第三章
第73話:ダンジョン暮らし
野山で動物を狩るのは、忍耐の仕事だと、マズルカはそう言っていた。
野生の獣というのは、とかく警戒心が強く、聴覚や嗅覚にも優れ、少しでも狩人の気配を察すると、すぐに姿を消してしまうという。
そこで狩人たちは、己のにおいを消し、草陰や泥に潜って息を潜め、自らの存在を限りなく希薄にして獲物を待つ、あるいは忍び寄るそうだ。
ところが、ダンジョンでの狩りは、まったくこの反対だ。
ダンジョンに出現するモンスターたちは、冒険者を見つけた途端、あらゆる野生の本能を忘れて襲い掛かってくる。ゴブリンやトレントのような、生来的に人間に害をなす生物ばかりか、臆病なはずの草食動物までが、あたかも獲物を探すかのように迷宮の中を闊歩している。
たとえ外の樹海によく似た、この第13階層であっても。いままさに、僕らをその凶悪な角で串刺にせんと、棹立ちになっていななく、巨大な牡鹿のように。
「トオボエ、引き倒して!」
ポラッカの声に応え、前脚を振り上げた牡鹿に、トオボエが飛び掛かる。ダイアウルフの大きな顎が胴に食らいつき、勢いをつけて牡鹿を押し倒す。
牡鹿は背中から地面に倒れたが、即座に後ろ脚を振り回し始め、トオボエはいったん距離を取らざるを得ない。
だが、起き上がるまでに一瞬、動きが止まる。射手は、その隙を見逃さない。
「このッ!」
空を切る音。
気付けば、牡鹿の目から、矢が生えている。いつの間にか横手に移動していたポラッカが、牡鹿の立ち上がる瞬間を狙って放った、精密な一撃だ。
身体を手に入れてからというもの、トオボエを練習台に弓の腕を磨いていたポラッカは、もうダンジョンの中で十二分に戦える、立派な狩人になっていた。
彼女の射撃能力は天才的というほかなく、牡鹿の眼球なんていう、僕なんかにはどう動いているのかもわからない小さな的ですら、いとも容易く射抜いてしまう。
眼孔を穿たれ、脳を破壊されれば、さしもの暴れ牡鹿と言えどひとたまりもない。牡鹿は地面を揺らしながら、どうと獣道に崩れ落ちる。
一方で、もうひとつの戦いも、佳境を迎えている。
「おおァッ!」
裂ぱくの気合で鋼鉄の爪を振ったマズルカは、直後に後ろに飛び退いた。瞬きの前までマズルカがいた場所に、爪の付いた剛腕が叩きつけられる。太く、鋭い爪の付いた、毛深い前脚だ。
熊だ。大柄なトオボエよりも、なおひと回り大きい、ブラッドベアとか呼ばれる危険極まりない動物。準備もなく迂闊に出会ってしまうと、熟練の冒険者でも痛手を負いかねない。
そのブラッドベアを、マズルカは単身で引き付けている。
猛烈な勢いで振われる腕を掻い潜り、低い姿勢から繰り出される牙を跳んで躱し、わずかな隙を突いて攻撃を繰り返す。ルーパスの高い身体能力と、マズルカの戦闘センスのなせる業だ。
だが、ブラッドベアの厚い皮と脂肪を貫くには至っていない。ひとつでも間違えれば、マズルカは吹き飛ばされ、あるいは振り回され、戦線は崩れる。
絹糸の上を渡るような攻防を、マズルカは続ける。ほんの十数秒を稼ぐために。
「……雷よ!」
僕のすぐ横で、ウリエラが杖を掲げる。杖の先端が、青白い光を放つ。破裂音。目もくらむような光。杖から奔る雷撃が、弧を描くように降り、ブラッドベアの身体を貫き、打ち据える。
強烈な不意の一撃に、ブラッドベアの身体が揺れる。タフだ、まだ倒れない。けれど動きが止まった。
マズルカが、跳んだ。抉り上げるように拳を振い、バグ・ナウの爪を、ブラッドベアの喉元に叩きこむ。いかなブラッドベアと言えども、喉と首筋の血管を絶たれれば、暴れ続けることは出来ない。
恐ろしいもので、致命的な量の血を流しながらブラッドベアは、なおもマズルカに前脚を振り上げようとした。そして、そのまま横に倒れ、二度と動き出すことはなかった。
「お疲れ様、みんな怪我はない?」
ウリエラ、マズルカ、ポラッカ、それにトオボエ。
危険な獣を危なげなく退治した、心強い家族たちに声をかける。無事だとわかっていても、みんなの声を聞いて確かめたい。それが戦闘終了の合図でもある。
「多少擦り傷が出来たが、問題ない」
「わたしも大丈夫だよー」
トオボエが元気よく吠える。
「マ、マイロ様も、お疲れさまでした」
隣にいたウリエラももちろん無事なので、消費した矢や魔力以外に損害はなし。万々歳だ。
「なにもしてないけどね……」
「そ、それは、あの、これから腕を振るってくださいますから」
戦闘中は相変わらず見ているばっかりの僕だけれど、ウリエラの言う通り、今日は別の仕事もある。
「確かに。んじゃ、僕も働きますかね」
みんなにばかり戦わせて情けない限りだが、死霊術も使うので勘弁してほしい。
僕は牡鹿の死体に歩み寄り、術式を走らせる。エンバーミング。そしてアニメイト・リビングデッド。すると牡鹿の死体は、傀儡ゾンビとなって立ち上がり、僕に従うようになる。
立ち上がると、やはり大きな鹿だ。上背がマズルカよりも高い。
「これだけの体躯なら、しばらくはもちそうだな」
「いっぱいお肉食べられるね」
マズルカが感嘆しながら見上げ、食いしん坊なポラッカが、嬉しそうに跳ねる。
そもそも僕らが今日、留守番を残してダンジョンに繰り出しているのは、食料調達のためだった。
なにせ我が家は、五人と一匹の大所帯だ。いまの家で暮らし始めて一か月ばかり経つが、食料の回転はまあまあ速い。そこで今回は、食糧庫で底をつきそうだった肉を調達するため、鹿狩りにやって来たのだ。
で、僕が傀儡ゾンビにして連れ歩けば、ここで時間をかけて解体する必要も、重たい死体を運ぶ必要もないというわけだ。
「こ、こっちの熊は、どうしますか?」
「熊は雑食だからな、肉はあまり旨くない」
「でも皮がいろいろ使えるから、とりあえず持って帰ろうか。どこを残すかはあとで考えよう。トオボエならお肉も気にせず食べちゃうかもしれないし」
なにかを察したらしいトオボエが、嬉しそうに一声鳴いて、しっぽを振る。気が早いって。
「しかし奇妙なものだな。鹿と熊が、一緒になって襲ってくるとは」
「ダンジョンに出る生き物たちは、モンスターとして生態を歪められてるからね。もう真っ当な動物じゃなくなってるんだ。と、出来た」
ブラッドベアを傀儡ゾンビにしながら、マズルカの言葉に思考を巡らせる。
いったい誰が、なんの目的で、そんな術式をダンジョンに組み込んだのかはわからない。侵入者を防ぐためか、中のものを外に出さないためなか。いずれにしろ、疑問は残る。
だがわからないことを、わからないまま考えても、仕方がない。考察には、材料が必要だ。材料がないいまの段階では、上手く付き合っていくしかない。
「いまの僕らは、この仕組みを利用させてもらうだけだよ」
「……そうだな。狩りそのものは、ずいぶん簡単だ」
そうやってとりあえず飲み込むことも、ダンジョンでは大事だ。魔術師としては、いろいろ究明してみたくはあるんだけれども。
「さ、目的も達したし、帰るとしようか」
いまは後回しだ。
僕らはこうやって、ダンジョンの中で暮らしているのだから。
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