第98話:お別れ

 喉元に食らいつこうとするブラムの口蓋を、マズルカは地面すれすれまで身を屈めて掻い潜る。返すように振われたバグ・ナウの爪は、尋常ならざる反射で飛び退いたブラムに躱されてしまう。


「ハッ、やっぱりお前は強いな、トオボエ……!」


 マズルカは立ち上がりながら、好戦的に笑う。マズルカの声に、ブラムが一声吠える。籠められているのは、怒りだろうか。誇りだろうか。


「だって、わたしたちと一緒に戦ってたんだもん! でもこの子は、ブラムはそんなこと、望んでなかったんだね」


 ポラッカが射かけ、サーリャががむしゃらに根の腕を振るう。それだけの攻撃を一身に受けながら、ブラムはわずかな隙を突いて反撃を仕掛けている。


 これだけの勢力差をものともせず。闘志に剥き出しの牙が、容赦なく僕らを狙う。


 いや、正確には、ウリエラのことを。


「こっちを向け、トオボエ……うぁっ!?」


 鼻っ柱を狙って進路を断とうとしたマズルカを、ブラムは、踏み越えた。


「やば、ウリエラ!」


「ひゃっ!」


 術式に集中していたウリエラの手を、咄嗟に引いて牙を避ける。


「こら! こっちに来なさい!」


 続けざまに僕らに飛び掛かろうとしていたブラムの脚に、根の腕が絡みつく。バーゲストの黒い身体が、床を引きずられていく。


「いまだよ!」


「雷よ!」


 サーリャがブラムの身体を放り出すと同時、僕の腕の中でウリエラが術式を走らせ、杖を振う。


 杖の先から迸る、極大の稲光が、ブラムの身体を貫く。だが。


「こ、これでもまだ、動けるんですか……!」


 雷光が晴れたあと、ブラムは、健在だった。わずかにふらついたものの、水を払うように身体を振っただけで、また身を屈めて唸りを上げる。


 ウリエラは、『空白』から尋常でない魔力を引き出しているにもかかわらず、だ。


「とんでもなく魔術耐性が高いのか、同じ『空白』から力を得ているから、相殺されちゃってるのか……」


「なんでもいいから、手を打て! 長引かせればこっちが不利だぞ!」


 マズルカはあちこち、躱しきれなかった攻撃で傷を負っているし、サーリャもかなり枝を食い破られてしまっている。


 トオボエとして僕らと一緒に戦っていたブラムは、強い。こちらの動きも把握しきっている。マズルカもポラッカもサーリャも、紙一重でブラムを抑え込んでいるのだ。戦線がひとたび破られれば、僕もウリエラも一溜りもない。


「や、やっぱり私なんかの力じゃ、犬にすら通じないんですね……」


「落ち込まないでって! むしろあの子を作ったのは、僕とウリエラなんだから! 誇っていいくらいだよ!」


「わ、私と、マイロ様の子……」


「おい! アタシも手を貸してるからな!」


「いまそれどころじゃないってばー!」


 とにかく、少しでも動きを止めなければ。


 アンデッドであるバーゲストは、ゾンビと同じように、肉体の傷にとにかく鈍感だし、まずそもそも、いまの顔ぶれでは有効打を与えることが出来ない。ウリエラの魔術も、ほとんど効果を上げていない。


 僕の呪霊による攻撃が、おそらくは一番有効だ。けれど、ああも素早く動き回られては、狙いをつけることさえままならない。


「どうにか、どうにか少しでも、ブラムの気を引くことが出来れば」


「気を、引く……あ、あの、マイロ様、少し試してみたいことが」


 こういう時のウリエラほど、頼りになる相手なんていない。


「任せてもいい? ウリエラの力が必要だよ」


「ッ~~~……はいッ!」


「みんな、もう少し踏ん張って!」


 マズルカたちの返事を聞きながら、僕も術式を走らせる。


 死者の皮と骨で作られた呪われた手袋に、意識を集中する。近くを漂う魂を捕まえ、憎悪を引き出す。怒りを煽る。呪いを吹き込む。


「思い出せ、思い出せ、怒りを、憎しみを、痛みを思い出せ。食らわせろ。お前の痛みを食らわせろ、お前の憎しみを食らわせろ、お前の怒りを食らわせろ。お前の死を、食らわせろ」


 この辺に漂っている霊魂は、ウリエラの竜牙兵に殺された誰かだろうか。


 僕の隣で、膨大な魔力が渦巻くのを感じる。やがてそれが頂点に達した頃。


「光よ、ねじ曲がれ、形作れ、望む姿を、描き出せ」


 ブラムの目の前で、眩い光が、はじけた。目も開けていられないほどの、すさまじい光だった。何度も瞬きをしても、まだ視界が明滅しているほどだ。


「いったい、なにが」


 前衛のマズルカやサーリャも、やはり目を白黒させている。


 そして、ブラムは。


「あれ、誰……?」


 茫然としたような、ポラッカの呟き。


 ブラムは、動きを止めていた。その前に、誰かが立っている。


 誰だろう。見たことのない女性だ。肩まで伸びた緩やかな茶髪。エプロンを着け、穏やかな笑みを浮かべている。


 本当に、誰だかわからない。けれどブラムは、その姿に見入るように、動きを止めていた。


「マイロ様! いまのうちに!」


 ウリエラに呼ばれ、我に返る。しまった、出遅れた。僕は右手を構えるけれど、ブラムも動き出そうとしている。僕の脚じゃ間に合わない。


「サーリャ!」


「行くよ、マイロくん!」


 根の腕が伸びて、僕を掴む。そのまま、投げた。ブラムに向かって。


「終わりにしよう、ブラム!」


 ブラムが、吠えた。飛び退ろうとした。僕はその横っ面に、右手を叩きこんだ。呪いを帯びた霊魂が弾け、ブラムの魂を、『空白』に歪んだ魂を食い荒らす。


-おぉぉぉぉぉぉ……ん!


 ブラムの遠吠えを聞きながら、僕は地面に落っこちた。


「ぅ、げ……!」


 痛い、でもそれどころじゃない。血が凍える。息ができなくなる。意識が遠のく。記憶が乱れる。失敗した。魂が傷ついた。目が回る。


「マイロ様!」


「マイロ、大丈夫か!」


「おにいちゃん!」


「マイロくん!」


 口々に叫びながら、みんなが駆け寄ってくる。そんなに走ってきて、大丈夫なの? 周りがよく見えない。ブラムは、トオボエは、まだ無事なはずだ。


「トオボエ、は……?」


「トオボエは、ブラムは……」


 かすむ視界の端で、黒い影が蠢くのが見えた。ブラムが、起き上がる。呪霊をもろに喰らって、まだ動けるなんて。


 けれど、ぴんぴんしている、というわけではないのだろう。まだ僕らに唸り声を上げているけれど、どこか覇気がなく、耳もしっぽも垂れている。


 少しずつ、後ずさっていく。


「マイロ、どうする」


 マズルカが険しく、どこか案ずるような声で訊ねてくる。


 もうブラムは、僕らに襲い掛かって来ようする様子はない。怯えているのかもしれないが、それならもう、無理に戦う必要はないだろう。


「行かせて、あげよう。あの子は、望んで僕らの仲間になったわけじゃなかった。ずっと助けてくれたけれど、もう解放してあげるべきだ」


「……いいのか、なにをするかわからないぞ」


「それこそ、あの子の自由だよ」


 だいたい、呪霊を使っても止めきれなかったんじゃ、もう僕に打てる手はない。


 ポラッカが立ち上がり、ブラムに一歩近づく。ブラムは、耳を寝かせ、一歩後ろに下がった。


「いままで、ごめんね、ブラム。ほら、ウリエラおねえちゃん」


「あ、は、はい……」


 ポラッカに促され、ウリエラも立ち上がる。


「ご、ごめんなさい、ブラム。私の勝手で、あなたを、殺してしまって」


 ブラムは、僕らに背を向け、ホールの入り口に向かい始める。途中で、一度だけ振り返った。


「ばいばい、トオボエ! いままでありがとう!」


 ポラッカが手を振ると、ブラムは戸口から駆け出し、中庭を越えて塀の向こうへと駆け去っていく。いつの間にか暗雲も晴れた暗い空に飛び込み、ブラムの姿は、すぐに見えなくなった。


 こうして、トオボエは、僕らの家族だと思っていた一匹は、去っていった。


「……ウリエラ、竜牙兵はまだ残っているのか?」


「あ、い、いえ、さっき杖を取られたときに、術式も解けてしまって」


「なら冒険者や衛兵が来る前に、すぐにここを離れた方がいいな。いまのアタシたちは、バルバラ商会襲撃と、ロドム殺害の実行犯だ」


「そ、だね、早くいかない、と」


 わかってはいる。


 わかってはいるんだけど、力が入らない。


「マイロ様……? マイロ様、どうしたんですか、マイロ様!」


 ウリエラが抱え起こしてくれる、けれど、その感覚もどこか遠い。苦しい。暗い、怖い。気持ち悪い。


「呪詛、返し……相手、を、仕留め損ねた呪霊、は、術者に、返ってくる……」


「な、そんな危険な術だったのか!? なんでそれを早く言わない! サーリャ、治癒を!」


「さっきからかけてるよ! でも、効かないの!」


 効かない。肉体の傷じゃないのだ。魂に、呪いが入り込んでいる。


「あ、ぁ、いや、嫌ですマイロ様、ダメです、死なないでください。どうすれば、私はどうすればいいんですか」


「おにいちゃん、方法は、なにか方法はないの!」


 呪詛を取り除かないと。呪詛祓いが必要だけど、死霊術の分野でもない。魂を安寧に導く儀式が必要だ。でも、そんな儀式を知っているのなんて。


 あ、いる。ひとり。いしきが。


「マイロ」


「え?」


「マイロの、ところに」


 世界が、闇に落ちていった。

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