第85話:黒魔術師ウリエラ(3)
転移門を抜けた途端、ウリエラの胸に込み上げてきたのは、懐かしさだった。
傾きかけた太陽。柵で囲まれた緑の原に伸びる、山々の黒い影。牛や羊の鳴き声。牧草とたい肥の入り混じった、鼻をつく臭い。
見覚えのある風景、聞き覚えのある音、嗅ぎ覚えのある匂い。ずっと忘れていたはずなのに、たった一歩踏み込んだだけで、記憶が鮮明に蘇ってくる。
「ここ……どうして……」
もう何年も前に離れたきりの生まれ故郷が、転移門の向こうでウリエラを待ち構えていた。
「ほら、行かないんですか? 懐かしい人たちが待っていますよ」
「でも」
どうして私の故郷を知っているんですか。聞こうとして周囲を見ても、アンナの姿はなかった。どこに消えたのだろう。転移門も、もう閉じてしまっている。
いまさらこんなところに来たところで、なにがあるというのだろう。勝手にマイロの傍を離れてしまって、また迷惑をかけているかもしれない。だが帰ろうにも、転移門を開くことも出来ない。ウリエラの力では、まだ一組の門しか開けないのだ。
いくばくか悩んだ末、ウリエラは歩き出す。煌々と灯された明かりに惹かれるように、生まれ育った家へ向けて。
ウリエラがこの農場を離れたのは、もう七年も前のことだ。
二人の兄と歳が離れて生まれたウリエラは、幼い頃から身体が小さく、物心ついてからも、井戸に水を汲みに行くことすらままならない子供だった。農場の仕事を手伝うことなどもってのほかで、家族はそんなウリエラをひどく疎んでいた。
お世辞にも順風満帆な経営とは言えなかった農場では、働き手にならない子供を養っていく余裕などない。
いずれ自分は、どこかへ売られるんだろうな。幼心にそう考えていたウリエラの予想は、十歳になった年に当たったが、買い手はまったく予想だにしない相手だった。
ある日、突然現れた魔術学院からの使者が、ウリエラの魔術師としての適性を見込んで、身柄を引き取ると申し出たのだ。
家族は大喜びで、ウリエラを売り渡した。
当時は悲しかったが、結果的にはよかったと思っている。学院でも疎まれることが多かったが、魔術はウリエラにとって、初めて自分の自由になる力だったし、マイロとも出会うことが出来た。
いまさらこんなところに来たところで、いったいなにがあるというのか。またどうせ、口汚く罵られて、嫌な思いをするだけなのに。アンナはいったい、どういうつもりなのだろう。
そう思いながらも、他に当てもなく、気付けば玄関の前に辿り着いていた。
木戸を叩こうと手を上げて、止める。ノックしたところで、なんと言えばいいのかわからなかった。
「おや?」
「あっ……」
逡巡していると、扉は不意に、内側から開かれた。姿を現したふくよかな肉付きの女性が、戸口に立ち尽くしていたウリエラの存在に目を丸くする。
ウリエラもまた、女性の姿を目にした途端、急速に記憶が刺激される。振り上げられる手、浴びせられる罵声、軽蔑の眼差し。
「おか、お母さん」
ウリエラの母親だった。
「お母さんだって? あんたは……」
つい俯いてしまったウリエラの顔を、母親は怪訝な面持ちで覗き込む。無理もない。ウリエラの容貌は、この家を離れた頃とは変わっている。
対して母親の姿は、ウリエラの記憶にある姿とほとんど変わっていなかった。あるいは、少しやつれたかもしれない。それでも、見間違えるほどではない。
いくらか顔をねめつけて、母親は目を瞠る。
「まさか、ウリエラかい?」
名前を呼ばれ、ウリエラは身体を強張らせる。
「おやまあ! やっと帰ってきたよ! あんたその髪はどうしたんだい? それにしてもまあ、ちっこいままのくせに、すっかりいっぱしの魔術師みたいな恰好しちゃって。ほら入んな入んな! あんたたち、ウリエラが帰ってきたよ!」
「え、あ、う……?」
ところが、身構えていた罵詈雑言は飛んでこなかった。
母親は相手をウリエラと認めるなり、喜色に顔をほころばせ、甲高い声を上げながら、背中を押して家の中に招き入れる。聞いたことのない声。いや、一度だけある。魔術学院の人間が、ウリエラを買い取ると言ったときと同じ声だ。
「おお、ウリエラ! よく戻ったな!」
「なんだよ、いままで連絡のひとつも寄越さないで。いつ帰るのかってずっと待ってたんだぞ」
家の奥から、父や兄も顔を出して、口々にウリエラを歓迎する。混乱したままのウリエラは、あれよあれよと言う間にダイニングに通され、食卓に座らされる。
食卓には、大きな肉がごろごろと入ったシチューが並べられている。いつかここで出されていた記憶の中の食事よりも、ずっと豪勢だ。
「ほら食べな食べな、おなかすいてるだろう?」
母親たちも食卓を囲み、三人揃ってウリエラをじっと見つめてくる。ウリエラは、なにがなんだかわからないままだ。
「あ、の、なんで、私が今日来るって……」
「そりゃあ、学院から報せが来たのさ。あんたがガストニアで、どれだけ活躍してるのかってね! なんとかっていう、一番強い冒険者になったんだろう?」
「ミ、ミスリル級になった、けど」
「そう、それだ! ずいぶん偉くなったみたいじゃないか! で、今日あんたが帰ってくるとも書いてあったんだよ」
母親はえらく得意げな様子で、胸を張ってそう答える。
ますます訳が分からない。学院が学生の家族に対して、いちいちそんな連絡をするはずがない。ましてやウリエラは、正確にはもう学生でも冒険者でもない。あくまでもマイロの所有物として、出入りを許されているだけなのだ。
ただ。
「なあ、魔術ってどんなことが出来るんだよ。火とか点けられるのか?」
「う、うん、それくらいは」
「そりゃあいいや! もういちいち火打石を使う必要もないってわけだ、楽になるな!」
なにか違和感は、ある。
それでも。
「そんなことより、もう食べようじゃないか。ウリエラ、いくらでもおかわりしていいんだからな」
「あ、あの、なんで、私にここまで」
母親たちは顔を見合わせた。そして、ウリエラに向かって笑いかける。
「なんでって、当たり前だろう。俺たちは家族なんだから」
その言葉は、不安と恐れに苛まれていたウリエラの心に、優しく染み渡っていくようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます