第97話:黒い犬

 ヤバい。


 直感的に理解する。トオボエの様子は、おかしいなんてものじゃなかった。


 トオボエの肉体であるダイアウルフは、人を乗せたり馬車を曳けるほど大柄で、力持ちの獣だが、それでも地上では、野生で生息している獣の範疇だ。


 額の青灰色の毛だけを残して、漆黒に染まっていく体毛。血のように赤く、炎のように光る目。剥き出しの牙の間から漏れる唸り声。目に見えるものすべてを噛み砕かんばかりの怒りが、湯気のように身体中から立ち上っている。


 どう贔屓目に見ても、真っ当な生き物の姿ではない。


「トオボエ、どうしちゃったのトオボエ!」


 このままじゃ、絶対にヤバい。


「一度死体に戻るんだ、トオボエ!」


 咄嗟にアニメイト・リビングデッドの術式を解いて、トオボエの魂を解放する。これでトオボエは死体に戻る。そうすれば、あとでまた落ち着いた状態で呼び出せる。


 そのはずだった。


「うわっ!」「きゃあッ!」


-おおおおおおおおおおおおぉぉぉ……ん!


 怨念の呻きとも、憎悪の雄たけびとも、悲嘆の嘆きともつかない遠吠えが響き渡り、心臓を凍り付かせた。


 ヤバい、ヤバいヤバい、間違えた!


「ポラッカ、離れて!」


「きゃっ!」


 すぐそばにいたポラッカを弾き飛ばし、変貌したトオボエが駆け出す。狙いは……こっちだ!


「ウリエラ!」


「ひ……ッ!」


 黒い影が、猛然と飛びかかってくる。咄嗟に、ウリエラの上に覆いかぶさって、背を丸めた。


「ぎ……ィッ!」


 背中に、焼けるような激痛が走る。通り過ぎざま、肉を抉られた。ヤバい。痛い。


「マイロ様! そんな、マイロ様!」


「マイロ!」「マイロくん!」「おにいちゃん!」


 痛い。魔術師は鎧なんか着ない。もろに攻撃を受けた。痛い。痛くて呼吸の仕方が分からない。身体から大事なものが抜け落ちていく。


「マイロくん、しっかりして!」


「は、ァ……! はあ、はぁ……!」


 急に呼吸が楽になった。背中の痛みが引いていく。


「そ、か。サーリャは白魔術師、だったね」


 背中に当てられたサーリャの手から、暖かい魔力が流れ込んでくる。一気に力が戻ってくる。彼女の身体全体が、強力な杖そのものだからだろう。すごい治癒力だ。


「そうだよ、もう! 忘れてたの!?」


「ごめん、サーリャに治療してもらうの初めてだったから。それより」


 顔を上げる。


 憎しみに燃える目が、僕らを睨みつけている。


「マイロ。あれは、どういうことだ」


「トオボエはどうしちゃったの、おにいちゃん」


 マズルカもポラッカも、声を震わせているが、もうわかっているはずだ。あれは、もうトオボエじゃない。


「たぶん……たぶんだけど、記憶を取り戻したんだ。死ぬ前の記憶。というより、ウリエラに殺された記憶、なのかな。その怒りや恐怖に、ウリエラの中にある『空白』が干渉した」


 土壇場で見誤った。あれは、もうダイアウルフのゾンビなんかじゃない。術式を解いたのは、失敗だった。


「あれはアンデッドの魔犬、バーゲストだ」


 ホールの中に、唸り声が響く。


「そんな……」


「どうにかならないのか」


「ごめん、僕の力じゃどうにもできない。この場に聖職者がいれば、違ったかもしれないけれど」


 なにより問題なのは、バーゲストと化したトオボエは……いや、ブラム、だったっけ。彼は僕らに、めちゃくちゃ怒っている。


 ブラムの身体が、深く沈み込んだ。


「まずい、来るよ!」


「ポラッカ、構えろ!」


「うん!」


 トオボエが飛びかかってくる。僕はサーリャに、ウリエラはマズルカに抱えられ、散り散りに飛んで躱す。


「ごめんねトオボエ、ううん、ブラム。あなたは、わたしたちの家族になるべき子じゃなかったのに、ずっと無理やり付き合わせちゃってたんだ。そんなの、怒るに決まってるよね」


 ポラッカが後方に飛びながら、ブラムに矢を射かける。正確無比な射撃がブラムを射抜くが、バーゲストは煩わし気に身体を振って、矢を払ってしまう。


「やめなさいってばトオボエ! この!」


 サーリャが根の腕を鞭のように振う。ブラムは素早く飛び退り、驚くべき反射神経で、叩きつけられた瞬間の根に食らいついた。


「えっ、あれっ、きゃああっ!」


 木の棒を咥えて振り回すように、ブラムが頭を振ると、サーリャの身体が投げ捨てられてしまう。とんでもない膂力だ。


 もちろん、サーリャだって簡単にはやられない。すぐに立ち上がり、再び腕を振るう。ポラッカも、駆け回りながらブラムに射かけ続ける。


 二人がブラムを釘付けにしてくれている間に、僕は立ち上がり、ウリエラとマズルカのもとに駆け寄る。バーゲストは、強い。力を合わせないと、止められない。


「マイロ様……申し訳ありません、私のせいで、私のせいでこんな」


「ううん、謝らないでウリエラ。これは、僕のせいでもある」


「違います! 全部、全部私が勝手なことをしたから」


「ウリエラ」


 震える少女の、小さな肩を掴んで、目を覗く。赤い目に、僕の顔が映っている。


「僕は君に、期待してお願いするばかりで、君の望みをきちんと聞いていなかった。君の好意に甘えてた。僕の考えが甘かったんだ。君たちを人形にして、家族ごっこに甘んじてしまっていたんだ」


「マイロ、様」


「これは、僕の責任だ。僕は君たちの死霊術師として、責任を取る。改めてお願いするよ。僕は君たちの主人として、家族として責任を負う。見捨てない。見放さない。君のことが好きだから。だからウリエラ、力を貸して」


 答えに詰まるウリエラと僕の間に、杖が差し出された。


「マズルカさん」


「失敗したなら、もう一度やり直せばいい。それを支えるのも、家族の役目だとアタシは思ってる。あんたがいなければ、アタシはここに居ないんだ。このくらいの反抗期、大目に見るさ」


「反抗期って」


 僕から見ても、ウリエラはまあまあとんでもないことをしでかしているのに、そう言われると、なんだか大したことのない話に思えてしまう。


 小さな手が、おずおずと杖を掴んだ。


「なにを、したらいいですか」


「君の黒魔術で、少しでいい、ブラムの動きを止めて。とどめは僕が刺す」


 右手の、死者の手袋を嵌めなおす。一撃で止められればいいんだけれど。


「……わかり、ました。きっと、マイロ様のお役に立ってみせます。それが私の、望みなので」


 ウリエラは、両の手で杖を握り締め、黒銀の髪の下で赤い目を上げ、しっかりと頷いてくれた。

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