第94話:猟犬トオボエ(2)、あるいは
トオボエはポラッカを背に乗せて走りながら、湧き上がる恐怖を必死で堪える。いまトオボエたちが戦っている相手は、ウリエラだ。敵ではない。はずなのに。
いまは、お互いに声を荒げ、力を振いあっている。どうしてなのか、トオボエには理解が出来なかった。
トオボエは、ずっとウリエラが苦手だった。
ほの暗いダンジョンの石造りの広間で、マイロたちの家族となってからというもの、どうしてもウリエラのことだけは、避け続けていた。
別段、トオボエになにか意地悪をしてくるわけではない。主人であるマイロや、遊んでくれるポラッカたちも、みなウリエラのことを受け入れている。だから、敵ではないことは理解している。
にもかかわらず、ウリエラが近づいてくるとしっぽが丸まってしまうし、背中に乗られると、背筋がわけもなく震えてしまう。
それがどうしてなのか、トオボエにはずっとわからなかった。
けれど、数日前。ポラッカと共に、石の並んだ広場に行ってからというもの。
小さな石の前に捧げられた、黄色い花の匂いを嗅いでからというもの。
ずっとトオボエの中で、なにかがうずいていた。マイロたちと出会った最初の記憶の影に、もう覚えていないはずの思い出が隠れている、そんな気がしてならなかった。
前にあったときよりも、さらに恐ろしい気配を漂わせるウリエラと対峙する中で、疑念はどんどんと確信に変わりつつあった。
それでもトオボエは、ポラッカを背に乗せ、マズルカたちと肩を並べ、マイロを守りながら戦った。恐ろしいウリエラを相手に、吹き飛ばされ、打ちのめされながら戦った。
だけど。
「ポラッカ……それ、どういう意味? ウリエラがトオボエを殺した、って」
ポラッカの叫びが、ホールに静寂を呼んだ。
魔力の本流が途切れ、立ち込める暗雲が、わずかに鳴りを潜める。
「わたしね、この間トオボエと散歩してたときに、聞いたの。花屋さんが飼ってた、ブラムって子犬のこと」
ウリエラの肩が震えたが、トオボエはそれどころではなかった。
ブラム、ブラム。まただ。またその名前が、トオボエの記憶をくすぐる。ブラム、ブラム。誰かの呼ぶ声が聞こえる。
「ブラム?」
マイロが呼ぶ。違う、この声じゃない。
「うん。殺されてたんだって、心臓を抜き取られて」
「まさか、トオボエがそのブラムだというのか?」
マズルカが呼ぶ。この声でもない。
「え、え、どゆこと? トオボエちゃんの心臓は、そのブラムって子のってこと?」
サーリャでもない。違う。違う。
ブラム。ブラム。ずっとずっと大好きだった声は、この中にいない。
混乱が、トオボエを襲った。優しく自分を呼ぶ家族の声は、この中にいない。家族じゃなかったのか? 自分をトオボエと呼ぶ彼らは、家族じゃなかった?
「どうしてウリエラ! 僕は君に、そんなこと頼んでない!」
「どうして? どうしてって……だって私は、マイロ様のお役に立ちたくて」
ああ、でも。
「望んでないって言ってるじゃないか! 僕はただ、一緒にいてくれるだけで」
「そんなわけ、ないじゃないですかッ!」
この声は、覚えている。
「本当の家族でもないのに、そばにいるだけでいいはず、ないじゃないですか! 本当の家族だって、私を売り飛ばしたのに、どうしてなにもできない人間が、マイロ様のおそばにいられるんですか?」
この泣きだしそうな笑顔は、覚えている。
「僕は、君たちと……」
「だったらどうして、私を助けてくれなかったんですか、マイロ様……?」
泣き出しそうな笑顔のウリエラの言葉に、マイロが声を失っている。けれどトオボエは、それどころではない。
『ブラム、もうすぐご飯にするから、少し待っていてね』
優しい声が聞こえる。大好きな声。いつも色とりどりの花に囲まれて、甘い香りに包まれていた声。
小さなブラムを抱き上げて、花の匂いを嗅がせてくれた。ブラムは花の匂いも好きだったが、花々と肥料の匂いが入り混じった彼女の匂いが、なによりも好きだった。
朝と晩は、木の枝を投げて遊んでくれた。食事をするときは、いつもそばで見ていて、夢中で餌を食べている背中を撫でてくれた。
どうしてずっと、忘れていたのだろう。あんなに大好きだったのに。
『ブラム』
大好きなあの人が背を向けた、ほんのわずかな隙に、彼女はブラムを呼んだ。
知らない声だった。黒い服を着た、黒い髪の少女。知らない人間だった。けれど小さなブラムは、誰かを警戒することを知らなかった。
『こ、こっちに来てください、ブラム』
家の庭の柵の向こうから手を伸ばし、ブラムを呼ぶ声。撫でてくれるのかもしれない。撫でられるのは大好きだ。ブラムが近づくと、少女の冷たい手が、頭を撫でてくれる。いつもの手とは違うけれど、悪い気はしなかった。
『ブラム』
冷たい手がブラムを抱き上げ、柵から取り上げた。なにをするつもりなのか、ちっとも分らなかったけれど、ブラムは急に不安になった。
『ああ、よかった。これで、マイロさんのお役に立てます』
そう呟いて、泣きそうな顔で笑う少女の姿に、ブラムは怯えた。もがいて、鳴いて助けを呼ぼうとしたが、間に合わなかった。
そうして、経験したことのない恐怖と苦痛が押し寄せ、ブラムは死んだ。
気が付くとブラムは、トオボエだった。
どうして忘れていたのだろう。どうして彼らを、家族だなんて思い込んでいたのだろう。
ブラムから大好きだったすべてを奪ったのは、こいつらだったのに。
我知らず、牙の間から唸りが漏れる。毛並みが逆立っていく。
「トオボエ? どうしたの、トオボエ?」
ポラッカに呼ばれ、ますます視界が赤く染まる。。
違う、トオボエじゃない。ブラムだ。トオボエなんて名前で呼ぶな。
ブラムの怒りに呼応し、忍び寄る力があった。誰ひとりとして気付かなかったが、それは、ウリエラの魂に巣食う、混沌の力だった。
そうしてトオボエは、ブラムの怒りを取り戻した。
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