第81話:猟犬トオボエ(1)
森の匂いがする。
木々の匂い、樹液の匂い、枯れた落ち葉の匂い、木の実の匂い、土の匂い、動物のフンの匂い、誰かの縄張りを示す匂い、あるいは死骸の匂い。たくさんの匂いが、風に乗って鼻孔をくすぐる。ダンジョンの中とは、違う匂い。
トオボエははしゃいでいた。久方ぶりの新しい刺激が、彼の気持ちを昂らせる。
「あはははっ、速いよトオボエっ」
背中には、大好きなポラッカ。ほかにも家族はいるが、中でもポラッカは、たくさん撫でてくれるし、走り回らせてくれるし、ごはんもくれる。ポラッカはトオボエの、一番の親友だ。
その彼女を背に乗せて、思う存分走り回る。解放感が、トオボエの足をいっそう急かす。今日はいい日だ。どこまでも遠くへ行けそうだった。
「あ、トオボエ待って、これ以上行くと林を出ちゃうかも。目立っちゃダメって言われてるから、林からは出ないようにしようね」
もちろんどこまでもなんて行けるはずもなく、ポラッカに制止され、トオボエは渋々足を止める。
ポラッカは、そんなトオボエから飛び降りると、鼻先に顔を寄せてくる。白い手が、鼻筋と首の下を撫でてくれて、トオボエはしっぽを振った。
「もう、そんなに落ち込まないで。ほら、いっぱい木の棒あるよ。投げるから取ってきて」
ポラッカが傍にあった木の棒を拾う。トオボエはそれに噛みついた。
「あっ、引っ張りっこはダメだって! わたしの力じゃかなわないもん!」
ポラッカは笑いながら、両手で木を握って抵抗する。トオボエが首を振ると、ポラッカは振り回され、耐えきれずに落ち葉の上に転がっていく。トオボエは余計にはしゃいで、倒れたポラッカに飛び掛かった。
「ちょっと、もう、トオボエ! きゃ、あはっ!」
長い舌でポラッカをべろべろと舐める。言葉を持たないトオボエは、全身でポラッカへの愛情を示した。
「ひゃんっ、やだ、トオボエ……ぅんっ」
次第にポラッカからいい匂いがし始めて、トオボエはますます嬉しくなる。
だが不意に、トオボエは舐めるのをやめ、顔を上げた。
「トオボエ? どうしたの?」
しきりに鼻を鳴らし、辺りの匂いを確かめるように嗅ぎまわる。なにかが、鼻をくすぐった。懐かしい匂いだった。大好きだった匂い。
「あ、待ってトオボエ!」
居てもたってもいられず、トオボエは駆けだした。慌ててポラッカが飛び乗り、背中にしがみつく。トオボエは気にもせず、匂いの出所を探して走り続ける。
「トオボエ、どこに行くの? これ以上進んだら、街に近づき過ぎちゃうよ。お願いトオボエ、止まって!」
ポラッカの制止も耳に入らず、トオボエは走る。雑木林が晴れる。視界が広がる。
「ダメだって、トオボエ!」
飛び出た先は、奇妙な広場だった。石塀で囲まれた中に、またたくさんの石が並び、人気はなく、静まり返っている。たくさんの嗅ぎ慣れた匂いがした。マイロから漂ってくるのと、同じ匂いだ。
広場の傍には一軒の家が建っており、その向こうに街の入り口が見える。
「ここ……お墓……?」
困惑したポラッカの声が聞こえたが、トオボエはまだ止まらない。匂いの出所は近い。たくさん石が並んでいるけれど、こっちじゃない。もっと外れの方。
石の並んだ広場を通り過ぎ、トオボエは進む。どこだろう。だんだん匂いは強くなっている。いつも嗅いでいたはずの匂い。大好きだった匂い。忘れていた匂い。
やがて広場の反対側に出ると、囲いの外、大きな木の下に、やはりいくつも石が並んでいる。広場の中よりも、小さな石だった。
その中のひとつに、トオボエは匂いの出所を見つけた。これだ、この匂いだ。
小さな石の前に、花が一輪、添えられている。黄色い花弁を開いた花。匂いのもとは、その花だ。
トオボエは石の前に座り込み、鼻先を花弁の中に突っ込んで、何度も息を吸う。大好きな臭い。大好きだった匂い。たくさん走り回って、たくさん食べて、たくさん撫でてもらった記憶。いまとあんまり変わらない、だけど、この匂いが傍にあった。
「トオボエ、その花が気になったの? これ、誰のお墓なんだろう」
ポラッカが隣で首を傾げているが、トオボエはそれどころではない。自分の中に湧き上がる初めての感情に、彼は困惑していた。トオボエはその感情の扱い方を知らなかった。
「わ、おっきな犬!」
「え、あっ」
不意に、甲高い声が響いて、トオボエとポラッカは慌てて振り返る。
すぐ後ろに、小さな子供がいた。男の子だ。トオボエの姿に目を丸くしている。
「あ、あの、わたしたちは」
「すごいすごい、こんなおっきな犬はじめて見た! お姉さんのペットなの?」
「ええっと、ペットっていうか、家族っていうか」
「家族なの? すごい! ねえ、触ってもいい?」
男の子は物怖じしない性格らしく、手を伸ばしてトオボエに近づいてくる。トオボエはちらりとポラッカを見た。ポラッカは、躊躇いながらも頷いた。
「わああ、もふもふだあ」
トオボエが頭を下げると、男の子は抱き着くようにその鼻先を撫でまわす。悪い気はしなかった。男の子からも、よく嗅ぎ慣れた匂いがしたから。
「ねえ、あなたはここに住んでる子なの?」
「うん、あそこに住んでるよ。えっと、僕のうちははかもりなんだ」
男の子は、広場の傍の家を指さしながら、そう答える。
「それなら、これが誰のお墓なのかわかる?」
ポラッカは、花の添えられた石を指さしながら訊ねた。
「これ? これはね、子犬のブラムのお墓だよ」
懐かしい響きに、トオボエは顔を上げる。でもそれが誰の名前なのか、もうトオボエは覚えていなかった。
「子犬の、ブラム?」
「うん。こっちにあるのは、全部ペットのお墓なんだよ。ブラムは、お花やのお姉さんが飼ってた子犬だったんだって」
「どうして死んじゃったの?」
「誰かにね、殺されちゃったんだって。心臓だけ取り出されて」
「心臓、だけ」
ポラッカはちらりと、トオボエを見た。トオボエの頭は、ポラッカたちの話の内容を理解できるほどには賢くなかったが、無性に心細くなって、ポラッカの手に鼻先を摺り寄せた。
「教えてくれてありがとう、えっと」
「あ、僕はね」
男の子の名前を聞いて、ポラッカは目を瞠る。トオボエは、どうしてその名前が出てくるのか分からず、首を傾げた。
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