよかったよ」


 僕とマイロ兄さんの会話に、みなが困惑の視線を向けてくる。そりゃまあ、しょうがないよな。僕だって、他人だったら混乱する自信がある。


「こほん」


 マズルカが咳ばらいをひとつ。


「ウリエラとは話せたか?」


「うん」


 どうやら、気を遣ってくれていたようだ。


「は、はい。その、いろいろ、お、お話しさせて、いただきました」


 ウリエラは俯いて、もじもじと指先をこね合わせている。マズルカもポラッカも、なにか含みのある顔をしているので、たぶん会話の内容は聞かれていた気もするが、言わないでおこう。


「そうか。なら今度は、アタシたちとも話してくれ。ひとつは、これからのこと」


 確かに。


 僕らの間の問題は、トオボエを失ってしまったものの、お互いに気持ちを吐き出しあって解決できたと思う。


 けれど、ウリエラがバルバラ商会を襲撃し、ロドムたちを殺してしまったことは、誤魔化しようのない事実だ。今後の身の振り方を考えなくては。


「もうひとつは、この家のこと、マイロ自身のこれまでのことだ」


 あれ。


「話してないの?」


 兄さんに訊ねると、ふるふると首を横に振った。


「マイロから話したほうがいいと思って」


 言われてみれば、そうかもしれない。みなも、興味津々に僕を見つめている。


「あ、あの、教えてくれませんか? マイロ様のこと、もっと知りたい、です」


 とどめに、ウリエラにそう言われてしまったら、話さないわけなにもいかない。


「わかった。ならまず、僕のことから話そうか。僕がどうして死霊術師になったのか、って話になるんだけど。言っておくけど、あんまり面白い話じゃないよ」


 前置きして、身体の向きを変え、ベッドに腰かける。


 さて、どこから話そうか。

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